最終章 《1》

翌日、この日は珍しくヤスが学校を休んだ。


昨日の夜、どうなったのかを話す為に電話をしてみたのだが結局ヤスは出ず。


「悪い、明日は休む。」


とだけ書かれたメールがしばらくしてから送られてきて、それを最後に連絡は途絶えた。


とりあえずメールで言っておこうかとも考えたが、やっぱり直接伝えた方が良いだろうと思ってその日は俺からもそれ以上の連絡はしなかった。


机に突っ伏して物思いに耽っていると、登校してきた隣に高橋さんが隣に座る。


「あ、高橋さんおはよ。」


「お、おはようございます!!」


いつものように俺が挨拶をすると、顔を赤くして大慌てで返してきた。


「ど、どうしたの?なんか最初の時みたいだよ?」


「い、いやそんな事…。」


口ではそう否定しているものの、態度がなんだか随分よそよそしい気がする。


「あ、あのね、佐藤君。」


「ん?」


「き、昨日。」


「昨日?」


「ご…ごめん!今日日直だから!」


それだけ言って足早に走り去ってしまう。


昨日?うーん。


俺…高橋さんに何かしたのかなぁ…?


色々思い返してみるも、それらしい事をした覚えが全くない。


そう言えば昨日閉会式の時結局高橋さん戻ってこなかったんだよなぁ…。


あの時何かあったのだろうか?


「なーに辛気臭い顔してんのよ?」


などと思考を続けていると、小池さんが呆れた表情で聞いてきた。


「あ、小池さん。


おはよ。」


「おはよ。


あれ?今日はあいつ居ないの?」


ヤスの席を見て、意外そうに聞いてくる。


「ん、あぁ。


今日は休みだよ。」


「ふーん、珍しい。


あいつ体育祭ではあんなに活躍してたのに。」


「まぁ確かにねー。」


「転けたあんたと違って。」


「う…!い、言い返せない…。」


唐突に現実を突き付けられた。


「冗談よ。


あんただって精一杯頑張ったんだから今更文句を言うつもりはないわよ。」


「あ、ありがとう。


その、あの時も。」


「別に良いわよ。


実際気に入らなかったし。」


「そっか…。」


「それに、私は気に入らなくてもあいつみたいに自分からその気持ちをぶつけられなかったから。


実際私があんな風に言えたのはあいつが先に言ったからだし、私はお礼なんて言われる立場じゃないわよ。」


まぁ確かに、小池さんはヤスがあんな風に言うまで何も言えずに黙っていた。


その理由は俺も分かっている。


いくら気に入らないからとは言え、その気持ちをヤスのようにハッキリ口に出して俺の味方をしたらどうなるのかを考えたからだ。


多分元々クラスに馴染めている方じゃない小池さんが今以上にクラスの奴らと馴染めなくなる。


それが原因でいじめや差別を受ける事になる可能性だってある。


そんな不安があったからこそ、言い出せずにその悔しさを自分の中で噛み締めていたのだろう。


「でも助けたいとは思ってたんだよね?だから、ありがとう。」


だから改めてそう素直にお礼を言った。


「ふ、ふん…あんたってほんっとうに!お人好しよね!


あいつらにまで律儀に頭下げて謝るし。」


「あぁ…まぁ実際俺が悪い訳だし…。」


「だから…そう言うのがお人好しなんだってば…。」


そう言ってため息を吐かれる。


「私さ、あいつが言ってくれて良かったと思ってる。


だからちゃんと思ってる事が言えたし、言えなかったせいであんたがあのままハブられてたら多分後悔してた。」


そう言う口調は真剣その物だった。


「そう思ってもらえるだけで充分嬉しいよ。」


「まぁ…あんたがそう言うなら良いけど…。」


「うん、ありがとう。」


「…それで?あいつは珍しく走ったから休んでる訳?」


再びヤスの机の方に目を向けて言ってくる。


「いや、多分だけどその疲れでとかじゃなさそうだよ。」


「え、じゃあ何よ?風邪とか?」


「そこはよく分かんない。


休むとしか聞いてないし。」


「ふーん。」


こないだはすごく仲悪そうだったのに、一応心配はしてるんだなぁ…。


もしかしたらさっき言ってた事をきっかけに、ちょっとはヤスの事を見直したのかもしれない。


それにしても…。


「うーん…でも、あいつ大丈夫かなー?」


「何?あいつなら大丈夫なんじゃないの?」


「いや、あいつん家片親だからさ。


親父は多分仕事で家に居ないだろうし、今あいつ家に一人だと思うんだよね。」


「…え?」


「もし体調崩してんならちゃんと飯食ってんのかなって。」


「え、それって!本当に大丈夫な訳!?」


俺の言葉を聞いて、机を勢い良く叩いて身を乗り出してくる。


「だ、だよな…。


ヤスって普段あんまり休まないから実例が無いし…。


心配だからちょっと帰りに様子見に行くかなー…。」


実際俺もあいつなら大丈夫だろうと思ってたが、小池さんの反応にちょっと気圧されて心配になってきた。


「わ、私も行く!」


「はへ?」


と、ここで意外な提案をされてついすっとんきょうな声が出る。


「べ、別に良いでしょ!?もし本当に何も食べてなかったらあんた一人じゃ駄目じゃない!!


連れて行きなさいよ!」


そんな俺の反応を見て、顔を真っ赤にしながらヤケクソ気味に言ってくる。


「あ、あぁ…別に良いけど…。」


特に断る理由もなく、了承する。


実際小池さんの料理の腕前は合宿の時も見ているし、実食もしてるから間違いない。


仮に俺だけで行っても精々出来合いの物を温めて出すくらいだ。


お見舞いに同伴してもらうならヤスがそこそこ関わりを持っている人の中ではこれほど最適な人もそういないだろう。


「静!あんたも来なさい!」


俺のその返事を聞くと、今度は黒板を拭いている高橋さんに向き直って声をかける小池さん。


「………え…?ふぇぇぇぇぇぇぇぇ!?わ、わ、わ、私は良いよ!」


それに一瞬なんの事だろうと言う顔をしたが、その後に状況を察したらしく真っ赤な顔で慌てて否定してくる。


分かり易い…。


「あのさ…俺またなんかした…?」


どれだけ思い返しても自分が何かをした心当たりがないのだから、直接聞くのが一番早いだろう。


「そ、そんな…!事ない…!ただ…その…!」


それを慌てて否定しようとしてくれているのは分かる。


でも答えようとして口ごもっていた。


何より今朝からずっと目すら合わせてくれないのだ。


「その?」


明らかに変だ。


だから聞き返してみる。


「な、なんでもない!」


でもそう叫んで走り去ってしまう。


「あー、もぉ…全く…。」


それを見て頭を抱える小池さん。


なんだ…?いくらなんでもおかしいぞ…?


「その…高橋さん…何かあったの?」


訳が分からず、自分でもどうして良いか分からず、とりあえず小池さんに聞いてみる。


「大ありよ!この馬鹿!」


…みたのだが。


唐突に怒られた。


「え!?なんで今俺馬鹿にされたの!?」


「…は?本当に分かんない訳?」


露骨に顔を顰められてもなぁ…。


本気で分からないんだが…。


「うん…その、何があったの?」


「言わない。」


改めて聞くと、わざとらしいくらい深いため息を吐かれる。


と言うか普段のヤスと言い君と言い、らしくじゃなくて絶対わざとやってるよね…?


