第07話 浮気疑惑

「私というものがありながら一体何をしているんですか、咲哉君?」


 背後から掛かった声に、真歩の口に箸を運ぼうとしていた咲哉の右手が止まる。ビクッと肩を震わせて、ギギギ……という錆びた機械が軋みながら動くかのような効果音が似合いそうな動作で、ゆっくりと振り返った先に、詩織が底冷えするような視線を向けて立っていた。


「し、詩織これはだな――」


「――あむっ。んっ、美味しい!」


「ちょ、このタイミングで食うなっ!?」


 今まさに咲哉が詩織に弁明しようとしていたとき、真歩が咲哉の固まっていた右手の箸に摘ままれていた厚焼き玉子を口で奪い取った。


「うん、このネギの触感も凄く良いよ~」


「……どういうつもりですか、花野井さん?」


「ん~?」


 腕を組んで冷たい視線を真歩に注ぐ詩織。しかし、真歩はそれを意に介さず、もぐもぐと厚焼き玉子を美味しそうに咀嚼し、飲み込んだ。口に物がなくなってから、「よいしょ」と言って腰を上げる。


 階段の上から詩織が見下ろし、階段の下から真歩がにっこり笑って見上げている状況。咲哉は真歩の隣で「あぁ……えっと……」と妙にピリついた空気に戸惑っていた。


「咲哉君は私の彼氏です。知ってますよね?」


「もちろんだよ~。直接本人にも言質取ったしね~」


 ねっ、と真歩が咲哉に笑顔を向けて確認を取ってくるので、咲哉は「あぁ……」と頷く。すると、詩織は一層視線を鋭く冷たいものにした。


「ではなぜこんなことを? 人の彼氏に対する距離感ではないでしょう」


「えぇ~、そうかなぁ。これくらい普通じゃない?」


「では、貴女は他の男子ともこんな距離感で接しているんですか?」


「どーだろう。あんまり距離感とか考えたことないんだよねぇ。でも確かに、他の男の子からお弁当を貰ったことは、なかったかな?」


(そこでどうして俺を見る……)


 おまけにウィンク……と咲哉は自分に視線を向けてくる真歩から逃れるように、引きつった笑みを浮かべつつ顔を背ける。


「はぁ……まぁ、どういうつもりなのかはサッパリですが、今日のところはもういいです。ですが、咲哉君は一応私の彼氏ですので接するときの距離感には気を付けてください」


「……一応?」


「何か?」


「あ、ううん。何でもないよ。そうだよねぇ、ごめんね~」


 真歩は両手を顔の前で合わせて申し訳なさそうな笑みを作りながら詩織と咲哉に謝る。しかし、すぐに「ところで――」と不思議そうに首を傾げて詩織に尋ねた。


「しおりんはどうしてここに?」


「昼休みになって、彼が教室から出ていくのを見たので」


 そう言って詩織は咲哉に視線を向ける。しかし、先程のことをやはり許してはいないようで、その目付きはやや鋭い。咲哉は居たたまれなくて視線を宙に泳がせていた。


「ふぅん。しおりんはよっぽど三神君のことが好きなんだね~?」


「っ、べ、別にそういうワケでは……」


「えっ、彼氏のこと好きじゃないの?」


 動揺を見せた詩織だが、一度コホンと咳払いをしてから「貴女には関係ありません」と質問を突っぱねる。そんな詩織に対して、真歩はどこか可笑しそうに、それでいて妙に怪しげな笑顔を浮かべていた。


「じゃ、これ以上二人きりの時間を奪っちゃうのは申し訳ないから、私は行くね~」


 またね三神君、と言って一度咲哉に手を挙げて見せた真歩は、階段を上がり、詩織の横を通り過ぎてこの場を去っていった。


 咲哉と詩織だけになり、物凄く気まずい――主に咲哉にとって――空気が流れている。相変わらず階段の上から見下ろす位置で腕を組んでいる詩織と、そんな詩織を背にして座ったまま振り返ることができない咲哉。この沈黙を先に破ったのは詩織だった。


「……それで、何か言いたいことは?」


「え、えっと、お前もこの厚焼き玉子食べるか――痛ったぁ!」


「馬鹿ですか」


 階段を下りてきて咲哉の脳天に拳を振り下ろした詩織。悶える咲哉の隣に腰を下ろし、今度は横から咲哉を睨む。


「彼女が出来て早々に浮気ですか。意外と肉食だったんですね」


「違うって! な、何か花野井が妙にグイグイ来るから……」


「グイグイ来るから? 嬉しかったんでしょう?」


「ま、まぁ……そりゃ俺も男ですから。可愛い子にあんなふうにされたら嬉しくないわけないだろ」


「ふぅん、私のときは断ったくせに。私は可愛くないですか、そうですか」


「い、いやいやいや、それとこれとは話が別だって! あのときはほら、その……勢いだけでやって良いことではなかったというか、お前の大事な……ね?」


「私の大事な、何ですか?」


「ばっか言えるか!」


 流石に本人に向かって「お前の処女を守るためだ!」なんて口が裂けても言えるはずがなく、咲哉は顔を赤らめる。しかし、詩織も咲哉の言わんとしていることは理解しているので、それを口にできず恥ずかしがる咲哉を見て微かに口許を緩めた。そんな詩織に、咲哉は申し訳なさそうに視線を落として呟くように言った。


