第13話 罪悪感はデートの中で

「このデカい水槽は圧巻だなぁ……」


「真ん中から出てるバブルも照明でキラキラしてて綺麗ですね」


 咲哉と詩織は、それ自体が水族館の一つの壁を作っているかのような巨大水槽を前にしてベンチに腰掛けている。他にもいくつかベンチが並べられており、家族連れが二組ほどで、あとは夫婦または恋人が多く見受けられる。


 咲哉は同じく水槽を眺める恋人達を見て微笑ましく思うと共に、ふと脳裏に昨日の真歩とのことが脳裏を過り、罪悪感として身体に重く伸し掛かってきた。それも、今日の詩織とのデートが楽しかっただけに、なおさら重く。


(結局何もなかった……でも、あのとき詩織から電話が来てなかったら――)


 ――間違いなく一線を越えていた。そんな確信が咲哉にはある。あの瞬間、咲哉は自分の理性が消し飛んだのを自覚したし、利害関係上の恋人と言えど詩織という彼女がいると理解した上で、その罪悪感を無視してでも目の前の快楽をむさぼりたいという結論に至ってしまった。


 咲哉が表情を曇らせ視線を伏せる。隣で座っていた詩織はその様子に気付き、咲哉の顔を覗き込みながら心配そうに名を呼ぶ。


「咲哉君……?」


 いつも上から目線で世界は自分を中心に回っているといったスタンスだが、なんだかんだでこうやって心配してくれる詩織。その優しさが、今このときに限っては咲哉の心を抉る。咲哉は限界だった。もちろんこの場で誤魔化して、隠し通すことは出来る。しかし、詩織に対して誠実でありたいという咲哉の意思が、それを許さなかった。


「詩織……俺は、謝らないといけないことがある……」


「……謝らないといけないこと、ですか?」


 咲哉は顔を俯かせたまま力なくコクリと頷く。そして、膝のところで両拳を強く握り合わせながら言う。


「昨日、俺は花野井といた……」


「……ッ!?」


 咲哉の横目にも、詩織の身体が一瞬強張ったのがわかった。しかし、詩織は特に口を開かない。咲哉は申し訳なさに満ちた声色で続ける。


「買い物の帰り、雨が降って困ってたところにたまたま花野井が来て、傘に入れてくれるって言うからそのまま俺の家まで……良くないこととは思ったけど、流石に送ってくれた人を何のお礼もせずに帰すのはダメだと思って、家に入れたんだ――いや、違う。これはただの言い訳だ……っ!」


 話していることは事実。しかし、この過程を踏むことによって真歩を家に招き入れたことを正当化しようとしている自分がいることに気付き、咲哉は頭を振る。そして、一度気持ちを落ち着かせるために息を吐いてから言う。


「……俺は、花野井に手を出し掛けた」


「さ、咲哉君が、ですか……?」


 詩織にはその言葉が信じられなかった。恋人となったその日、家で自分が脱ぎだしたのを必死に止めた咲哉が、そう簡単に女性にに襲い掛かるとは思えなかったからだ。しかし、咲哉の表情を見ればその話が嘘でないことはハッキリとわかる。


「もう、完全に理性がなくなってて、罪悪感を無視して花野井を押し倒した……詩織から電話が来てなかったら……」


 その先は言わなくてもわかることだ。詩織は無理に咲哉に話しの続きを喋らせることはしなかった。ただ一言、「そうですか……」と呟く。詩織は咲哉から巨大水槽へと視線を移す。大小様々、多種多様な魚が水中を自由に泳ぎ回っている。そんな様を眺めながら、詩織は少しの沈黙を置いてから口を開いた。


「実は、今日咲哉君をデートに連れてきたのも、花野井さんのことがあったからなんです」


 詩織が言う花野井とのことというのは、学校で咲哉と詩織が付き合い始めたというのが周知された日、昼休みに花野井が咲哉に近付いてきたときのこと。それを理解して、咲哉は詩織に視線だけを向ける。そして、詩織は巨大水槽に目を向けながら続けた。


「咲哉君はこれからの付き合いを通して私を知っていきたいと言ってくれました。実際、私の家庭環境の話も真剣に聞いて受け止めてくれましたし、私に完璧でいる必要はないと言ってくれる唯一の人です。あ、貴方にこの私がお礼を言うなんて不本意ですが、感謝しています……」


 咲哉の視線の先で、詩織は若干頬を赤らめた。


「そんな咲哉君を他の人に取られるのは何だか嫌というか……ま、まるで私の魅力がその人に負けているみたいになるじゃないですかっ? それが気に食わないだけで、別に咲哉君が他の人に興味を持ったとしても嫉妬なんてしたりしませんのでそこは勘違いしないでくださいっ!?」


 詩織は後半やや言い訳がましく早口になりながらも、気持ちを整えるようにコホンと一つ咳払いを挟む。そして、どこか気恥ずかしそうに横に垂れる自分の髪を指で巻き取りながら言う。


「な、なので、一応恋人ですし……こうしてデートすることで、咲哉君に私の魅力を知ってもらって、私以外の女の子に興味なんて持てなくしてやろうと思ったわけです」


 まぁ、遅かったわけですが……、と詩織は先程咲哉から聞いた昨日の出来事を思い浮かべる。実際にその目で見たわけではないため詳しい経緯はわからないが、詩織は咲哉が安易に女性に手を出すような人でないことは理解している。どうせ真歩の方から咲哉に迫ったのだろう、というのが詩織の見解だ。


 しかし、もしそのときに咲哉に詩織の魅力が充分に伝わっており、咲哉が詩織を好きになっていればどうだっただろうか。恐らく咲哉は、真歩の誘惑に負けなかっただろう。こうして咲哉が真歩の誘いに乗ってしまったのは、これまで咲哉に自分の魅力を知ってもらおうと行動しなかった詩織の責任でもある。理由はともかく、咲哉を他の誰かに取られたくないのであればなおさら。


「今回の件は、咲哉君だけのせいではありません。花野井さんが何か企んでいるとは、あの日の昼休みに感じていました。なのに、何も行動を起こさなかった私にも責任はあります」


「いや、それは違う! 全部俺が――」


 ――悪い。と続くはずだった咲哉の言葉を、詩織が咲哉の握り合わされた両拳にそっと手を乗せて遮る。詩織の手の温もりが、強く握り締められた咲哉の拳を少し緩めた。


「私達は互いに好意を持って恋人になったわけではありません。もし本当に咲哉君が花野井さんとの関係を望むなら、それを私が引き留めるわけにはいきません」


 ですが、と詩織は咲哉に優しく微笑みかける。


「私は負けず嫌いです。利害関係上の恋人だとしても、自分の彼氏が他の女の子に取られるだなんて我慢出来ません。ですから、宣言します――」


 詩織はそっと手を伸ばし、咲哉の頬に触れる。


「――私は貴方を惚れさせます。今後、私以外の女の子に興味を持てなくしてあげますから覚悟しておいてください」


 自信に満ちた詩織の笑みとその言葉が、咲哉の胸に強く響いた。自分の魅力が他に劣るわけがないと確信する、圧倒的強者の台詞。そして、詩織自身意図せずしてこう宣言したも同義――――



 ――――咲哉君は、誰にも渡さない。


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