第6話 山で熊さんに出会った

「あ、いけない! もうこんな時間だ!」


 本格的に沈み始めた夕陽を見て陽菜が声を上げた。

 この辺りは山奥の田舎。しかも山頂公園なので周囲には人家もなく、陽が沈むと街灯しか明かりがなくなってしまう為、夜道は本格的に暗いのだ。


「やべっ、施設長に怒られる!」


 信士の暮らす『山湖の家』の施設長は門限にとても厳しく、破ってしまうとお説教だけでは済まない為、信士も顔を青くした。


「ゴメンね、高月君。なんか変な話しに付き合わせちゃって」

「お互い様だろ。オレの方は楽しかったし、謝るようなことじゃないさ」


 実際、信士も自分以外のオタクと話すことが出来て楽しかったので、特に気にしてはいなかった。


「ただ、なるべく学校へは来いよ? でないと将来困るぞ?」

「前向きに検討します」

「政治家か!」


 鋭いツッコミを入れると、お互いに顔を見合わせ、笑いあった。

 信士にとって、こんなに話の合う異性は初めてだったが、そういうことを意識することなく自然と話せてしまったのでまったく気にならなかった。


「それじゃあ――」


 またな、と言いかけて、信士は唐突に言葉を切った。


「? どうしたの?」

「……ちょっと待て」


 不思議そうに尋ねてくる陽菜を手で制して、信士は息を飲んだ。


<気配察知>に反応がある。あと<敵意察知>も警鐘を鳴らしている。敵意というものを感じるのは信士にとって初めての経験だったが、何故だかそうだと判ってしまう。スキルの効果だろうか。


「……なにかいる」


 信士の言葉に呼応するように、公園脇の茂みがガサガサと音を立てて揺らいだ。

 背後で陽菜が息を飲む音が聞こえる。信士も自分の身体が小刻みに震えているのに気付いた。


 やがて、茂みを掻き分けるようにしてそれが姿を現した。


 その瞬間、陽菜が悲鳴を上げて、隠れるようにして信士の背中にしがみ付いてきた。が、当の信士本人は恐怖で声すら出なかった。


 現れたのは茶色い剛毛に覆われた巨大な獣――大きな熊だった。二本の足で立ち上がり、じっとこちらを見ている。

 信士たちとの距離は10メートルも無い。


(わ、忘れてた……)


 その時になって、信士は思い出した。


(この公園の近くで熊が出たんだ!)


 少し前からこの辺りで熊の目撃情報が相次いでいたのだ。実際、学校で先生も気を付けるように注意していた。そしてつい先日、この辺りで実際に熊が目撃された為、この公園の周囲は立ち入らないように周辺の住民には警告されていた。


(だから公園に誰もいなかったのか!)


 信士は自分の迂闊さを大いに呪った。田舎人としてあるまじき失態だ。


(しかも、この熊、めちゃくちゃデカいぞ!)


 そうなのだ。種類は判らないが、信士たちの眼前に現れた熊は直立状態で優に3メートルを超えている。体重は少なく見積もっても数百㎏、下手をしたら1tに達するかもしれない。


「も、森で熊さんに出会った……」

「……こんな状況でネタに走れるお前を、オレは心から尊敬するよ」


 震える声で背中越しに話しかけてきた陽菜に、信士も震える声で応じた。


「こ、こういう時は、死んだふりかな?」

「それって自殺行為だからな」


 熊に出会ったら死んだふりをすれば良い、というのが迷信だということは信士も知ってる。熊は死肉も食べるから、かえって喰われやすくなってしまうだけだ。かといって走って逃げるのも自殺行為であることも知っていた。捕食動物である熊は逃げる者を本能的に追いかける習性がある。そしてその足は人間よりも遥かに速いのだ。


「は、蜂蜜あげたら見逃してくれるかな?」

「あるのか、蜂蜜?」

「無いけど……」

「じゃあダメだろ!」


 どうもネタで言っているのではなく、陽菜も恐怖で混乱しているらしい。


「ど、どうしよう……」


 もはや涙声になっている陽菜に、信士は答えられなかった。


 熊は直立したまま俯瞰の位置で値踏みするがごとくじっと2人を見下ろしている。


<敵意感知>がずっと警告を発し続け、殺意、殺気をダイレクトに信士に伝えていることから、巨大熊は完全にこちらを獲物とみなしていることが判る。その事実が信士に一層の恐怖を掻き立てた。


 野太い腕の先に生えた爪。あれにかかれば人間など紙くず同然に引き裂かれるだろう。

 巨大な口に生え揃った牙と強靭な顎は、どんな生物の身体も噛み砕き、咀嚼してしまう。


 生まれて初めて感じる野生の殺気。

 引き裂かれ、噛み砕かれ、餌にされてしまう、生物としての根源的な恐怖――


(落ち着け、いまのオレはただの人間じゃない)


 不思議な飴の力によってチートな力と身体能力を得たという事実が、信士の恐怖を幾分和らげ、冷静な思考を取り戻させた。


(けど、通じるのか? こんな化け物みたいな熊に!?)


