第二章 魔境放浪編

第14話 異世界へ

 不思議な感覚だった。

 例えるなら、光の濁流の中を流されているといったところだろうか。

 上も下も判らず、ただ凄まじい力の奔流の中を、ただただ翻弄されながら流され続けていた。


 夜空もかくやという暗黒の空間の中を流れる、白光の激流。


(なんだ!? いったいなにが起こってるんだ!?)


 声すら出せず、状況どころか上下の間隔すら判らず、信士はひたすら混乱した。まるでとんでもなく速い水流に流され、錐揉みになっているような感覚。


 ただひとつ認識していることは、自分の身体にしがみ付いている陽菜の存在。

 引き離されまいと必死に自分にしがみ付く彼女の華奢な身体を、信士もまた無我夢中で抱きしめた。


 なにが起こったのかさっぱり判らないが、彼女を守らなければならない、離してはならないという思いだけが、飛びそうになる意識を現実に繋ぎとめていた。


(くそったれ! なにがどうなってるんだ!?)


 いったいどのくらい続いただろう。数秒だった気もするし途轍もなく長い時間だった気もする。

 唐突に、信士たちを押し流していた激流が途切れた。


「な――」


 目を開け、視界に飛び込んできた光景に愕然とする。


 最初に見えたのは、真っ暗な空間に瞬く無数の光の大群だった。それはまさに夜空に瞬く星空そのものだったが、見慣れたそれよりもずっと強く、なにより寒気がするほど美しいものだった。まさに宝石の群れが空を埋め尽くしているかのような、非現実的で幻想的な美しさ。


(宇宙!?)


 信士がそう錯覚したのも無理はない。映画で見たような神秘的で、それでいて決して作り物には出せない圧倒的な現実感を放つ光景が眼前に広がっていた。

 目の前の光景に圧倒され、無意識のうちに後ずさろうとした時、足元で響いたパシャンという水音が信士の耳朶を打った。慌てて眼下を見下ろすと、愕然と目を見開く自分自身と目が合った。一瞬、鏡かと思ったが、そこに写る自分の顔がユラユラと揺れはじめて、ようやくそれが水面であることに気付く。


 どうやら自分は、鏡もかくやというほど反射率の高い水の上に立っているらしかった。水深がほとんどないのか、普通に立っていても沈む様子はない。


 視線を水平方向へ戻すと、水面は彼方の宇宙空間まで続いていた。幻想的な漆黒の空とそこに浮かぶ星々。それをそのまま写し出す水面。


 その現実離れした光景と状況に、一瞬、意識が遠のきそうになったが、服の胸元を握られる感触が間一髪で信士の意識を現実に繋ぎとめた。視線を向けると、不安げな陽菜と目が合う。


「信士君……」

「ああ、判ってる。大丈夫だ」


 なにが判っているのか信士本人にも理解できなかったが、恋人の存在がひとまず彼に冷静さを取り戻させた。ここで気絶したら男として恥ずかしすぎる。

 その時――


「なんだこれ!?」

「どこだよ、ここ!?」

「いったいどうなってるのよ!?」


 周囲からいくつもの叫び声が響いた。見渡すと、自分たち以外にも多くの人間いることに気付く。しかも100人どころではない。数百――下手をしたら1000を超えるかもしれない。

 皆、状況が判らず混乱し、ひたすら喚き散らしている。まさしく阿鼻叫喚だ。


「なにが起こったの……?」

「判らない。けど、これだけは言える」


 不安げに聞いてくる陽菜に、信士は確信に満ちた口調で断言した。


「陽菜の予想が当たったんだ」

「!」


 陽菜自身が言っていたのだ。

 魔法やスキルをもたらすエリクス・キャンディは“前触れ”だと。きっとなにか良くないことに巻き込まれる、と。


「これがそうなんだろうな……」


 覚悟はしていたが、あまりに突然すぎて混乱せざるを得ない。そもそもなにが起こっているのか、さっぱり状況が飲み込めない。


「いったいなにが始まるんだ?」


 そんな信士の問いかけに答えるかのように、彼方の水平線に巨大な光の塊が現れた。しかもとんでもなく強い光。

 太陽を思わせる強烈な光に目を開けていれず思わず目を閉じたが、瞼を閉じていても判るほど凄まじい光量に周囲からは悲鳴じみた叫び声が上がった。


 やがて光が収まったのを感じて目を開けると、再び度肝を抜かれることとなった。


「なにあれ? 樹?」


 光が発生した辺りに巨大な樹木が出現していたのだ。

 

 確かに一見すると樹木に見える。野太い幹の先から分かれた枝に、幻想的な青色の葉をいっぱいに靡かせたその外見は、確かに樹だ。


(あれは……樹なのか? 樹でいいのか?)