「な、なんだよそれ…?」


そんな態度に思わず拍子抜けしてしまう。


「これは本来、私じゃなくて静が自分で言わなきゃいけない事だもん。」


それを聞いても意味が分からないと顔に出すと、思いっきり脛を蹴られた。


「ぎゃー!?」


「自分で考えろ!馬鹿!」


それだけ言うと、小池さんは不機嫌そうにさっさと自分の席に戻っていってしまう。


そう言われてもよく分からない。


とりあえず今は、クリティカルヒットしたローキックの痛みでそれどころじゃなかった。


そして放課後。


帰り支度を始めると、小池さんがこちらに歩いてくる。


「その、早くしなさいよ!」


「え、あぁ。」


そう一声かけると、先々行ってしまう。


とりあえず俺も慌ててその後を追いかける。


と、その時。


また一緒に帰る美波と水木の姿が見え、思わず立ち止まった。


実際、水木の突然の告白の後二人がどうなったのかを俺は知らない。


まぁそれは当然な訳だが、背を向けて通り過ぎていく二人の背中はなんとなくお似合いなような気がした。


「ちょっと!ちゃんとついてきなさいよ!」


そのまま見ていたのだが、少し離れた場所からの怒鳴り声で我に返る。


「ご、ごめん。」


慌てて追いかけて謝るも、それに返事さえ返さずに小池さんはまた背を向けて先々歩いていく。


そんな彼女に、学校を出てしばらくしてたまらず声をかける。


「あー、あのさ!その、一応聞くんだけど!」


「何よ?」


大きめな声で呼ぶと、一応振り向いてはくれた。


「俺ら!一緒に帰ってるんだよね…!?」


「だから何!?」


「…遠過ぎない?距離。」


そう…教室を出た時から、彼女はずっと数メートルくらいの距離を保って振り返りもせずに先々前を歩いているのだ。


これは一緒に帰っていると言うよりただ後ろからついていってるだけだ。


「仕方ないじゃない。


あんたなんかと一緒に帰ってるのを誰かに見られでもしたら、私の一生の汚点よ!」


その答えの代わりにと言わんばかりに精一杯の皮肉を言われた。


「そ、そこまで言うか…。」


今はその状態で、後ろから方向を教えながら進んでいると言う状況だ。


そのまましばらく歩いて通学路を離れて見知った顔が見えなくなってくると、ようやく距離がほんの少しだけ縮まった。


それにしても小池さんと二人ってのは初めてだからなんだか新鮮だなぁ。


まぁ…歓迎は目に見えてされてないみたいだけど…。


うーん、でも二人で歩いてるのを誰かに見られても身長差的に兄妹じゃない?ぐらいにしか見られない気がするんだよなぁ…。


言ったら殴られそうだから言わないけど…。


「あいつってさ、滅多に休まないんでしょ?」


しばらくそのまま歩いて少しずつ距離が縮まり、やっと普通に話せるようになると小池さんの方からそう聞いてくる。


「うん、下手したら体調崩してってのは小学校以来。」


「え、そんなになの…?」


さも信じられないと言う表情だ。


「あの時はまだ母さんが生きてたから良かったんだけどな。」


「え!?あいつって…!」


そう、ヤスの母さんはヤスが小四の時に病気で亡くなった。


元々体が弱くて病気がちだった母親の為に、ヤスはいつも家事を手伝ったりして支えようとしていたのだが…。


その努力は実らず、結局母親は亡くなってしまう。


その時あいつはとても悔しがった。


大切な人を守れなかった、と。


それからだ、あいつが本格的にしっかりし始めたのは。


一人で何でもしてしまおうとするようになったのは。


弱音を吐かず、悲しいだろうに涙も流さずに。


葬式の時にはそんなヤスの事情を知らずに鬼だの悪魔だのと皮肉を言う親族も居た。


それでもヤスはけして泣き言も不満も口に出さなかったのだ。


そんな姿を天国に居る母さんに見せたくないからと。


話を聞いて、しばらくそのまま口ごもる小池さん。


「小池さん?」


「な、なんでもない。」


そこから十数分程歩き、ヤスの家がある築何十年のボロアパートに着く。


チャイムを鳴らすが、待ってみても応答は無い。


「あー、多分寝てんのかもな。


知ってると思うけどあいつ一度寝たらマジに起きないし。」


後ろで待っている小池さんに声をかける。


「確かにね…。


でも、どうすんのよ?


