第三章《7》

擦りむいた膝は酷く出血していた。


「大丈夫か?」


そのまま持ち場に戻ろうとすると、言いながら橋本が駆け寄ってくる。


「あ…なんとか…。」


「結構酷い傷だな。


そのまま保健室に行け。」


「はい。」


短く返して、仕方なく足を引きずりながら、校舎の方に歩いていく。


今…何が起きたんだ?まだ理解が追い付いていない。


小城にバトンを渡そうとして最後の一踏ん張りをした時、何かに躓いて転んだ事までは覚えているのだが…。


…………何か?そう思った時、考えたくない最悪なその答えが脳裏を過ぎる。


いや…まさかな。


立ち込める悪寒を無理矢理に振り払う。


「かっこ悪っ。」


なんとか校舎の入口まで歩いて中に入ろうとしていると、唐突に背後からそんな皮肉が聞こえてくる。


振り向くと美波が立っていた。


「…ほっとけよ。」


そう返してさっさと行こうとすると、不意に体操服の袖を捕まれた。


「自分だってウチがそう言うてもほっとかんかった癖に。」


「そっ、それは…。」


くぅ…い、言い返せん…!


「ここ、座って。」


どうしたものかと口ごもっていると、美波は入り口前の段差に目を向けた。


「…は?」


突然の要求に思わず拍子抜けする。


「えぇけぇ。」


仕方なく言われた通りにすると、彼女はポケットからあのハンカチを取り出して水道で濡らしてきた。


目の前にしゃがみこんで傷口を拭き、それを足に巻き付ける。


手際の良い手当てに、思わずボーッと見入ってしまう。


![75d08e15-b546-49ec-b4ad-098f04697170](https://img.estar.jp/public/user_upload/75d08e15-b546-49ec-b4ad-098f04697170.jpg)


一方の彼女は手当ての間終始無言かつ無表情で、何を考えているのかも分からなかった。


「ちゃんと返したけぇね。」


「お、おう。」


そして手当てが終わるとそれだけ言って、さっさと走り去ってしまう。


残された俺は、ただ呆然と傷口に巻き付けられたハンカチを眺めていた。


今のは何だったのだろう?


自分が同じようにされる事をあんなに嫌がってたのに。


いや、でもあいつはなんだかんだ抵抗はしなかったんだ。


本当は嫌じゃなかった?今の俺と同じように?


「そんな訳、ないよな…。」


一人ごちる。


そのまま少しの間、美波が去っていった方を見つめていた。



登山合宿の時に春樹から預かったハンカチを、あれからまだ返せとらんかった。


洗濯は合宿から帰ってすぐにしたし、いつでも返せるように鞄には入れとったんじゃけど…。


でも自分から話しかける事も出来んし、返すタイミングなんてある筈もなく。


前のように理沙に頼んだりしたらあの日も露骨に嫌がっとったのに次こそどうなるんか分かったもんじゃない。


いっそ返す必要もないしこのまま捨ててしまおうかとも思った。


でもそれが出来ないから今もこうして持っとる訳で。


あの日まではずっともう二度と口を聞かんくらいに思うとったのに、合宿の時に助けられて以来どうしても気になってしまう。


あいつがウチの事をどう思うとるんか。


何を考えとるんか。


でも聞けん。


モヤモヤする。


ため息が増える。


結局あいつはどうしたいんじゃろう?


もう終わった事なのに。


どうしてこうもきっぱり終わらせてくれんのんか。


そんな事を思いながら憂鬱な気分で迎えた体育祭。


ウチは白組。


あんまり気が乗らんくて、競技にも全く集中出来んかった。


まぁ…元々運動がそんなに得意な訳じゃないし、集中出来とっても活躍しとったかどうかはまた別の話な訳じゃけど…。


そうして迎えたクラス対抗リレー。


ウチのクラスは稔や理沙が出るらしい。


ぼんやりと持ち場からグランドを眺めとると、走者の中にあいつの姿が見えた。


(へぇ…あいつも走るんじゃ。


運動音痴の癖に。)


