第48話 滑降する豚

 森本のトレーラーハウスは川のほとりにある。

 俺と二号はその川の水際にしゃがみ込み、何をするわけでもなく、喋るわけでもなく、ただぼんやりとしていた。


 ここ数日間は目まぐるしかった。

 次から次へと信じられないことが起き、何が何だかわからない。


 静かに頭の中を整理しようとするのだが、すればするほど寄せては返す波のように、頭の中にあるイメージが湧いてくる。

 闇の中、向かい風を受けているイメージ、今朝見ていた夢だ。


 それが何度も頭の中に蘇るのだが、見ているうちに朧気ながらも徐々に夢の詳細が見えてきた。

 俺は闇の中、向かい風を受けながら何かに乗って突き進んでいる、疾走しているのだ。


 川のほとりの静寂は、そんな白昼夢を頭の中で反芻するのに、おあつらえ向きの状況だ。

 俺はまるで底なし沼へ引き摺り込まれるようにして、妄想か回想かわからない世界へ潜り込む。


 そんな中、不意にガラスの割れる音が鳴り響き、俺は現実へと引き戻された。

 俺と二号が思わず立ち上がると同時に、トレーラーハウス内からさらに怪鳥音のような悲鳴が聞こえる。

 二号は一目散にトレーラーハウスへと戻り、俺もそれに続く。


「どうした⁉︎」


 と二号が言いながらトレーラーハウスのドアを開けると、室内の光景が眼に飛び込んできた。


 森本とその嫁が対峙している。

 森本の目は血走り、その手には刃渡り30センチは有りそうな出刃包丁が握られ、一方の森本の嫁は顔面を鮮血に染め、断続的に怪鳥音を発している。


「この淫売が淫売が淫売が淫売が淫売が淫売がっ!」


 森本は今にも嫁を刺しそうな危険な雰囲気を発し、嫁へにじり寄る。


「森本さんっ!落ち着こうよ!落ち着いて!」


 と、西松と“仮面”は口々に森本をなだめている。


「どうしたんだよ?」


「奥さんがパリスへ色目を使ってるとかで手をあげたんだよ!」


 俺からの問いに西松が答える。

 一方のパリスは西松と仮面の後ろで薄笑いを浮かべていた。

 この状況においてもパリスはパリスだ。


「森本さんっ!誤解だよ!」


「そんなことはない!そんなことはない!こいつは淫売なんだ淫売なんだ」


 森本の目には尋常ならざる殺意を感じる。

 このままでは刃傷沙汰は確実だ。


「“仮面”、頼む」


 と小声で言うと、“仮面”は一回だけ眼を点滅させ、森本と嫁の間に入る。


「“仮面”、邪魔をするなら


 お前を、殺す」


 森本の殺意めいたものが“仮面”へ向けられる。


「森本さん、落ち着いてください」


 “仮面”は落ち着き払っている。


「黙れ!」


 森本はそう一喝すると、“仮面”との距離を一気に詰め、袈裟懸けに斬りかかる。

 白い光芒が“仮面”の胸に伸びた。


 かのように見えたのだが、次の瞬間には森本の持つ出刃包丁は床に叩き落とされ、森本自身も床に崩れ落ち、すぐさま“仮面”に組み伏せられた。

 “仮面”の改造人間としての高い戦闘力を目の当たりにした瞬間だった。



「あんたは暫く、外にいた方がいい」


 二号のその声に、森本の嫁は怪鳥音を発しながらトレーラーハウスから出ていく。


 森本は“仮面”に組み伏せられたまま、そんな嫁の後ろ姿を眼で追う。

 森本の表情から殺意が消え、次第に顔が紅潮していく。


「みづえ〜〜っ!」


 突然の叫び声がトレーラーハウス内に響く。

 みづえっていうのは森本の嫁の名前か?森本は嫁の名を叫んだ後、大粒の涙をこぼす。


「みづえ〜っ、みづえ〜っ!」


 森本は嫁の名を何度も叫び号泣する。

 混沌そのもののような男から邪気が消え、その泣き叫ぶ様からは悲しみ、何の混じり気のない悲しみという感情を感じた。

 しかし、しかしだなぁ。

 嫁が他の男を見たからって、淫売呼ばわりしてぶん殴ったのだろう。

 しかも出刃包丁を持ち出してきたからな。同情の余地は無い。


「みづえ〜っ!みづえ〜っ!」


 森本が嫁の名を連呼し号泣し始めたことから、“仮面”は森本から拘束を解き、離れた。

 森本は床にうつ伏せになり、顔を腕で隠すようにして号泣、嫁の名を連呼し続ける。


「なんだよ、みっともねぇな」


 西松がそんな森本の様子を見て吐き捨てるように呟いた。

 あぁ、西松の言う通りだ。森本は今、この世界で一番見苦しい野郎だ。



 10分ぐらい経ったのだが、森本はずっと号泣し嫁の名を叫び続けている。

 その声がかなり耳障りなのだ。

 いい加減、うんざりしてきた。

 俺が外へ出ると、二号とパリス、西松も俺に続いて外に出てきた。