まさか、ここまで来てそのまま帰るつもり?」


いかにも不満げな小池さんの問いかけには答えず、慣れた手つきで鍵を開ける。


「………え?は!?え!!?」


「いや…実はさ、俺あいつと付き合いが長いから予備の合鍵を何処に隠してるのか知ってんだよね。」


大袈裟なくらい驚く小池さんに簡単に説明する。


「な…何考えてんのよ!?何そんな事さも当然の事みたいに平然と言ってのけてんのよ!?」


俺から言わせれば普通の事なのだが、関わりが薄い小池さんからすればそんな簡単な説明では納得いかない話らしい。


「うーん、まぁ…あいつも俺が知ってる事知ってるし?」


「大丈夫なの…?この家の防犯セキュリティー…。」


そのままドアを開くと、玄関にはいつもヤスが履いている靴がきちんと並べられていた。


とりあえず家に居るのは間違いない。


遠慮なく家に入る。


「ちょ、ちょっと…本当に大丈夫なの?」


入口から小池さんがそう言って心配そうに聞いてくる。


「大丈夫だよ、いつも普通に入ってるし。」


「絶対そう言う問題じゃない!」


そう叫びつつも、俺がそのまま中に入っていくと、小池さんは渋々後ろからついてくる。


ゆっくり奥へと踏み込んでいくと、段々奥の部屋から寝息が聞こえてきた。


「やっぱり寝てるみたいだな。」


「そ、そうね。」


台所を見る。


ザラッと見ただけではあるが、何かを出した後も、片付けた後もないように見える。


「やっぱり…あいつ何も食べてないんじゃないの…?」


小池さんもそう感じたらしく今更ながら小声で言ってくる。


「みたいだね。


うーん、どうする?」


大体の状況が把握出来たところで、ひとまず今後どうするかを話し合う事にする。


「決まってんでしょ!買い出しにいくわよ!」


「え!?おう!」


「あ、ちなみにお金はあんた持ちだから。」


「え、ちょww」


と、言う訳で…。


きちんと鍵を閉めて鍵を元の場所に隠してから、小池さんと近所のスーパーにやってきた。


「ね、ねぇ…あいつって何が好きなのよ?」


相変わらず前方を先々歩く小池さんが振り向きもせずに聞いてくる。


「あー…あいつあんまり食べ物で好き嫌いとかしないからなぁ…。


あ、辛いのは好きだけど。」


「うん、それは知ってるわ…。


痛感したもの…。」


「あぁね…。」


多分合宿の時とカラオケの時の事だろう。


この様子だとまだ根に持ってるみたいだなぁ…。


「でも風邪引いてるんならお粥とかうどんとか消化の良い物の方が良いわよね。」


「うーん…まぁ、そうだろうね。」


…あれ?そう言えばこれって。


「あ、でもせっかくあんたの奢りなんだしちょっと豪華なのにしようかしら!」


などと物思いに耽っていると、唐突に小池さんがとんでもない事を口走りだした。


「うぐっ…!?ひ、他人事だと思って…!」


「実際他人事だし?」


「は、はっきり言うかね!」


まじまじと小池さんを見る。


うーん…やっぱりなんか…。


「な、何よ!?急に人の顔をじろじろ見て!きっもい!」


「うぐぁっ!」


ストレートな罵声が俺の精神にクリティカルヒットする。


「い、いやそう言うんじゃないよ…。」


なんとかそう返す。


