飛び込むはなし
不明夜
飛び込むはなし
下を見る。僕にとってその景色は何度も見た、それでも僕にはいつも新鮮に映る景色だった。
いつかこの景色に慣れることはあるのだろうか。不安と恐怖に駆られながらも思考を巡らせる。そんな中、まるで走馬灯の様に流れていく記憶に思いを馳せていく。
***
そこは、家のリビングだった。当時中学生になったばかりの僕は、たまたま観ていたテレビの画面に釘付けとなった。
テレビに映っていたのは、飛び込みの選手だった。高い台から身ひとつで飛び込む姿が僕にはとても魅力的に思えたのだ。
その日から、僕は持てる時間のできる限りを練習に費やす生活が始まった。
*
そこは、学校の渡り廊下だった。次の授業の為に教室を移動していると、僕にとって数少ない友人であった彼に話しかけられたのだ。
「おーい海斗。今日どこか遊びに行かね?駅前の店のクーポンが手に入ったんだよ」
「あ……今日も練習があって……誘ってくれてありがとう」
「そっか……まあ海斗には大事な大会が控えてるもんな。大会が終わったらまた遊びに行こうな!」
なんでもない日常会話。いつものように話しかけられ、遊びに誘われ、そしていつものように断った。練習がある為ほぼほぼ誰かと遊びには行けないのだが、それでも僕と親しくしてくれる彼にはとても感謝している。だからこそ、いつも断る事しかできない自分が腹立たしかった。
*
そこは、練習前の更衣室だった。その日は少し遅刻してしまい、急いで着替えていたのだ。着替えながら思い出すのは、前回の大会だ。僕にとっては初めての大きな大会で、その緊張から大きなミスをしてしまった。
そのことを思い出しながら、コーチのもとに急ぐ。
「すいません!遅れました!」
「数分だから大丈夫だ。でも次から気をつけるように」
「はい……」
その様な会話から始まった練習は、特に何事もなく終了した。今までと違う点があるとしたら、最後にコーチに言われた言葉だろう。
「ここ最近は少し焦りすぎだ。しっかり練習している、成果はちゃんと出るさ」
「そう……ですかね」
コーチの言葉は僕を気遣っての事なのだろう。その優しさは嬉しいが、前回の失敗を引きずらずに前を向くことは僕に出来無かった。
結局、その後は碌に会話も出来ずもやもやした気持ちを抱え帰路に就いた。
***
下を見る。僕にとってその青い景色は何度も見た、それでも僕にはいつも新鮮に映る景色だった。
練習はしてきた。体調も悪くない。それでも前回の失敗が脳裏に浮かび、集中が途切れる。
何度見てもこの景色には慣れない。きっとこの後にも慣れることはないだろう。ここに立つときはいつも不安で、いつも怖かった。それでも、少しの勇気を振り絞って飛んできた。
今回もなんとか勇気を出そうと思考を巡らせ、ふと何でもない会話を思い出す。
それは、何でもない日常会話。いつものように話しかけられ、遊びに誘われ、そしていつものように断った、ただそれだけの会話。
「(ほんと、何でこんな時に……)」
いつの間にか肩の力を抜くことができ、感じていた不安や恐怖も無くなっていた。
「(今なら、きっと……!)」
飛び込む。
別に不安を乗り越えたり、恐怖を克服したなんてそんな大層なものではないのだと分かっていた。たまたま何でもない会話を思い出して、緊張がほぐれただけ。
「(今回は、きっと上手くできた!)」
それでも、僕にとってはとても誇らしかったのだ。
飛び込むはなし 不明夜 @fumeiyo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます