第14話 めくるめく夢とカラオケ
翌朝、俺は近所の総合病院に来ていた。
昨晩の額からの出血は父、烈堂によって麻酔無しで縫合されたのだがな、それはもう今まで味わった事のない痛みだった。
思わず気絶したほどだ。
気絶後、頭から冷水をぶっかけられ無理矢理に意識を戻され、部屋に戻って寝ることになったのだが、布団の中で脱糞したせいで布団は廃棄することとなっていて、仕方なく布団無しで寝たのであった。
そのせいか風邪悪化で病院に来たのである。
内科の前に昨晩の焼肉の油が目に入ったのを眼科で診てもらったのだがな、こっちは幸いなことに何とも無かったことから、ほっと胸を撫で下ろしたところだ。
高熱で意識が朦朧とする中、俺は待合室で自分の番が来るのを待つ。
気が付くと俺はベッドに仰向けで上半身は少しばかり起こされた状態にされていた。
ここはどこだ?俺は待合室で倒れ運ばれたのか?
違う。
俺はまだ待合室にいた。
俺は高熱でうなされているのか?
俺の背後のドアが不意に勢いよく開けられた。
尻が涼しい。
振り返るとそこには高梨、兄の聡の方がそこにいた。
高梨は驚愕に目を見開いている。
しかし、その眼差しは不穏なまでに熱を帯びてくる。
俺はトイレの個室にいた。
和式便所で脱糞中にドアを高梨に開けられたのだ。
「閉めろ、馬鹿野郎」
「ごめんね、詩郎、ごめんね」
高梨は謝りながらもドアを閉めず、じっとりした眼差しで俺の下半身を見ている。
俺は知らず知らずのうちにトイレへ来ていたようだ。
「お尻拭くの手伝おうか?」
高梨は頬を赤らめながらトイレットペーパーを片手に巻く。
「余計なお世話だ。
俺はそこまで太っていない」
俺はやはりまだ待合室にいた。
高熱で幻覚を見ているようだ。
まだ幻覚を見るのか?
辺り一面、俺の視界いっぱいにひまわり畑が広がる。
そのひまわりは俺の背よりも高い。
池袋の駅前にいると男と女のカップルが声を掛けてきた。
男は身体に張り付いたような青いスーツに身を包み、女は巻き髪の派手目な女。
ふと男のベルトのバックルが目に入る。
イタリア製ブランドであることを強調している。
俺は砂漠を歩いている。
蟻の集団が列をなして歩いている。
俺は歩けども歩けども、その集団の先頭にたどり着けない。
俺は爆発の衝撃でマンションの二階から放り出された。
荒地を転がり仰向けに倒れた視線の先に、宙を舞う高梨聡の首を見た。
「高梨っ」
俺はまだ待合室だ。
思わず高梨と言ってしまった。
幸いなことに呟き程度のようだったので誰も俺を見ていない。
目の前をストレッチャーが通り過ぎる。
ストレッチャーには見覚えのある男の顔があった。
名前は思い出せないのだが、高校の同級生だ。
そいつの顔が茶褐色へ変色していく。
これも幻覚か?
いい加減、ここで待つことが苦痛になってきた。
俺はスマートフォンを取り出し時刻を見る。
午前10時55分、待合室に来てだいたい15分ぐらい経ったところか。
「21319番の方、診察室6へお入り下さい」
と自動音声が流れる。
丁度良く俺の番号が呼ばれ、診察室6へ入った。
診察室に置かれた荷物入れの籠に斜め掛け鞄を入れ、丸椅子に腰掛ける。
「今日はどうされました?」
医師からの問いに答えようと、その顔を見ると俺は驚きの余り思わず息を飲む。
医師の顔が父である烈堂と同じだったのだ。
「今日はどうされました?」
最初の問い掛けでは優しげだった医師の声が、父の酒焼け低音デスボイスへと変わっていた。
何も言えない、言えるわけがない。
通常時でさえ父の前では声が出ないのに、こんな予期せぬ状況では余計に声など出るものではない。
「どうしたのかと聞いてるだろう?
何か言ったらどうなんだ」
医師は完全に父と化していた。
父が不意にマイクを俺へ差し出す。
「歌え」
「え?」
差し出されたマイクを手に取ると、診察室が徐々に薄暗いカラオケ室へと変形していく。
こっ、これは…
「私がせっかく家族の為に予約したのだ。
歌え。歌うのだ、この脱糞穀潰し野郎が」
父からの問答無用の圧力に体重170キロが豆腐のように押し潰されそうだ。
だけど俺には歌える曲が無い。
人に聴かせる腕も無い。
しかし歌わなければ何を言われ、何をされるかわからない。
屈辱…、これ以上無いぐらいの屈辱感を味わいながら、俺は歌った。
俺は待合室へ戻っていた。
幻覚だ、これも幻覚だ
俺は現実にも歌っていたようで、周囲の俺を見る視線が痛い、痛過ぎる…
ふとスマートフォンを見ると、時刻は午前10時48分、あれ?さっき10時55分だったはずなのだが、時が戻ったのか?
そんなはずは無いのだがな、もしかしたら、さっき時刻を見たのも幻覚だったのか?
時刻のことは置いておくとして、今の幻覚はただの幻覚ではない。
実際にあった過去の出来事のフラッシュバックだったのだ。
これは俺が高校一年の頃、家族で千葉へ旅行し某ホテルに泊まった時の事であった。
最後の家族旅行ということで、父が何故かホテルのカラオケ室を予約し、そこで俺は嫌々ながらも歌うことを強要されたのだ。
実際には歌った後に父から、[もっと楽しそうに歌え]だの[下手くそ]だの[つまらなそうな顔をするな]だの言われたのだがな。
何故、こんな幻覚を見たのだろうか…
これだけで俺は疲れ果て、もう帰りたい気分だ。
しかし短時間にこれだけの幻覚を見るということは、それだけ俺の病状が深刻なのだろうか、それとも俺の心が壊れてきたのだろうか…
それは杞憂に終わった。
その後、今度こそ幻覚でなく本当に診察の番が回ってきて、医者に幻覚の事を言ったのだがな、[高熱が出るとありがちなことですね]の一言で済まされた。
納得のいくことではないのだが、それ以上に体調は最悪で何も言う気がしない。
俺は処方箋を片手に調剤薬局へ向かい、薬を受け取ると帰路につくことにした。
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