「じゃあどう言うのよ!?言っとくけどあんたなんか眼中にも無いんだから!」


「わ、分かってるって…。」


…分かってたけどはっきり面と向かって言われるとやっぱキツいなぁ…。


俺の場合はまず目線を下げないと視界に入らないって言ったら殴られそうだからやめとこう…。


「ただ、その…実はさ、」


気を取り直してその真意を伝える。


「え、そ、そうなんだ。」


するとさっきまでの刺々しい態度が随分柔らかくなった。


「だからその、協力してくれないかな?」


「ま…まぁ…?こうしてあんたに付き合ってる訳だし?仕方ないから手伝ってあげる…。」


さっきまでの露骨な態度が嘘だと思うぐらい急に丸くなったなぁ…。


まぁ…協力してくれるみたいだし良いや…。


「あ、ありがとう!いやー良かった!」


「ふ、ふん。」


「あ、そうだ…。」


そう言えば高橋さんはどうなったんだろう?


明らかに様子がおかしかったし、さっきも一人で帰っていくのが見えたから心配だった。


「ねぇ、高橋さん今日一人だよね?


なんだか様子おかしかったみたいだけど大丈夫なのかな?」


「へ、へぇ?気になるんだ?」


「え…?そりゃまぁ…友達だし。」


「ふーん…ま、静は大丈夫よ。


ちゃんと手は打ってるから。」


ため息を吐いて何処か納得いかない様子で言ってくる。


「そ、それなら良いけど…。」


うーん…本当になんなんだ…?


「それより、早く買って帰るわよ!あいつが起きる前に支度しないと。」


「あぁ、うん。」


「それに、あんたとこれ以上二人っきりとか耐えられない。」


「うぐっ!」


や、ヤスより容赦ない…。


言い返したいところだが、こないだ助けてもらったしなぁ…。


今回も協力してもらう訳だし…。


ん?でも待てよ?


よし…それならこの状況を利用するか。


「あ、それならさ。


俺アイス買って帰るから先に帰ってなよ。」


「…は?何それ…?私に荷物を持たせるつもり!?」


一瞬拍子抜けした表情をして、それがすぐに怒り顔になる。


「まぁまぁ!後は任せたよー。」


そう強引に押し切ろうとすると、またわざとらしくため息を吐かれた。


「まぁ良いわ…。


早く戻りなさいよ?」


「うん、分かった分かった。」


渋々去っていく小池さんの姿を見送りながら、我ながらよく耐えた…!と心の中で自賛する。


それにしても…。


「上手くいけば良いけど…。」



今日は久しぶりに一人で帰っている。


とぼとぼと通学路を歩きながら、今日の事を思い出してため息。


結果的に、今日は一日佐藤君の事を避ける形になってしまった。


でもこれは嫌いだからと言う訳じゃない。


一度佐藤君の事が好きだと言う事を自覚してしまうと、これまでどうやって接していたのかさえ分からなくなる程に上手く話せなくなってしまったのだ。


それは、最初の時に感じていたような緊張とか人見知りとかそう言う類いの物じゃない。


まず顔が直視出来ない。


なんとか話そうと声を絞り出してみても、小さな声はドキドキが掻き消してしまって届かない。


それに頭の中が真っ白になって何を話して良いかさえも分からない。


どうしてこんな事になったのか?


