第二楽章・3
彼女が壁に触るな、火傷すると書いていた理由は少し歩いた先で分かった。
壁には無数の配管が走っていた。いや、「走っていた」は違うかもしれない。
壁が配管で埋め尽くされ、配管が壁を成していた。それは曲がりくねって、絡みつき、図鑑などで紹介されているような人間の器官、小腸や脳のように複雑な紋様を描いているかのようだった。管の中は、おそらく高音の蒸気で埋め尽くされているのだろう。
もちろん管に挟まれた通路も汗ばむほどに暑く、一枚上着を脱いだ。
紙を覗き込んだ前髪から、ポタリと汗が落ちる。
袖で紙と額を拭いつつ、僕はもう一度紙に視線を戻した。
『君は、なんでここにいるの? → 私が、ここの管理者だからです。
君は、いつからここに? → 生まれた時からずっと。
生まれた時からって、どういうこと? → そのままの意味ですが』
…………。
自分のことながらというか、自分のことだから余計に、客観的にみると酷いものだった。
さすがに、エイトのこと聞きすぎじゃない?
もうちょっと他のことに興味持てよ!
という「今」の気持ちの変化を経たのか、話を急に違う方向に切り替えていた。
『管理者って言っていたけど、何をしているの? → 管理です。
いや、それは知ってる。具体的には? → 例えば、記録されていないものが入って来た時の排除や、故障時の整備などが主な仕事です。
記録されていない人間? 僕は? → ラック様は、すでに一度ここに来ている方ですから、問題ありません。先ほど、もう一つ声が聞こえましたが、もしあちらの方が許可なく入ってきていれば、排除もしくはお掃除することになります。
えっと、お掃除というのは? → ゴミ箱に捨てることです』
お掃除については、詳しくは聞かなかったようだ。
いい判断だと思うよ、僕。
そして、ルインも。
『整備っていうのは? → 配管が正しく機能していないと、結果がおかしくなってしまいます。なので、定期的に確認して壊れていれば直すのがメインの仕事です。あらかじめどこに不備が出るのかが、不備が発生する前に分かるので簡単です。
どうして、この塔には未来がわかるの? → 計算しているからです。
計算? → 未来に起こりうる事象が、どのような流れとなって現れるのかを確定する前に導き出す、それがここの役目であり、私の親の役目なのです』
親というと、ここには両親などの住み込みで働いているのかなと思った。
そうか。ここで彼女の親と対面するのか。
もう少し、まともな服を引っ張り出してくるべきだったかと慌てて自分の服を気にする。
しかし、気にしたところで、どうにもならないシャツの襟元だけ少し整えた。
『君の親は、数学者か何か? → そう言えるかもしれませんし、そうでないかもしれません。
でも、塔が計算をしている? → そうです。
ちょっとわからなくなってきたな。君の親は、ここにいるの? → います。
わからないなぁ。じゃあ、塔の事を教えて。塔は何をするためにここにあるの? → 来るべき未来のためと言っていました。
来るべき、未来って? → 私も詳しくは教えてもらっていません。ですが、何かが起こるのです。
その日を予知するってことかな? → 予知はすでにされています。が、その時のことは、本当に時期が来てから教えるのだと、わたしは言われています』
何か大変なことが起こるらしいとだけ聞いているのか。
それはそれで怖いことだよな。何かが起こるとだけ言われるって。
彼女の背中を見つめる。まっすぐに立ち、しゃなりしゃなりと綺麗な姿勢で歩いていく。
灯りを向けると、彼女のシルエットが映し出される。
背中から腰に掛けてのラインに自然と目が行き、慌てて灯りと視線を紙に戻す。
『この塔は、どうしてここに存在するの? → 計算の結果、わたしの父というべき人がここに在るべきと、作り上げたからです
父? ここにはもう何百年とあるんだよね? → そうです。何も間違っておりません。一つだけ付け加えるなら、親の親なので、祖父でもあります』
おや?
いや、くだらない冗談でもなんでもなく、不思議な話になってきた。
複雑な家庭環境の話にも。
何かがおかしいのだ……
そういえば、彼女は一度も口を聞いていない。
ねえ、と聞こうとした瞬間だった。
顔を上げれば、彼女は止まっていた。
ちょうど扉の前に来ていたらしい。いや、ちょうどではないのか、完全に予期されたタイミングだったのだろう。もう信じなければならないほど、彼女の動作はあまりに的確であった。
彼女は、メモを差し出していた。
『読み終わりました?』
「いや、最後の質問がまだ」
僕の現在の
確かに、聞くべき問題。
答えを求める問いかけ。
目の前の彼女に最初に聞いておくべきことだったと思う。
なのに、僕は最後にしてしまった。どうしてか。
虞を感じながら、僕はその一文に目を通す。
『なんで全部メモ書きなの?』
その答えは、簡潔だった。
『わたしが、機械だからです』
僕は、あまりのことに
いや、でも、待て。そんなことがあるか?
自分がやって来たことには、多少の自負がある。
どんなに頑張っても、ここまでの物が作れるわけもない。
「嘘だよ。そういうフリをしているんだろ? 声だって聞こえているようだし」
先ほどの紙が裏返されると、こう書かれていた。
『では、証拠を見せましょうか?』
「えっ?」
彼女は手袋を取った。
そこには人間ではない、球体の関節を持った指がある。
ドレスをめくりあげる。「うっ、わっ!」と僕は一瞬目をそらしたが、真っ白な足にも、同じく真っ白な下着との境目にも人とは違う切れ目が存在していた。さらに服はめくり上げられ、彼女は腹部までを僕に見せた。
そこにもまた節が存在し、胸部・腹・腰が完全に違うパーツとなっているのがわかる。
ああ、もうわかった。
彼女は人間ではないのだと。
ここにずっといるのも、時間の計算が合わないのも、すべてそうなのだと理解した。
僕の恋は、始まるまでもなかったようだった。
ドレスの端を口にくわえ、腹部に手を置く。
そこには何もないように見えたが、縦に割れていた臍(へそ)――を模したくぼみだろう――が、急に横になった。肌が、蓋のように外れる。
僕は、彼女の“中”を見た。
そこにはここの壁よりも細い金属の管が通っている。よくわからない、柔軟だが堅そうな紐も通っている。中心にはオルゴール? 細かな突起のついた金属の板がくるくるとゆったり回っている。
彼女は、本当に
僕は、思わず口元を抑えた。
このような人間にしか見えない、そんな機巧があっていいのか。
信じられないという恐怖と、それと同時に興奮を感じていた。
僕は、無意識に震えていた。どちらの震えかは、自分でもわからなかった。
『信じましたか?』
彼女はいつの間にかドレスの裾を戻し、手袋を着け直していた。態度に険があるように思えたのだが……彼女はそそくさと着直し、何も言えなくなってしまった。
「ええ……確かに分かりました」
『では、向こうに参りましょう。最後の質問には、まだ完全に答えておりませんので』
エイトは、僕の右の手を取る。
人のような体温は、やっぱり感じない。
けれど、その手は柔らかく、なぜか心臓の鼓動は強く、そして早くなった。
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