第二章《3》



来た道を戻ってから少し歩いた所にハンカチは落ちていた。


「良かった…。


そうだ、この辺りで汗を拭いたんだ。」


再びポケットにそれを入れ、そのまま来た道を戻ろうとすると、その近くで背を向けて道にしゃがみこんでいる美波の姿が見えた。


「…何してんの?」


俺がそう言って近付くと、ビクりと一度肩を震わせてからこちらを見てくる。


「なんで居るんよ…。」


当然だが歓迎はされてない。


向けられているのは明らかな敵意だ。


だからその言葉も質問ではなく文句と言う表現の方が正しい。


「いや…俺はちょっと探し物してただけだって…。


てか…!怪我してんじゃん!」


近付くと膝から血が出ているのが見えた。


恐らく状況から察するに足場が悪いから転けたのだろう。


「別に関係ないじゃろ…。


ほっといてよ。」


破れたジャージから見える膝は、酷く皮が剥けていてとても痛々しい。


結構酷い傷だし、強がっているのは目に見えて分かる。


それを見てショルダーバッグからペットボトルを取り出す。


「ちょっと染みるぞ?」


「え、ちょ…何しとるん!?」


ジャージのズボンを捲り上げ、その中のお茶を美波の膝の傷に少しかける。


「なんかで聞いたんだ。


お茶に含まれてるタンニンには殺菌作用があるって。」


「じゃけぇって…。」


そして、残ったお茶をさっきポケットに入れた物に染み込ませた。


「それ…!」


「あぁ、これか。」


それは、一年前の誕生日に美波から貰ったプレゼント。


青色の少し大きめなハンカチだ。


「なんでまだ持っとるんよ…?」


言いながら睨みつけてくる。


「誰かさんから貰った大事な物だからな。」


そんなのお構いなしに、そう言いながらハンカチを美波の膝に当てる。


「意味分からん…!


そんな大事な物なんじゃったら手放すな…!」


「はいはい。」


それを結び付けながら、適当な返事をする。


「大体そんな大事な物をこんな事に使うな…!」


そう言う風に言葉で拒んではいても、強く抵抗はしてこなかった。


だからそのまま手当てを進めていく。


「だからさ、その…洗って返せよな。


…よし、これでオッケーっと。


ジャージは濡れるからこのまま捲っとけよ。」


「…意味分からんし…。」


「それよりなんでまた戻って来たんだよ?


こんな怪我してまで。」


「別にえぇじゃろ!


関係ないじゃん…!」


一瞬しおらしくなったと思ったのだが、それもすぐに刺々しい態度に戻った。


これは素直に教えてくれる感じではなさそうだな…。


ただ聞いておいてなんだが、美波が戻って来た理由は何となく分かっていた。


実際に俺が戻って来た理由がそうだった訳だし。


「…ん。」


そう思い、背中を向けてしゃがみ込む。


「ばっ…!?馬鹿じゃないん!?」


そのまま後ろ手で手招きすると、思いっきり怒鳴られた。


それに耳を塞ぐ。


「あー…うるさいうるさい…。


お前、なんか落としたんだろ?


わざわざ怪我してまで探しに来るぐらい大切な物を。


その足じゃどうせ探せないだろうから手伝ってやるって言ってんの。」


「えぇってば!なんでそんなに構うん!?


もうほっといてって言うとるのに…!」


そう言う声は荒い。


必死とも言えた。


「ほっとける訳ないだろ!」


だからかそう返す声まで荒くなってしまう。


「っ…!」


それに美波は小さく肩を震わせた。


「このままほっとくなんて出来ない。


多分ずっと後悔する。」


そう思うのは、多分それが美波だからではない。


そもそも元カノだから、なんて言っていられる状況じゃないだろう。


今彼女をこのままほうっておいたらどうなるかなんて、普通に考えれば分かる話だ。


「意味分からんし…。」


そう返す声はとても弱々しい。


「乗らないんなら俺が探すからその辺りに座ってろよ。」


「え、えぇよ!


その…乗るけぇ…。」


立ち上がって来た道を戻ろうとすると、諦めたようにため息を吐いてからそう俺を呼び止めてくる。


「お、おう。」


再びしゃがむと、一瞬ためらいを見せつつも美波は背中に乗ってきた。


空気はやっぱり気まずい。


でも何処となく懐かしさがある。


背中から伝わる彼女の小さな呼吸の音とか体温とか微かな重みが、今自分がしている事への実感を湧かせる。


「お、重いとか言ったら首絞めるけぇ…!」


「い、言わないって…。」


後ろ向きの形になる俺には、彼女の表情が見えない。


今彼女はどんな表情をしているのだろう?


多分露骨に嫌な顔されてるんだろうなぁ…。


まぁ本来は許される事じゃなんだし、仕方ない事ではあるのだが。


でも、それが分かっていても助けると決めたんだ。


そのままゆっくりと進み始める。




「無い…。」


山から降りた後、自由時間になってからポケットに入れとった筈の大事な物が無くなっとるのに気付いた。


「美波?どうかした?」


それに戸惑うとると、気付いた理沙が声をかけてくる。


「ごめん…ウチちょっと用事が出来た。


すぐ戻るけぇ、ちょっと待っといてくれん?」


「用事…?


私も行こうか?」


「え、良いよ。


すぐじゃし大丈夫!」


「ふーん…まぁ良いや。


行ってらっしゃい。」


一瞬不審な表情を向けてはきたものの、それ以上は何も言ってこなかった。


足早に元来た道を戻る。


でもその途中にさっきまでの登山で疲れとったからもあってか足場の悪い地面で足を滑らせて盛大に転けてしまった。


その拍子に足を捻ってしまい、あまりの痛さにしゃがみ込む。


ジャージのズボンは破れてしまっていて、そこから覗く膝には結構酷い傷が出来て出血しとった。


この状態じゃしばらく立てそうにない。


どうしよう。


やっぱり理沙に付いてきてもらえば良かったと今更後悔しても遅い。


どうしようか困ってパニックに陥っとると、意外な人が声をかけてくる。


春樹じゃった。


春樹はウチの傷を見ると、手際良く手当てをしてくれる。


それが嫌な筈なのに、何故か嬉しくて抵抗は出来んかった。


どうしてほっといてくれんのんじゃろう?