ただの友達だった筈なのに。


そう思って、これまでやってきた筈なのに。


このままだとまた話せなくなってしまう。


それだけは絶対嫌だ。


なのに、意識してしまう。


すぐにでも話して、誤解を解きたいのに話せない。


だから傷付けてしまう。


そんな自分を許せなくなる。


こんな事なら、好きになんかならなければ良かった。


普通に友達として変わらずずっと話せていたらそれで良かったのに。


そう考えると、また涙が溢れる。


早く帰ろう。


一人で帰るのがこんなにも辛くなるなんて。


佐藤君や摩耶ちゃんと出会うまでは、全然思ってもみなかった。


今頃二人は中川君の家に行ってるのだろう。


自分から断ったのに、それを想像してモヤモヤする。


色んな不安で押し潰されそうになる。


駄目だ、おかしくなりそう。


そのまま家路を急いでいると、いつも合流する場所に恵美ちゃんが立っていた。


「え、恵美ちゃん…。」


「もぉ…なんでそう言う時に限って電話してこないのよ…?」


呆れ顔の恵美ちゃんは、そう言って私の手を掴んだ。


「ご、ごめん…。


でもなんで…?」


「摩耶から全部聞いたのよ。


全く…心配して待ってたんだから…。」


「うん…。」


「ほーら、帰ろ?」


最初こそムッとしていたものの、そう言って笑ってくれた。


「うん…ありがとう…。


ありがとう…。」


安心からまた涙が溢れる。


やっぱりもう、一人になんかなりたくない。


このままじゃ駄目だ。


そう思った。



目が覚めると、包丁で何かを切るトントンと言う音が聞こえてきた。


この音を聞いていると、不意に一時の記憶が脳裏を過る。


それは小学校の時。


まだ母さんが生きていて、今みたいに俺が熱を出して寝込んでいた時の事だ。


その時も目を覚ましたらこんな風に包丁の音が聞こえてきてたっけ。


同時に良い匂いがする。


気になって起き上がり、部屋の扉を開く。


とは言え勿論そこに母さんがいる訳がなく。


台所を覗くと、小池が一人で何かを作っていた。


その後ろ姿に一瞬母さんの面影が映る。


いや、そんな筈ねぇだろ…。


雑念を振り払う。


「…何で居んの?」


ひとまず冷静になり、一番の疑問を投げかける。


「な!何よ!?起きたの!?い、居ちゃ悪い!?」


一方の小池は突然現れた俺に、し過ぎなくらい動揺する。


「いや…悪いだろ…。


不法侵入…。」


「そ、その…佐藤があんたの様子を見にいくって言うから…!」


ちょっと泣きそうな顔で必死に弁明してくる。


それを聞いて思わずため息が出た。


やっぱりあいつか…。


よし、治ったら殴ろう。


「あ…あんたってさ、片親なんでしょ?」


「それもあいつが?」


「そうよ…知らなかった。


あんたがそんな辛い思いしてたなんて。」


うん、やっぱりあいつ殴ろう。


「俺は自分の事をべらべら他人に喋らねぇ主義だからな。


で、何?だから同情した訳?それが嫌だから喋らねぇようにしてたんだが。」


実際それも、群れるのが嫌いな理由の一つだ。


親しくなれば情も湧く。


だから無遠慮で踏み込み、可哀想だの不幸だの言って同情しようとする。


突き放せばそんなの本当の友達じゃないなんてまるで自分は悪くないように振る舞う。