「風間。そういえば糞平って奴に連絡するんじゃなかったのか?」


 二号だ。そうだった。

 結局、人類半減化計画についての情報は収穫無しだか、“仮面”の話なら糞平も聞きたいはずだろう。


「そうだったな」


 俺はスマートフォンを取り出し、連載先から糞平の電話番号を出し、それをタップする。


 呼び出し音が鳴る。

 一回、二回…、糞平は出ない。

 七回、八回。まだ出ない。

 ずっと呼び出し音を鳴らしているのだが出ない。


「糞平は電話に出ない」


 2〜3分鳴らした辺りで諦めて切った。

 まぁ、また後でかければいいだろう。

 と思った時、子供がはしゃぐような声が聞こえた。

 何かと思い、それとなく声が聞こえた方を見る。


 西松だ。西松が堤防、土手の上の斜面から下の河原まで潰した段ボールを尻の下に敷いて滑って遊んでいるのだ。

 しかもパリスまでやっている。


「お前ら、子供じゃあるまいし」


 俺の吐き捨てるような一言に西松は思い切りの笑顔を浮かべる。


「代わってやるから、お前らもやってみろよ!楽しいから!」


 そんな西松の様子を見た二号も笑みを浮かべる。


「気分転換にいいだろう。風間、やろうぜ」


 二号はそう言うと、土手の上に向かって斜面を登る。

 気分転換か…、それも悪くないな。

 俺も二号の後に続く。


 土手の上に着くと、二号は西松が使っていた段ボールを受け取り、俺はパリスのを受け取る。


「それじゃあ、先に行くぜ!」


 二号は段ボールを斜面の手前で尻の下に敷き、足で勢いをつけ斜面を滑る。

 二号は歓声を上げながら、かなりの勢いで斜面を滑り降り、あっという間に斜面の下に着いた。


「風間、西松の言う通りだ!お前も早くやってみろよ!」


「よし、わかった」


 俺は手にしていた段ボールを斜面の手前に敷き、その上に尻を下ろす。

 そして足を使って前進する。

 いや、前進しようとしたのだが動かない。びくともしないのだ。

 体重か…、俺が重いせいで段ボールが滑らないのだ。


 その様子を見ていた皆が笑う、大笑いする。二号など腹を抱えて笑っている。


「風間、太り過ぎなんだよ!」


 西松だ、こいつハゲかけのくせに…


「シロタンはあれを使ってみたらいいんじゃない」


 パリスだ。パリスは他の二人のように大笑いはしていないが、いつもの薄笑いを浮かべている。

 パリスはトレーラーハウスの方を指差していた。


「あれって何だよ」


「“仮面”を乗せてきたあれだよ」


 パリスが指差していたものは、トレーラーハウスの外壁に折り畳んで立て掛けてある物だ。

 それは“仮面”を工房から助け出し、運び出す際に使った手押し台車のことだった。

 現地に置いてくればよかったのに、誰かが軽トラックに載せてきたのだ。


「俺が持ってくるよ」


 パリスはそう言うと、土手の斜面を駆け下りていく。


 パリスは若干、息を切らしながら、折り畳んだ手押し台車を持ってきた。

 俺はそれを受け取る。


「おいパリス、それだと勢いつき過ぎて危ないんじゃないか⁉︎」


 西松だ。西松は土手の下から大声で言った。

 西松の警告はごもっともなのだが、不思議とこの手押し台車で斜面を滑りたいという気持ちが勝る。


「ああ!大丈夫だ!心配無い」


 俺は土手の下にいる西松へ返事をすると、手押し台車を地面に置き、持ち手を起こす。

 そして持ち手側を前にして腰掛け、持ち手を握る。

 これなら行ける。行けるぞ。


「よし!行くぞ!」


 と言うと、足を使って斜面に向かって進む。

 斜面に差し掛かると、手押し台車が一気に急加速する。

 猛スピードで斜面を滑り降る。


「あっ、あ〜〜〜〜〜っ!」


 手押し台車は制御不能に突き進む。俺は全身に向かい風を感じる。

 手押し台車は斜面を下り切っても勢いは衰えず、川へ向かって一直線だ。


「あっ、危ない!」


 誰かの声がした。

 俺は足を台車から下ろし、踵を地面に付けブレーキを掛ける。


 踵が地面をえぐり、引きずるような音を立てる。


 もう少しで川に落ちるところでなんとか停止することが出来た。

 間一髪だ。間一髪なのだがな…


「大丈夫か?風間ーっ!」


 誰かの叫ぶ声がした。

 皆が駆けてくる足音が聞こえる。

 俺は台車から降り、踵を返すと


「これだ…、これなんだよパリスっ!」

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