第一楽章・1

 

 

 カチリ。

 

 世界に朝がやって来た音だ。

 真鍮しんちゅう色の尖塔から、内部の歯車が静かに噛み合ったような音が響く。

 それは、ほんのかすかな物音で、ただそれは確かに、

 町の隅々の――路地の裏まで響き渡っていった。


 はじめの一音に、パン屋は手を止めて、塔の方を仰ぎ見た。

 はじめのその音に、これから仕事に出かける整備士は、目をぱちりと見開いた。

 はじめの小さな音に、寝ぼけまなこのロープウェイの運転士は頬を叩いて目を覚ます。

 

 誰もかれもが外に出て、今、静かに次の合図を待った。

 

 

 

 塔の先が、ゆっくりと蕾のように開いていく。

 それはただの鉄塔ではなかった。内部に秘密を隠し持つ、精密な機巧カラクリだ。


 切れ目なく合わさった四本の金属の帯が、何度もねじれて、天高くそびえたつ塔に巻き付いているかのような形をしており、塔の周囲にはどこにも入れる場所はない。

 誰も内部の完全な姿は見たことがなかった。

 この場所に数百年、もういつから立っているかもわからないほど昔から塔はある。

金属塔メダリガルダ』は、ずっとこの地にあった。

 塔の先が、ほんの少しだけ、四つの花弁のように分かれたところで動きは止まる。

 

 シュゥと塔の中から勢いよく蒸気が噴き出す。

 真っ青な空にひかれた白い線は、すぐに風に吹かれて消えてしまう。静かな静寂と、街中の期待。蒸気の合図に、人々は耳を澄ませる。

 

 ドン。

 地の底から、大きな音が聞こえる。

 初めてこの地を訪れた人間は、まるで滅びのはじまりだと誤解するだろう。

 だが、これはただの太鼓の響き。

 徐々にリズミカルな『塔の歌』のベースとなっていく。

 そのリズムに乗せて聞こえるは、ファンファーレ。

 塔そのものが鳴いているような声で、高らかに朝は告げられる。

 街の一日の訪れは、この賑やかな音色で始まった。

 

 さあ、次は。誰もが期待し、塔を見上げた。

 金管は途切れず、華やかに歌うように奏でられる。

 音符は跳ね回り、心地よいフルートやオーボエのように澄んだ音がそれに重なっていく。

 

 混じり合い、

 響き合う。

 街に吹き抜ける風の五線譜に、今日は楽しげな音楽が奏でられた。

 

 曲の終わりまで手を止めていたパン屋は、胸を躍らせ仕事に戻る。

 まだまだ眠そうな整備士は、冷たい水道で顔を洗い始めた。

 ロープウェイの運転士が、今始発の汽笛を鳴らす。

 

 明朗な音色に、みんながそれを期待した。

『今日もいい日になる』

 ただの予感とは違う。

 こんな日は決まって「いい日」になるのだ。

 音符が自分たちの音で跳ね回るような日には、街に幸運が降り注ぐ。

 晴れやかな曲調の日は、なぜか不思議といいことが起きる。当たり前のことだが、誰にでもいいことが起きるわけではない。ただ、その日は一日中幸せに、ハッピーに過ごすことができた。

 

 だから、街の人々は、こう噂をする。

「塔が街の運勢を占っているのだ」と。


 昔は「占いをする塔なんて」と馬鹿にする者が何人かはいたが、最近ではごく僅かになっている。誰もがこっそりと塔の恩恵を受けた。幸運は、決まっていつも誰かの上にそっと降る。


 今日は、いい日になる。

 この街、メルツェベルクの住民たちはそう心でつぶやきつつ、仕事を始めていく。

 音楽は次第に静かになり、ゴオン……ゴオン……と鐘の音が響いている。

『金属塔』の音楽は、そうして幕を閉じた。


 

          ◇


 