それなら聞かれる事を正当化されるほど親しくならなければ良いと、人付き合いも必要最低限にしてきたのだ。


実際そいつらがする同情は俺の気持ちを全部分かっているからじゃねぇし、所詮はただの勝手な想像だ。


だから好き勝手に解釈する。


そんな好き勝手な解釈でする同情なんていらねぇ。


分かる筈もねぇ気持ちを、無理して分からせようとも思わねぇ。


どうせ小池もそんな風に勝手に解釈しているんだろうと思ったのだが、返ってきた答えは意外なもんだった。


「そんなのじゃない!」



小池は真剣な表情でそう強く言い切った。


「私も…その、片親なの。」


「…は?」


予想外な反応だったから、思わず拍子抜けする。


「私の家は…さ。


お母さんだけ…なんだけど。


まぁ…?それに私の場合はクソ親父が他の女を作って出ていったからだし…。


そもそもあんたとはそうなった状況が全然違うんだけどね…。


でも!片親の大変さはすごくよく分かるから!」


「ふーん…。」


「私はあんたほどしっかりしてない…。


でもあんたは全然そう言う素振りを見せないで一人でちゃんと出来てる…。


だから単純にすごいなって思ったのよ…。


その…尊敬した…と言うか。」


「別に…しっかりしてるつもりはねぇけどな。」


「そ…そんな事ない!私なんかより…よっぽど!」


多分本心なのだろう。


続ける言葉を頭の中で必死に探しているみたいだった。


とは言え、だから素直に認められる訳でもなく。


別に尊敬なんかされたかった訳じゃねぇし、同じ片親だからと言うのも言ってしまえばこじつけだ。


でも大変さは分かる…か。


下手に想像で同情されるよりは良いのかもしれねぇ。


怒る気にはなれず、一度ため息。


「まぁ…ほっとくとやたらめんどくさい奴が身近にいるから、ってのもあるんだろうけどな。」


「え、あー…分かる気がするわ…。」


そう言うとさっきまでの真剣な表情は崩れ、小池は呆れ顔でため息を吐く。


「で?お前は何してんの?」


とりあえずお互いに落ち着いたところで、気になった事を聞いてみた。


「あ、そうよ!あんた、何も食べてないんでしょ?」


「あぁ、熱あったし。


朝は一応食べたけど後は寝てたな。」


「そっか…。


その、うどん作ったから。


卵と、ネギぐらいしか入れてないけど…。」


立ち上る湯気が、甘い出汁の匂いを運んでくる。


あの日も確か、母さんがうどんを作ってくれたんだっけな。


こんな風に具が少ないシンプルなうどんを。


「その、ちゃんと食べて薬飲んでから寝なさいよ!」


そう言うと、小池はミトンを付けてからうどんが入った小鍋を机の上に用意された鍋敷きに置いてくれる。


「まぁ、頂くわ。」


腹も減ってたし、遠慮なく頂く事にする。


小池から差し出された箸を受け取り、とりあえずスープを一口飲む。


「…あったけぇな。


うどんって。」


思わずため息と一緒にそんな言葉が口を衝く。


![b3862132-3642-43f8-a359-0d29b0439374](https://img.estar.jp/public/user_upload/b3862132-3642-43f8-a359-0d29b0439374.jpg)