ウチの事、好きじゃない癖に。


その優しさがどれだけウチを苦しめるんか分かりもせん癖に。


春樹が手当てに使うつこうとったバンダナは誕生日にウチがプレゼントした物だ。


いつか一緒に料理とかしてみたいなぁと思って渡したんじゃけど…。


でも春樹はそれをハンカチじゃと思うとって、ならそれでえぇよと言う事にした。


それを大事な物だからと言うてくれた時、嬉しくない筈なのに嬉しかった。


ならこんな事に使うなって言うたら、洗って返せよな、なんて言う。


意味が分からん。


その上、おぶって探すのを手伝うなんて言い出すのだ。


流石にこれには我慢出来んくなってほっといてと強く言うと、ほっとける訳ないと怒鳴られた。


本当は分かっとるつもりじゃった。


春樹がケガした人をほっとけるような薄情な人間じゃないって事ぐらい。


やっぱりそう言うとこは…変わっとらんなぁ…。


無鉄砲なのも相変わらず。


ありがた迷惑な筈なのに、それが不思議と嫌じゃない自分が嫌になる。


ドキドキしてしもうとる自分が。


期待しちゃ駄目なのに。


もう好きになっちゃ駄目なのに。


赤くなった顔を見られたくなくて目を反らす。


「こんなとこ、新しい彼女に見られたらなんて思われるじゃろうね…。」


背後から澄ました顔でウチをおぶって歩く姿を見とると、思わず憎たらしくなって皮肉を言うてやる。


「は?別にいないよ、そんなの。」


それに呆れた感じの声で返してくる。


「この前女子と二人で歩いとった癖に…。」


「なんだ、見てたのかよ?ただのクラスメイトだって。


それにお前だってそうだろ?別に関係ないじゃん。」


「ふーん。」


確かに関係ない。


気にしちゃいけん事も知っとる。


でもなんとなく聞かずにはおれんかった。


こうして聞けるんも多分今だけじゃし。


もうこれ以上関わっちゃいけんのんじゃし。



それ以降はお互いに何も言わなかった。


と、言うより何も言えなかった。


話したかった事は一杯あった筈だけど、それは今の美波にしたい話じゃない。


したところであの日みたいに喜んで聞いてくれたりはしないだろう。


お互い何も言わず、当ても無く山道を探し回る。


暑さと足場の悪さで進むペースはゆっくりだが、それでも足を止めずに慎重に歩を進めていく。


「そもそも何を探してんだよ?」


確かに話す事はないけど、流石にそれだけは聞かなければなるまい。


「教えたくない…。」


なのに美波はそう言って口をつぐむのだ。


「なんだよそれ…。


迷宮入りじゃん。」


「ウチが探すけぇ。


ううん、ウチが探さんといけんの。」


「ふーん。」


意地でも教えないつもりらしい。


このまま聞いても答えなさそうだし、諦めて黙ったまま歩を進める。


「あ、あった!」


と、そこで美波が唐突にそう叫んで俺のジャージの袖を引いてくる。


慌てて降りようとするからゆっくり降ろすと、それをそのままの勢いで慌ただしく手で掴んですぐに隠してしまう。


でも同じ方向を見ていた俺には当然それが何か見えていた。


その見覚えのあり過ぎる腕時計が。


「なんだよ、お前だって持ってんじゃん。」


お返しとばかりに皮肉を言ってやる。


「別にえぇじゃん…。


デザインが気に入っとるけぇ使うとるだけじゃし…。」


それに美波は弱々しくそう返す。


「ふーん、でもそれをわざわざ怪我してまで探しに来たんだろ?」


「っ…!」


更に踏み込んで皮肉を言うと、分かりやすく口ごもる。


まさかまだ大事に持ってくれていたなんて思わなかった。


とっくに捨てられてるだろうなと思ってたのに。


渡した途端にすぐに付けて、可愛いと大喜びしてくれた黒猫の模様が入ったおしゃれな腕時計。


彼女は今も、あの時と同じ気持ちなのだろうか?


だからまだ持っててくれてるのだろうか?


いや、そんな筈ない。


俺が感じてるこれだって勘違いだし、もう嫌われてるんだからと何度も言い聞かせてきたじゃないか。


やっぱり俺には分からない。


美波がまだそれを持っていた理由も、同じように自分自身が持っていた理由も。



無言の時間が流れる。


こんなに近くに居るのに。


一年前じゃったら想像も出来んかったこの感じ。


話したい事は、話せんくなった時に捨ててきた筈なのに。


今になって溢れ出すのはなんでじゃろう?