 音楽が鳴り終わったなあ。

 と、僕はぼんやりと感じていた。

 だが、それよりも手元の方が大事であった。


 技師の作業の中で最も気を使う部分が、ここだ。組み上げた機関の中でエンジンを始動させる作業。そこが厄介で、危険を伴う。熱源で熱された水蒸気の圧力が、金属で作られた壁の限界を超え破裂するという事故が起きることだってある。

 だからこそ、この作業はひたすらに慎重にやらないと、だ。

 今二つまでは終わらせた。あと一つ。

 

 ふうと息を吐き出す。

 

 だが、いきなり背後のドアが乱暴に開けられた。

「おい。ラック、起きて――」

「おはよ、ルイン」僕は、振り向かず早口で答える。「でも、ちょっと待って」

「また夜通し作業してただろう。寝坊はしないかもしれないが、オマエ、会社で寝てたりはしないだろうな」

「してないって。だから、ちょっとだけ静かにしてて」


 また深く息を吸い込み、すっと息を止める。

 配管はすでにネジで留まっていて、蒸気が間違いなくシリンジへと向かうようになっている。装置や結合に問題はない。ふうとまた息を吐く。すでに熱してあった石炭をテスト用に中に入れる。無骨な装置からの脱却を目指した、オリジナルデザインの一品だ。

 今では人が乗れる機巧カラクリもいくつか発明されているが、それらは安定性が意識されてか、四輪か三輪の車――それも前後どちらかが二輪となっているもの――だけである。それを僕は三つのタイヤを一列に並べ変えてみた。安定性よりも操作性、特にコーナリングを意識しての形だった。

 

 大きな一台のエンジンを積むと重量が上がる問題も、小さいものを三つ、タイヤの中に入れ込むことで馬力を確保した。その分、タイヤは極太に、ほとんど球体のようになってしまっている。だが、球体ゆえにコーナリング性能と安定性も上昇するといういい効果もあった。


 この『自動三輪車は』、新しい乗り物の時代を作り出すものだと自負している。

 タイヤの軸部分あるエンジン一つずつがゆっくりと暖まり、中の水が沸騰してシュンシュンと音を立てる。圧力も高まってきた。ハンドルにつけられたレバーを動かせばバルブが開き、ブシュウと大きな音を立て、エンジン内の圧力が調整される。そこも問題はない。


「大丈夫っぽいな。あとは試乗するだけ」

「まさか、それで会社に行く気じゃないだろうな?」

「それ用に作ったんだけど」


 どうにも、心配そうな目でこちらを見ている。

 いや、それよりルインも、自分のことをどうにかした方がいいと思う。

 昨日とまったく同じシャツに、同じスラックス――髪はボサボサ。

 だらしない格好のわりに、シャツの胸元はしっかりと閉めているが……。最近探偵業への依頼がないからと言って、とてもだらしない、あまりに怠惰な生活をしている。

それはあまりに良くない方への堂々巡りだよな、と。


 ルイン――正確には、ルイン叔父さんは、親代わりの保護者だ。

 僕がまだ4つのころ、父と母は一緒に出かけたまま行方不明になった。その後、僕の面倒を見てくれたのが、母の弟である叔父さんだった。もう11年、来年には両親と過ごした時間の三倍もルインと二人で暮らしていることになる。


「おい。そろそろ遅刻するぞ」

「わかってるって、そもそもこれがどのくらい早いのか知らないでしょ?」

「知らんな。今できたばかりなんだろ?」

「それもそうか」


 計算上では、あと12分ほど寝ていたとしても大丈夫なはずだ。

 でも、これ以上はルインも本気で怒るので、さすがに出発しよう。


「じゃあ、行ってきます。テキトーに頑張ってくるよ」

「オマエ、本当に迷惑かけてないだろうな」

「大丈夫だって。僕、優秀なんだよ」

「……」


 うわ。睨まれた。


「そういうところ、姉さんにそっくりだ」

「それっていいことじゃないの?」

「悪いところが似るっていうんだよ、それは。というか、さっさと仕事に行け」

「ルインも、ちゃんと働くんだよ」


 うるせえ――という叫び声を完全に聞かないままに、僕はマシンのギアを入れて走り出した。ぐんと体に慣性がかかる。思ったよりも馬力もあるし、ローのギアでこれなら、トップスピードは計算よりも期待できそうだ。