口の中に広がる甘い風味と熱は、体だけじゃなく心まで温まるようなそんな懐かしさがあった。


あぁ、これだ。


俺が好きだった味。


心配をかけねぇと決めたのに、また食べたいと思ってしまったこの味。


結局その後、もう二度と食べる事は無かった。


別にその気になれば自分で作る事だって出来ただろうに、それをしてしまう自分があまりに惨めに思えたから。


きっと縋ってしまう。


そんな優しさと安心感があるから。


それ無しで生きられなくなる事が怖かった。


だから作らなかった。


終わった事だからと、割り切ろうとした。


「何…?急にどうしたのよ?」


そんな俺を見て、怪訝な表情で聞いてくる。


「別に、なんでもねぇよ。」


だからこそ、そう言ってまた蓋をする。


なんでもねぇ、気のせいだと。


俺にとって、思い出は浸るもんでも縋るもんでもねぇんだ。


「ふーん…。」


「その、ありがとな。」


「え!?」


素直に礼を言うと、分かりやすく動揺された。


「あ、あんたでもありがとうって言葉が言えんのね…。」


「…は?俺はどんな印象だよ…?」


「でも、良かった…。


迷惑とか言われたら本当どうしようかと思った…。」


本当にそう思っていたのだろう。


顔は安心しているが、小刻みに体が震えているのが分かる。


「だから俺はどんな印象なんだよ…。」


それでも勇気を出して作ってくれたうどんを、ゆっくりと味わう事にした。


それから数時間後。


「あれ、ヤス起きてたのか!」


「おう、お前覚悟は出来てんだろうな?」


この言葉の後、アイスを買って戻ってきたあいつを容赦なくボコボコにしてやったのは言うまでもねぇだろう。



佐藤から中川が片親だと聞いて、あぁ…だからかと思った。


前々から、何処か冷めてると言うか一緒にいる佐藤よりよっぽど大人びてるなぁとは思っていた。


多分、片親で育ってきたからこそ自分で自分に厳しくしてきたからなのだろう。


まぁ…実際同じく片親ではあるものの、私はそうはなれなかった訳だが。


そもそも中川にも言ったが、私が片親なのはクソ親父が他の女を作って家を出ていったからだ。


それまでは家族三人仲良く暮らしていたのに。


毎年長期休みには旅行に行ったりもしたし、子供の頃にはよく遊んでもらった。


だから私もお母さんも、クソ親父の事が大好きだったのに。


でもそんな中でクソ親父は、私達の知らない所で他の女と出来ていたのだ。


それを隠して何食わぬ顔で毎日を過ごしていた。


私が大好きだった日常は、全てあいつにとって所詮その片手間でしかなかったのだ。


馬鹿みたいだと思う。


あんなに幸せだった筈なのに。


大好きだったからこそ余計に許せなかった。


裏切られ、見捨てられた事が。


大切だと思っていた人に自分が裏切られたと思い知らされる事も辛かったが、同じく大切な人を傷付けられ、悲しむ姿を見るのはもっと辛い。


なのに何も出来ない自分の無力さを知って悔しくてたまらなかった。


でもお母さんは、こうなったのは全部自分のせいだと言う。


悪いのは全部クソ親父なのに。


そんなお母さんにも苛立ちを覚えて、反抗した時もあった。


そのせいで荒れた事も、見た目のせいでいじめられ、居場所が無くなった時期もあった。


でも今は、色々あったけどお母さんと上手くやれている。


いじめだって、してきた相手を逆にぶん殴ってやった。


クソ親父からは本当にあれから一切音沙汰無いし、今更自分から関わろうとも思わない。


一応、これからはちょっとずつでもお母さんと協力してやっていこうと決めたのだ。


その甲斐あって、最近は状況が前より良くなってきたものの。


それによって受けた傷は深く。


それから私は、恋愛に対する不信感を抱くようになった。


それは単に嫌悪感だけじゃなく、恐怖もあるんだと思う。


自分も同じ運命を辿るかもしれないと言う。


だから私は最初からそんな感情は抱かないと決めた。


こんな風になるのなら、恋愛なんてしないと。


でもだからと言ってその考えを他人に押し付けようとは思わなかった。


実際静が佐藤を好きなのは知ってるし、それを応援したいと思ってる。


私にとっての恋愛は、自分がする物じゃなく人がする物なのだ。


そしてそれは願いでもある。


私の分まで幸せになってほしい。


同じような運命になってほしくない。


それはもし上手くいって幸せになってくれれば、もしかしたら私も恋愛はそんなにも悪い物じゃないのかもしれないと思えるんじゃないかという期待の意味もあるのかもしれない。


まぁもっとも、それは所詮気休めでしかないのだが。


それによって傷が無くなる訳でもないのだろうから。


これまで私は、そんな自分の過去を人に打ち明けてみようとは思わなかった。


まぁ……そもそも打ち明けられるほど親しい友人がいなかったからと言うのもあるのだが…。


うぅ…言ってて悲しくなってきた…。


でも中川には打ち明けて良いかなと思えた。


確かに、自分が不幸だと思った事はある。


どうして自分が、自分ばかりがこんな目に合わなければならないのかと嘆いた事も。


でもだから同情されたかった訳じゃない。


自分がそう思ってるからこそ、同情したのかと聞かれてそんなのじゃないと言いきれた。


言いきってみて分かった。


きっと彼ならちゃんと話を聞いてくれるんだろうなと。


自分がそんな風に言うのだから、勝手な同情なんかしないでちゃんと私の話を聞き入れてくれるのだろうと。


それに気付けただけでも、こうしてお見舞いに来て良かったのかもしれない。


でもこれはあくまでただの尊敬だ。


それ以上でも以下でもない。


やっぱり私にそんな感情は必要ないし、これからもずっとそれは変わらない。




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