お互い無言のままゆっくり進んどると、道端に落ちとったそれに気付く。


それは付けとる所を見られたくなくて、いつもポケットに隠しとったお気に入りの腕時計。


誰かさんから貰った最初で最後の誕生日プレゼントだ。


気付かれたくなくてすぐに手で隠したけど、結局気付かれてしまった。


捨てようと思った事もあったけど、結局捨てられずにずっとポケットに入れとった腕時計。


かっこつけて小遣いを前借りしてまでして買ってきてくれたらしい。


見つかって良かった。


ぎゅっと強く握り締める。


お互いに初めての誕生日プレゼントを大事にしとったと知って嬉しい反面、余計に分からんくなる。


やっぱりウチは、春樹の事を全然知らんかったんかもしれん。


何を考えとるのかが分からん。


ウチの事をどう思っとるんかも。


もうどうでもえぇんかと思うとったのに。


今もこうして知らんかった顔をして優しくしてくれとる彼の事が分からん。


ウチの気持ちも、今どうしたいのかも分からんくなる。


いけん事なのに。


あんなにも憤りを感じて、もう関わらんって決めとった筈なのに。


もうどうしたらえぇんか分からん。


「もうえぇよ、降ろして。」


流石に、今の状態を他の人に見られるんはまずい。


もう別れとるのに後でどんな噂を立てられるか分かったもんじゃない。


「あぁ、そうか…。」


春樹も聞いてそれを察したのか、木陰を見付けてそこで降ろしてくれる。


「ちょっと待ってろ。」


それだけ言って、そのまま走り去ってしまう。


あぁ、行ってしまう。


また遠くに行ってしまう。


これで良かったのに。


もう関わらなくてえぇ、そうしたかった筈なのに。


なのに、こんなにも胸が痛むのはなんでじゃろう?


その背中を追いかけたくなるんは。


じゃけぇ今だけは足が痛くて良かったとさえ思うてしまう。


これ以上はいけん。


自分を抑えられんくなる。


それからしばらくして、春樹が呼んだらしい先生達がここまで駆けつけてきた。


「美波!大丈夫!?」


そこには理沙の姿もあって、ウチに気付くと慌てて駆け寄ってくる。


「あ、うん、なんとか。」


それに短く返す。


「馬鹿!なんでこんな所に戻ってきたのよ!?」


言いながら泣き顔で抱きついてきた。


「ごめんごめん。


ちょっと落とし物しとって。」


それを抱きとめ、謝る。


「え、それ…。」


抱きついた時に見えたんじゃろう。


膝のバンダナを見て顔をしかめる理沙。


まぁそれも当然だ。


このバンダナは、理沙と一緒に選んだものじゃし。


「それにその時計…。」


そのまま持っとった時計も、貰った時に見せた事があったし理沙は当然知っとる。


「なんで!?なんでまだ持ってんの…?」


「ごめん…ほんまは捨てられとらんかったんじゃ…。」


今まで理沙にはもう捨てたと嘘を付いとった。


感情移入しやすい子じゃし、変に心配をかけたくなかったんじゃけどなぁ…。


「なんでよ!?


捨てたって言ってたのに…。」


「ごめん、心配かけたくなかったけぇ…。」


「許さない。」


「え?」


「私ってそんなに頼りない!?


心配くらいさせてよ!」


そう言う口調は本当に怒っているようだった。


「だって…理沙が心配して泣いとる顔なんて見たくなかったし…。」


「美波に嘘を吐かれる方が私は悲しい。」


気を使ったつもりだったのだが、逆に気を悪くさせてしまったらしい。


「ごめん…。」


素直に謝る。


「でもちゃんと嘘を認めたから許す。」


そして理沙は涙を拭いながらそう言って許してくれた


「うん…ありがとう。」


その安心感からか、大切にしてくれる存在が近くに居る頼もしさからか。


抑えとった物が溢れ出し、ウチまで涙が止まらなくなった。


「それにしても、なんでそのバンダナを美波がそんな風に膝に巻いてるの…?


まさかあいつ…突き返して来た訳!?


やっぱりあいつ許せない!」


そう声を荒げて出口の方を睨み付ける理沙。


「…そんなんじゃない…よ。」


それをウチは小さな声で引き留める。


「え、何それ。」


いかにも拍子抜けした、と言う表情だ。


それに対してウチは何も言えない。


「なんで美波が…あいつの事を…。」


「ウチも…分からんよ…。」


そう、分からん。


ほんまなら憎たらしいし庇う必要なんて一切ないのに。


むしろ嘘じゃけどその通りじゃって言うてやってもえぇくらいなのに、それが出来ない理由がウチには分からない。


何故か、ついこないだまでのようには憎めない。


この場に理沙が居ってくれて良かった。


泣いとる顔なんて見たくなかったし、見せたくもなかったけど、今は誰かに話を聞いてもらいたかった。


一緒に泣いてくれる誰かが欲しかった。

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