「はぁ……でも悪かったよ。俺達の関係が疑われでもしたら、交換条件にならないもんな」


 そんな咲哉の言葉を聞いて、詩織は一呼吸間を置いてから真面目な口調で言った。


「咲哉君は、この交換条件に不満ですか?」


「えっ、いやそういうワケじゃ……」


 咲哉は咄嗟に否定しようとするが、詩織は黙って首を横に振る。


「自惚れていたのかもしれません。私は、客観的に自分自身の容姿が優れていると知っています。実際、これまで色んな人から告白されてきました。モテモテです」


 いつもなら「自分で言うか」と突っ込む咲哉だが、今は黙って聞き入る。詩織は決してふざけておらず、ただ事実として真剣に語っているからだ。


「そんな私を彼女に出来るというのは……何と言うか、男子にとって魅力的なことではないかと思ったんです。それこそ、私の秘密の口止めに見合う交換条件になるくらいには……」


 ですが――と詩織は咲哉の方へ顔を向けた。その表情は笑っていた。しかし、どこか曖昧で無理に作っている笑みだ。


「咲哉君にとってこの条件は望むものではなかったようですね……」


「詩織……」


 声色や表情から滲み出る何とも言えない感情を見た咲哉は、一度自分の気持ちを確かめるように黙り込んだ。そして、若干の間を置いてから真っ直ぐ詩織を見る。


「正直言うと、秘密を守る代わりに恋人になるっていう条件は……本意じゃなかった」


「……ですよね」


「でも、勘違いしないで欲しい。俺は詩織が嫌いなわけじゃない。むしろその逆で……詩織と付き合えて嬉しくない男子はいないぞ、マジで」


「ですが今、本意じゃないって……」


「それは、交換条件で俺が付き合わせてもらってるだけだからだ。互いの好意関係なしに口止めのために恋人になる……そんなのは、望んでない。第一、何度も言うようだけど俺は交換条件なんかなくても詩織の秘密を誰かに喋ったりしない。絶対に」


(でも、詩織は俺に秘密を黙っているメリットとなる何かを与えてないと納得できないんだよな)


 咲哉の思っている通り、隣で詩織が複雑そうな表情を湛えて視線を伏せていた。まだ短い付き合いではあるが、詩織は咲哉が誠実な人間であることは理解しているし、ある程度信用に足る人物だとも思っている。しかし、バラされたら自分の立場が危うくなるほどの弱みを握られているという状況で、完全に咲哉を信じきれないのは仕方のないことだ。


「けど、それじゃお前は納得しないだろうから、今はこの関係を続けよう。実際今は俺もこんな完璧美少女な彼女を持てて嬉しいしな。けどさ、やっぱり長続きしないと思うんだよ、このままじゃ……」


 咲哉が詩織と付き合うことができて嬉しいのは、恋愛感情があるからではない。詩織という完璧な美少女を彼女に持っているという優越感のようなもの。同じく詩織も交換条件として咲哉の彼女になっているだけ。そこに好意はない。


 であれば、もし咲哉に好きな人が出来たらどうなるか。交換条件で成り立つ上辺だけの恋人関係よりも、本当に好きな人を優先するだろう。そうなれば自然と詩織との関係は終わりだ。逆もまたしかり。


 だから――――


「だから、俺はこれからもっと詩織のことを知っていこうと思う。それでもし詩織のことを好きになったのなら良し。もしそうならなかったら、そのときはまた詩織が満足いく新しい口止めの交換条件を考えよう」


「……ふっ、何ですかそれは」


「え、ダメだったか?」


 詩織が突然笑いを溢したので、何かマズかっただろうかと咲哉は不安になるが、そうではないと詩織が首を横に振る。


「もちろんそれで構いませんよ、咲哉君」


「そ、そう?」


「ですが、良いんですか?」


「えっと……何が?」


 そう尋ねると、詩織が咲哉の鼻に人差し指をちょんと触れさせて、恥じらいの混ざったような妖艶な笑みを浮かべて答えた。


「これ以上私と一緒にいたら、本当に私に惚れてしまいますよ?」


「さ、さてどうかな……?」


 精一杯余裕ぶってみた咲哉だったが、不覚にも大きく心臓を跳ねさせられてしまったのだった――――

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