 だが、信士にはその認識を疑った。

 何故なら――


「デカすぎるだろ……」


 その樹木は途轍もない巨体を誇っていたのだ。

 どれくらいの大きさなのか、まったく判らないほどに。

 樹木が現れたのは、いままさに信士たちが立っている水面――その水平線の遥か彼方なのだ。正確な位置は判らないが、とんでもなく遠くに屹立していることは確かだ。にも拘らず見上げなければ天辺が見えないという異常さ。縮尺が狂うどころの話ではない。

 とにかく人智を超える巨大さだ。


(星と同じ大きさ? それとも太陽系サイズ? あるいはそれ以上? 判らない……)


 想像を絶する巨樹の出現に瞬きすら忘れて見入っていると、不意に巨樹の葉が白く輝き始めた。あまりに神々しく、それでいて身震いを起こさせるような畏怖をも感じさせる光に、信士を始め、その場にいる者全てが巨樹を凝視したまま凍り付いたかのように動きを止めていた。


 次の瞬間――


 巨樹の枝先から無数の流星が放たれた。それは刹那の間に宙を飛び――そのことを認識する前に信士たちを直撃した。


「な――」

「きゃあ!」


 エリクス・キャンディによって超人的な身体能力を身に着けた信士たちでさえ、まったく反応することすら出来なかった。光の矢は信士たちだけでなく、その場にいた全ての人間たちの身体を捉えていた。同じような悲鳴や驚愕の声がそこかしらで上がる。


《世界》《危機》《魔王》《滅び》――


(なんだ、これは……)


 頭の中に言葉が流れ込んでくる。男とも女とも判別できない声が。


《打倒》《救済》《使命》《贖罪》《帰還》《恩寵》《享受》――


 意味の解らない単語の羅列。それがあの巨大樹の声だと気づく前に、信士の意識は暗闇に覆われた。


 ★


「うっ……」


 最初に認識したのは、硬くザラザラとした不愉快な感触だった。

 うっすらと目を開けてみると、赤茶色の土で覆われた地面が視界の半分を覆っているのが見える。自分がむき出しの地面に寝そべっているということに気付くまでしばらく掛かった。


(地べたに寝そべってるのか? そりゃ不愉快な訳だ……)


 まだぼーっとしたままの頭で、どうして地べたで寝ているのか記憶を探ろうとして――


 脳裏にフラッシュバックする異様な光景。


 いつもの野菜の無人販売所に現れた、光る妖精のような生き物――

 光の激流に翻弄された先に行きついた、宇宙とも海とも思える奇妙な空間――

 そこに現れた、星とも太陽系大とも思える大きさの超巨大樹――

 超巨大樹から放たれた光を浴びた瞬間、頭の中に流れ込んできた思念のようなもの――


「って、そうじゃない!!」


 全てを思い出した瞬間、一気に眠気が吹き飛んだ信士は弾かれたようにその場から起き上がった。

 慌てて周りを見回そうとした矢先、自分のすぐ側に倒れている人影が目に入った。


「陽菜!?」


 倒れていたのは紛れもなく陽菜だった。顔色は良く、普通に呼吸している。気を失っているだけのようだ。


「陽菜、おい、しっかりしろ!」


 肩を揺すると、意識が戻ったのか「う~ん」と唸るような声を漏らした。


「……ダメだよ、信士君……裸で……タップダンスなんて……」

「お前は夢の中でオレになにさせとるんじゃ!?」


 あまりと言えばあまりな内容の陽菜の寝言に、信士は思わず彼女の頭をはたいた。

 15年の人生で、寝言に対してツッコミを入れたのは初めての経験だった。


「あいたっ!」


 少し強めに叩いたせいか、陽菜は一発で目を覚ました。


「痛たた……あれ、信士君?」


 目覚めたばかりで状況が良く判っていないのか、陽菜は不思議そうに首を傾げた。


「目が覚めたか?」

「うん。って……私、なんで寝てるの?」


 そんなのオレが聞きたい、というのが信士の本音だが、ひとまずそれは置いといて、まずは確認しなければならないことがある。


「最後、なにを覚えてる?」

「なにを、って……信士君が裸踊りあ痛っ!?」

「まだ寝ぼけてるみたいだな。追加の目覚ましは必要か?」


 真顔で握りこぶしをプルプルさせている信士をみて、さすがにマズイと感じたのか陽菜は慌てて記憶を探り……すぐにはっとした顔になった。


「そうだ。いつもの無人販売所に行ったら妖精が出てきて……変な空間に飛ばされて、おっきな樹から光を浴びせられて……」

「オーケー。どうやらオレの夢じゃなかったみたいだな」


 陽菜も同じものを見ていたのなら、あれが夢ではなく現実であることに疑いの余地はない。そもそも夢にしてはあまりにもリアルだった。どう考えても夢とは思えないのだ。


「ここは? あの大きな樹は?」


 きょろきょろと辺りを見回した陽菜は、いまいる場所が例の樹を見た場所とは全く異なっていることに気付いた。


 乾燥した赤茶色の地面にポツポツと生えているなにかの植物。草すら生えていないむき出しの岩山。荒野というよりは砂漠に近い。そんな荒涼とした大地が地平線の彼方まで続いている。西部劇に出てきそうな雰囲気だ。人間どころか動物の気配さえ感じられない。

 もちろん、あの巨大な樹も見当たらない。


「どう考えても日本じゃないな……」


 呻くように信士が言った。


 山と緑に覆われた故郷とは全然違う。

 そもそも日本にこんな地平線まで見渡せるような荒野は存在しないことくらい、中学生の信士でも知っている。アメリカの西部かメキシコ。もしかしたらアフリカなんて落ちもあるかもしれないが。


「なんでこんな場所にいるんだ、オレたち?」


 訳の判らない出来事の連続に、信士の頭はすでにオーバーフロー気味だ。


「信士君」


 そんな信士に、珍しく神妙な面持ちで陽菜が声をかけた。


「どうした?」

「これはあくまで私の推測なんだけどね――」


 表情は真剣そのものなのに、何故か目を子供みたいにキラキラと輝かせた陽菜が、前置きの後できっぱりと言い切った。


「これってたぶん、異世界転移だよ!」

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