 信士はこれまで毎日スキルや魔法の練習をしてはいたが、生き物に対して使用したことは一度も無い。加えて基本的に文系オタクであった信士は喧嘩すらしたことも無いのだ。なので、自身の力でこの熊に勝てるかどうかまったく自信が無かった。


(逃げることなら出来るかもしれないけど……)


 だが、逃げ足に関しては自信があった。熊は時速50kmくらいで走れるというが、いまの信士は車よりも速く走れるのだ。この公園へ来た時の様に、移動系のスキルを活かして森の中や木の上などを逃げれば、さすがに追い付くことは出来ないだろう。


(けど、矢橋を連れて逃げられるか……)


 おそらく無理だろう。普通の女の子である陽菜がいまの信士の足に追い付ける訳がない。一緒に逃げるとすれば当然、彼女を抱えて走らなければならないが、両手が塞がった状態で熊の足から逃げられるかと聞かれれば、自信が無い。熊と競走したことなどないので判らないが。


(けど、見捨てることなんか出来ない!)


 例えこの場で熊に食い殺されることになっても、それだけは信士には出来なかった。


 いまでも夢に見るのだ。


 自分の腕の中で、ゆっくりと冷たくなっていく幼い妹の姿が――

 最後の言葉が――


『お兄ちゃんといっしょ。うれしい』


 恐怖と、そして悔しさを噛み殺すように噛みしめられた歯が、ぎりっ、という音を立てた。


 グオオオオオ!!


 そして、それが合図であったかのように直立していた大熊が四足歩行で信士たちに向かって突進してきた。


「き――」

「おおおおおおッ!!」


 陽菜の上げようとしていた悲鳴が、信士の雄叫びに掻き消される。

 その圧倒的な巨体からは想像もつかない速さで襲い掛かってくる大熊に掌を向け――


「燃えろ!」


 信士が叫んだ瞬間、彼の手から真っ赤な炎が迸る。


「ええッ!?」


 後ろに隠れていた陽菜が素っ頓狂な声を上げてるが、信士は構わず炎を横薙ぎに奔らせ、大熊の進路を塞ぐようにして前方の地面を焼く。


 突然の炎に驚いたのは大熊も同じのようで、急ブレーキをかけて炎のギリギリ手前で立ち止った。


 これまで周囲に隠し続けていた魔法の力。それを陽菜に見られてしまった。だが、いまは頭の隅に除けておく。


(よし、いける!)


 大熊の目に驚愕と警戒の色が浮かんでいる。やはり熊でも炎は怖いらしい。全身を体毛に覆われている熊に火炎を浴びせれば、たちまち火達磨になって焼け死ぬだろう。


(殺す、のか……)


 だがそうなってくると、今度は“命を奪う恐怖”が湧き上がってくる。

 虫を殺すなら誰でも出来る。しかし、同じように犬や猫を殺すことが出来るかと言われれば、ほとんどの人間が「出来ない」と答えるだろう。

 猟師でもなく、ましてや猟奇趣味のないごく一般的な感性や道徳心をもった人間なら当然だ。例えそれが自分の命を脅かす害獣だったとしても、動物の命を奪うことにはどうしても抵抗を感じてしまう。


(迷うな!)


 だが、信士は心の中で渦巻いていた善悪の葛藤を強引に振り払った。


(ここで躊躇ったら、オレだけじゃない、矢橋も死ぬんだ!)


 自分の背後にある命の存在が、信士の迷いを打ち払った。


(もうあんな思いは御免だ!)


 心の中で吼えて、信士は大熊に飛び出した。少しでも熊を陽菜から引き離す為に、あえて前へ出る。

 獲物と見なしていた脆弱な生き物の反撃に、大熊はすぐさま巨体を生かして迎え撃ってきた。両腕を大きく広げ、抱き着くような形で信士に飛び掛かってくる。全身の筋肉を躍動させての飛び掛かりは、至近距離であればどんな生物でも逃れることは叶わない。ましてや自分から接近していけばなおさらだ。


(遅い……)


 だがその刹那、信士は驚愕した。

 大熊の動作――そのあまりの遅さに。

 本来であれば1秒にも満たない一瞬の出来事であるはずなのに、信士にはまるでスローモーションのようにゆっくりに見えた。


(<敏捷アップ>の効果か?)


 どうも身体だけでなく反応速度も上昇しているらしい。なので、信士は速度を落とすことなく余裕で大熊の腕の下をするりとくぐり抜けた。


 そして、的を外して空振りした大熊の脇腹を、すれ違いざまに押した。


 グオォオ!?