まぁ、自分も人の事言えん訳じゃけど、こんくらいの皮肉くらい言いとうもなる。


面と向かって口にせんだけでも褒めてもらいたいくらいじゃ。


クラスメートの女子にバトンを渡されて走り出すあいつ。


なんだか息が合うとるなぁと思う。


よく見たらその女子は前にあいつが一緒に帰っとるんを見かけた女子じゃった。


仲がえぇんじゃなぁ。


モヤモヤしそうになって、その気持ちを無理矢理押し込む。


そんなんじゃない、どうでもえぇし。


稔があいつに合わせてわざとペースを調節しながら走っとるんは見とったら分かった。


あいつをよく思うとらんみたいじゃし、張り合うつもりなんじゃろうな。


何も無ければえぇけど…。


と、思ったのも束の間。


ゴール直前で、あいつが盛大に転けとるんが見えた。


その瞬間、一斉に後ろを走っとった人達に抜かれてしまう。


それがただ転けただけなんなら、何やっとん…とただ呆れとっただけかもしれん。


でも、はっきり見てしまった。


稔が足を引っかけとるとこを。


遠巻きに見ても結構酷い傷を負っとったあいつは、ゴールした後に橋本先生に言われて校舎の方に歩いていった。


それを見て、その後を足早に追う。


何故だか自然に体が動いとった。


多分稔があんな事をしたんは自分のせいかもしれんと言う負い目があったからじゃと思う。


でも実際それは建前でしかなかったのかもしれない。


考えるよりもまず先に体が動いていた。


何故だかそうせずにはおれんかった。


もしかしてあの時のあいつもそうじゃったんかな…。


あいつの足に濡らしたハンカチを縛りつけてから、ちゃんと返したけぇとだけ言ってその場を離れた。


「どこ行っとったんじゃ?」


持ち場に戻ると、稔が聞いてくる。


「いや、ちょっとお手洗いに…。」


「ふーん。」


本当はどうしてあんな事をしたのかとすぐにでも問い詰めたかった。


でも怖くてそれが出来んかった。



走り終わった私は、持ち場から佐藤君と水木君が後ろの二人を引き離して接戦を繰り広げている様子を見ていた。


そしてやっと小城君とバトンタッチと言う所で、想定外のアクシデントが起こる。


佐藤君が転けたのだ。


足の傷は遠巻きに見てもよく分かるぐらい酷く、先生に言われてそのまま保健室に歩いていく姿が見えた。


心配になった私は、一緒に行ってあげようと思ってその後を追う。


校舎の入り口近くに着くと、入り口前の段差に腰かけている佐藤君を見付けた。


「あ、佐藤君!」


そう呼ぼうとしてやめる。


佐藤君に歩み寄って、手当てをする他のクラスの女子の姿が見えたからだ。


思わずその場から立ち去る。


何故だか見ていられなくて、走り去る間も涙が止まらなかった。



一応保健室でやり変えてもらい、足を引きずりながらも持ち場に戻る。


なんとか戻ってきた俺を見ると、辺りはざわつき始めた。


結果はどうやら三位。


いくら小城でも、あの状況では一人を抜くのが精一杯だったらしい。


むしろ強豪揃いのアンカー戦なのだ。


あの不利な状況の中で一人でも抜けたのがすごいくらいだろう。


クラスの皆からの視線が一斉に容赦なく向けられる。


「あそこであいつが転けなければなー。」


「本当、マジあり得ない!」


同時に容赦ない批難の声が次々と浴びせられる。


それに対して俺は何も言い返せなかった。


実際、最初から分かっていた事だ。


このリレーに出る事がどんなに責任重大な事なのか。


そんな状況で転けたのだから責められても当然なのだ。


だから言い返す言葉なんて当然ある筈もない訳で。


「確かにこいつが転けなければ一位になれてたかもしれないな。」


そのまま何も言えずにいると、ここでヤスが面倒臭そうに呟いた。


「うっ…。」


まぁそうだけど…。


実際そうだけど…。


お前までそんなにはっきり言うのかよ…。


その呟きで、空気は更に悪化する。


「だろ?どうすんだよー?」


一斉に睨まれ、更に何も言い返せなくなる。


いっそもう土下座でもするしかないのかと思ったところで、ヤスはまた深くため息を吐いた。


「…でもよ。


一緒に走った俺達が文句を言うんならともかく、立候補もしない、他の奴に任せるだけで走ろうともしない、そんなお前らが精一杯全力で走ったこいつの事を悪く言うのは違うんじゃねぇの?」