 ギアを次の段階に入れる。

 スピードを上げていく。


 

 東の空にある太陽が、隣国の大きな塔で真っ二つに分けられている。

 軍事国家・ダイロン=ザシアの誇る『鐵塔ゾゲイルダ』は、今や皇帝を名乗る元陸軍総帥の宮殿になっているらしい。20年前にクーデタによって誕生した軍事政権ではあるが、その行いは非人道的であり、塔の真下には巨大な軍事施設が広がっていて、国民の人権を無視した労働を強いているとの噂である。なんでも新型の飛行兵器を建造中で、それに躍起になっているとか。表向きには施設の真下を掘り進めて地下資源を採掘し、施設内で大量の金属部品を鋳造しているだけだと発表されてはいるけれど、実際にはなにをしているかわからない。

常に立ち上る煙が、周辺諸国に多くの影を落としていた。


 僕らが住むメルツェベルクは、両側を2つの大国に挟まれている。

 南西に存在するクリナエジス共和国は、広大で暖かく豊かな土地を持つ。その多くが緩やかな丘陵や平地で、古くから農業が盛んに行われてきた。そこで取れた農産物を工業主体のダイロン=ザシアのような国に売って、大きな利益を得ている裕福な国だ。

 ダイロン=ザシアとクリナエジスの領土は、大河・エナシアスにて明確に分けられている。


 川幅は広いが、流れは緩やか。手漕ぎの小舟でも渡れないことはない。

 そんな川が流れている。

 これは、街の歴史だ。


 

 メルツェベルクがどのように生まれたのか。

 もう何百年も前の事だとか。正確な日付はわかっていない。

 河口付近に突然大きな塔がそびえ立ったのだという。川の周囲に集落はなく、いきなり塔ができたものであることを証明するものはいなかった。けれど、塔が出現し、海に漁へ出ていた者がそれを発見したという『言い伝え』が残っている。その者は、前回の漁の時にはなかったと言ったのだと。本当に塔を川の中に作ろうとしたとき、実際の工期は何か月、何年かかっただろう。

 

 もちろん漁師が何か月も仕事をサボっていたわけはないし、海に出ていた漁師は彼一人ではない。それはたしかに「突然」に、河口付近に姿を現したのだ。

『金属塔』――目線の先に、確かにそびえ立つ謎の塔。

 音楽を奏でる塔が、街の起点であり、街の歴史の起点だった。


  

 家のすぐ目の前の大通りに出て、すぐに左へとハンドルを切る。

 僕の家の真横の道を通りながら、僕は海風に促されるように塔へと目を向けた。

 右手には、不揃いで雑多ながら、僕らの街よりも豪華で大きな屋敷が立ち並ぶ。中には、十階や二十階もあるビルディング、会社や工場などもあるが、それでも塔の高さには及ばない。

 高い建物の居並ぶ街を、僕らは第一地区と呼ぶ。

 道を挟んだ僕らが住むところが第二地区で、さらに奥に第三地区がある。

 第一地区には、多くの富裕層が住んでいるが、実際のところ所得差で分けられているわけではない。ただ実際に第一地区が先にでき、そこに住んでいた者たちの子孫が街や技術を発展させ、金持ちになった。それだけの事なのだ。

 

 実際第一地区の成立から、第二地区ができるまでは200年以上の時間が経っている。

 長い年月をかけ、この土地自体が大きな変貌を遂げた。長い時間をかけての土砂の堆積、地震による地盤の隆起、埋め立て工事によって、そこには街が作られるようになった。

 この街は、河の中にある。大河の河口に、だ。

 メルツェベルクは、三角州の上に広がる街なのだ。

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