 たったそれだけで熊の巨体が数メートルも吹っ飛ばされ、地面に強か身体を打ち付け、さらに数メートルほどゴロゴロと転がってようやく止まった。


「……マジか?」


 その光景に最も驚いていたのは他ならぬ信士当人だったが。


「なるほど。だから<危機感知>が発動しないのか……」


 最初に大熊の気配を感じた時、<敵意感知>と<気配察知>は発動したのに<危機感知>は発動しなかった。名前からして危険を知らせる為のスキルであるはず。なのに巨大な熊を前にしてもまったく反応がない。


(つまり危険はない……この熊はオレの敵じゃないってことか?)


 よろよろと起き上がる大熊。その眼には明らかな怯えの色が浮かんでいる。

 さっきまで大熊に感じていた恐怖が嘘のようになくなっていた。


 グオオオオ!!


 だが、よほど腹が減っているのか、それともいい様にやられてプライドが傷ついたのか、大熊は再度雄叫びを上げて信士に突進してきた。


(試してみるか)


 姿勢を低くし、真正面から飛び掛かってくる大熊の懐に飛び込み、大木を思わせる胴体にしがみ付く。身長差は約2倍。体重差に至っては10倍以上。普通であれば勝負になどならない。なぎ倒されて貪り食われるのがオチだろう。

 だが、しがみ付かれた大熊は、まるで岩にでもぶつかったかのように突進の勢いを完全に止められた。


(弱い……)


 しがみ付いた信士がそのまま前進すると、それに合わせて体重数百キロの巨体が後方へと引きずられていく。さらに――


「どすいこい!」


 あろうことか両手で大熊の巨体を持ち上げた。捕ったどー、のポーズで。

 非力な人間に持ち上げられるなど、大熊も生まれて初めての経験だったのだろう。空中でじたばたと藻掻くが持ち上げる信士は微動だにせず――


「どっせい!」


 そのまま放り投げた。投げられた大熊は10メートル近く飛ばされ、再度地面に激突してゴロゴロと転がっていく。

 事ここに至り、さすがに大熊に戦意は残っていなかった。恐ろし気な目で信士を見つめた後、起き上がるや否や背を向けて一目散に逃げだした。


「待て」


 が、信士が手をかざすと、まるで凍り付いたかのようにその場で動かなくなった。駆け出した態勢のままで。


 信士のお気に入りの<物理魔法>だ。信士本人は「念動」と呼んでいるが、見えない手で物を掴んだり動かしたりする魔法だ。

 信士はこれをアレンジして、見えない手で動かすのではなく動きを封じる魔法を作り出した。

 その名も「念縛」だ。そのままだ。


 いくら戦う意思を失ったとはいえ、体長3メートル超えの巨大熊を逃がすわけにはいかない。なにせこの熊は平然と人間――信士たちに襲い掛かってきたのだから。チート能力を得た信士だったから良かったものの、普通の人間なら間違いなく殺されている。ここで逃がせば後で必ず誰かが襲われ、殺されるだろう。


(とはいえ、戦意を失った動物を殺すのも後味悪いし……)


 猟師であれば迷わず殺すだろうが、ごく普通(?)の中学生である信士はそんな覚悟はない。


「悪いな。ちょっと痛いけど我慢しろよ?」


 そう言って信士は、熊の動きを封じていた念縛を解除し――


「電撃!」


 間髪入れず<雷魔法>を放った。

 実際は、雷よりもずっと弱い電撃だったが、それでもスタンガンなどよりもよほど強力だ。


 ギャババババ!!


 迸る青白いプラズマを背後から浴びせられた大熊は、どこかコミカルな悲鳴をもらしつつ失神に追い込まれ、力なくその場に倒れた。

 たぶん、数時間は目を覚まさないはずだ。


(後は公園に熊がいることを匿名で通報すれば、警察か猟友会がなんとかしてくれるだろう)


 実際、最善なのはいまこの場で熊を殺してしまうことだろう。信士にはそれが出来る。だが、やらなかった。生き物を――動物を殺す、という行為に踏み切ることが出来なかった。どうしてもその勇気が、あるいは残虐性を持つことが出来なかった。

 そのことを弱さと呼ぶのか、あるいは優しさと呼ぶのかは人それぞれだろうが。


 事後処理を警察や猟友会に押し付けてしまう形になったが、向こうはそれが仕事なので頑張って欲しい。


「さて、と……」


 とりあえず熊のことは置いといて、信士は差し当たって自分がいますぐ対応しなければならない問題へと目を向けた。


 地面に座り込んだまま、呆然とこちらを見つめている矢橋陽菜へと。


(がっつり見られたよな……)


 これまでチート能力のことは誰にも教えずひた隠しにしてきた信士だったが、ついにバレる時がやってきた。力で熊を圧倒したり、火炎や電撃を放つところを見られては、もう隠しておくことなど出来ない。


「えーっと……大丈夫か?」


 声をかけると、陽菜は呆然とした表情のまま頷いた。


「……ここで起こったこと、見なかったことには……?」


 呆然とした表情のまま、陽菜はプルプルと首を振った。


「ですよねー……」


 さて、どうしたものか、と信士は頭を抱えた。

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