「んなっ…!?」


最初に言い出した男子が口ごもる。


「そ…そうよ!そこまで言うんなら最初からあんた達が走れば良かったじゃない!!」


ここでさっきまで気まずそうな表情で黙っていた小池さんも反論してくれた。


とは言えそれには相当勇気が必要だったのだろう。


その手は微かに震えていた。


二人の反論に、辺りがしんとする。


「わ、悪かったよ。」


そんな空気で居心地が悪くなったのか、最初に言い出した男子が謝ってきた。


周りも気まずそうな雰囲気になり、それ以上は何も言おうとはしない。


「ごめん…皆。


俺が転けたせいで。」


とは言え、俺のせいと言うのは間違いないのだ。


だから精一杯頭を下げて謝る。


「ま、こんな事もあんだろ。」


それにヤスは頭を掻きながら返す。


「ま、一応あんたも最後までは良い勝負してたしね。」


一方の小池さんは、周りの反応を見てさっきまでの怖さも収まったのだろう。


いつも通り皮肉を言ってくる。


「うぐっ…も、申し訳ない…。


小城もごめん。」


「あ、あぁ。」


黙って見ていた小城にも改めて謝ると、どこか歯切れの悪い返事を返してくる。


「小城?」


「なぁ…佐藤、ちょっと後で話があるんだが。」


「え、おう…。」


そう言えば高橋さんの姿が見えないな…?どうしたんだろ?


その後、閉会式が終わってから小城に体育館裏まで呼び出された。


「どうしたんだよ?」


そう聞きつつも、小城が何を言いたいのかはなんとなく察していた。


「いや…実は…さ。


俺見たんだよ。


水木が足を引っかけてるとこを。」


「…やっぱりか。」


本人はさりげなく周りに見えないようにやったつもりなのだろう。


でもバトンを受け取る為にこちらを見ていた小城にはそれがはっきりと見えていた。


「悪い…。


さっき皆の前で俺がそれをちゃんと言えてればあんなにお前が責められる事もなかっただろうに…。」


言いながら本当に申し訳なさそうに頭を下げてくる。


「いや…良いから…頭を上げろって。


どっちみち俺の不注意でもあるんだし。」


「本当に悪い…。


お前が言えって言うんなら今からでも皆に話してくるけど…。」


「いや…だから別に良いって。


もうヤスと小池さんがフォローしてくれたおかげで収まったんだし。


それに変にあいつの名前を出して話をこれ以上大きくしない方が良い。」


「そっか…お前がそう言うなら良いんだけど…。」


「なるほど、そう言う事か。」


「あ、ヤス…。」


不意に背後からヤスが声をかけてくる。


「悪い、別に盗み聞きするつもりはなかったんだが。」


「いや、良いよ。」


一瞥するヤスに小城は短くそう返す。


「話を聞く限りどうやら水木はお前と張り合う為なら手段を選らぶつもりはねぇみたいだな。」


今度は俺の方に向き直り、言ってくる。


「そう…だな。」


「そう考えたら多分これはあいつからの宣戦布告と取るべきだろうな。


意地でもこのままで終わらせないつもりだぜ、あれは。」


それに小城が口を挟む。


「だろうな。


おい、この事実を聞いてお前はどうすんだよ?」


「…なぁ、ヤス。」


「あ?」


「最初はさ、ただの勘違いだって思ってたし、そう思おうとしてたんだ。


でもそうやって時間を重ねて、色んな事があって。


たまに分からなくなる時があってさ。


本当にただの勘違いなのかって。


だから今まで、自分が美波に感じていた気持ちの名前を考えてきた。


でも、早く答えを出さなきゃって思うと余計に分からなくなる。


だから、正直どうして良いか分からないんだ。」


そう言ってうつ向くと、深いため息を吐かれた。


「お前は別に最初から分からなかった訳じゃねぇだろうが。」


「…え?」


「失恋して、自分の積み重ねて来た物を疑って、他人や環境にも否定されて。


だから勘違いだって自分までその答えを否定して。


そのせいで本当の答えに自信が持てなくなっただけだ。


前にも言っただろ?結局お前がそうだと思うならそうなんだって。


どんな完璧な答えでも自分が違うんだって否定しちしまったら自分の中では間違いになる。


結局全部お前次第なんだよ。」


言われてあれだけ分からなかった事も腑に落ちた。


俺次第…か。


「もう許してやれよ。


自分の気持ちを、その名前で呼ぶ事を。」


「そうだな…。」


俺はただ自信がなかっただけ。


あんなに美波を傷付けておいて、その罪悪感もあって。


だから自分の気持ちに、その名前を付ける事が許せなかっただけ。


だからそれ以外の名前を探していただけ。


本当は分かっていた筈なのに。


ほっといてと言われてもほっとけなかった理由も、お互い誕生日プレゼントを大事に持ってた理由も、別れて沢山の事を感じた理由も。


さっき手当てしてもらってる時に見入ってしまった理由も。


気付けるキッカケなんてこれまでいくらでもあった筈なのに。


いつも気付かないふりばかりしていた。


俺、やっぱり美波の事が…。


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