30

 ベンチの両端にそれぞれ座る二人の間には、いつもと変わらない一人分のスペースが空いていたが、その距離は、今までより遠く感じられた。ルドウ・モモナは抱いているぬいぐるみ、ウニの頭頂部を見つめるように、下を向いていた。いつもは、一人でいるときも空を眺めるように斜め上を向いているのに。

「何か、あったのか?」 今朝のキイロからの忠告を思い出して、ダクイは尋ねた。

「ううん。何もないよ」

「いつもと変わったこととか、なかったか?」

「うーん……」 人差し指を顎に当てて、首を傾げるモモナ。「特にないかな」

「誰かに、変なことされたり……、嫌なこと、されたりとか」

「なかったと思うけど……」 首を倒すようにして、モモナはダクイの方へ顔を向ける。「あの、もしかして……、この前のこと?」

「この前?」

「この前、私が、変なことしたから……」 モモナは再び前を向くと、両足を伸ばし、その膝を見つめるように視線を下げる。「あれこそ、嫌なことだったよね。こんな子供に頭を撫でられて、嫌だったよね。ぬいぐるみ扱いされたみたいで、気分悪かったよね」

「それは違う」 ダクイは片肘をベンチの背もたれに載せて、体をモモナの方に向ける。「別に嫌な気持ちになんかなってない。あの時は、驚いて何も言えなくなっただけで、俺は嬉し」

「失礼します」 ダクイとモモナの間に、割って入ってくる声と体。

 ミナモ・スイカは、電車の席に座るように姿勢を正し、膝の上に鞄を置いた。

「スイカちゃん——!」 驚きと戸惑いが入り混じったモモナの声。

「スイカ……」 ダクイは背もたれから腕を退けて、心なしか体をベンチの端に寄せる。「どうしてここに」

「いえ、ダクイさんが毎日放課後に中庭でルドウさんとお話ししているという噂を聞いたので、私もご一緒しようと思っただけです」 スイカは、腰からひねるようにして上半身をダクイに向ける。「ダメですか?」

「俺は別に構わないけど……。モモナも、いいか?」

「うん。ダメじゃないよ」 モモナは視線を下にしたまま、首を縦に振る。「スイカちゃんは、ダクイ先生のことが好きなんだもんね。いっぱいお話ししたいよね」

「ありがとう、ルドウさん」

「ううん、大丈夫だよ」 スイカの方を見ず、正面を向いたままモモナは首を振った。

「噂になってるのか?」 気になってダクイは尋ねる。「俺が毎日放課後、ここでモモナと話してること」

「どうでしょう」 スイカは小首を傾げる。「私は、キイロ先輩から噂になってると聞いただけで、直接他の人が噂している場面に出くわしたことはありません。キイロ先輩が大袈裟に言ってるだけかもしれませんね」

「ああ、キイロならあり得るな。昼、会えたのか?」 スイカから誘われたことはキイロに聞いていたが、それにどう返事したのかは、聞きそびれていた。

「ええ」 頷くスイカ。「月曜日の一時間目、保健室で会うことが多かったので。もしかしてと思って行ってみたら会えたので、そこで誘いました。月曜日の一時間目は体育なので、毎週そこで会うのがお決まりだったんです。私がサボるのをキイロ先輩も知ってるので。でも、私、今日、体育の授業に出たんですよ。疲れましたけど、体調は悪くなりませんでした。これで、今までのがサボりだったって、みんなにバレてしまいましたね。きっと私のいないところで、クラスメイトは文句を言っていることでしょう」

 体育の授業に出た理由をキイロ伝いで聞いているダクイとしては、ここでスイカの自嘲に同意する愚行はできない。「じゃあ、もうお前と保健室で会うことはないわけか。モモナも、残念だったな」

「うん。そうだね」 答えるモモナの声は、ダクイにはどこか素気なく聞こえた。

「よっす」 背後から声。「スーイカ、だっくん——、モモナ」

「キイロちゃん?」 疑問形なのは、突然現れたキイロに驚いてか、それとも名前で呼ばれたことを不自然に感じてか。モモナの声は、弾んでいなかった。

「いやー、放課後中庭に行ってみるってスイカが言ってたからさ、どんなもんかと思って来てみれば、ずいぶん楽しそうにしてるじゃん。ね、だっくん」 ベンチの後ろからダクイの肩を叩き、そのまま肩を組むようにして、キイロは前屈みになって顔を近付ける。「バーカ」

 ダクイだけに聞こえるように耳元で囁かれたその一言の意味を尋ねる暇もなく、キイロは腕を離して、ベンチの前まで回ってくる。そして、モモナの正面に立った。

「去年のこと、ちゃんと謝ってなかったなーと思って」 そう言うと、キイロは腰を曲げて深々と頭を下げた。「私の勝手な自己満足で、ウニに酷いことしてゴメン!」

「えっと……」 モモナは逡巡するような表情を見せたが、すぐキイロに笑いかけた。「ううん、酷いことなんてされてないよ。ほら」

 モモナはウニを掲げてみせるように突き出す。それを見るためにキイロは頭を上げる。もしかして、キイロの頭を上げさせるために、ウニを見せるような言動をモモナはしたのだろうか。

「私もウニも元気だよ。だからキイロちゃんも、気にしないで」

「ありがと」 安心したように、キイロは胸を撫で下ろした。「事後確認になっちゃうけど……、その、さ、モモナって呼んでも、いい?」

「うん。全然いいよ。私も、キイロちゃんて呼んでるもん。先輩なのにね」 えへへ、とどこか申し訳なさも含んだような笑い声を添えて、モモナは再びウニを胸に寄せて抱く。

「おう、改めてよろしく、モモナ。それにウニも」 キイロは、腕を伸ばして、ウニの頭をそっと撫でる。「ついでにスイカも、キイロ先輩とかかしこまらず、キイロでいいんだぜ」

「いえ、さすがにそれは……」

「もう、スイカはお堅いねえ」 キイロは再びベンチの背後に回ると、スイカの頭に片手を置いて軽く撫でる。「だっくんは、初めから私たちのこと、名前で呼んでたよね。馴れ馴れしくさ」

「馴れ馴れしくて悪かったな。嫌ならやめる」

「嫌なわけないじゃん。キイロって呼ぶように私が頼んだんだし。ただ——」 キイロはモモナとスイカ、それぞれの肩に片手ずつ置いた。「二人はどうかと思ってさ」

「スイカで構いません」 スイカらしい即答。

「私も、大丈夫だよ」 遅れてモモナ。

「だってさ。良かったね、だっくん」 キイロは二人の肩に載せていた手を浮かせて、ベンチの背もたれに置き直す。「これでセクハラにならないぜ」

「許可がなかったらセクハラだったのか?」

「いえ、会社ではなく学校の、先生と生徒との関係なので、セクハラではなく事案と行った方が正しいかと」 恐ろしいことを言うスイカ。「ちなみに、先生と言ったのはダクイさんのことではなく、広義の意味での先生です。ダクイさんのことを先生と認めたわけではありません」

「徹底してるな……」 ダクイは苦笑いを返す。

「さーて、用事も済んだし、私はそろそろおいとまかな」 キイロはベンチの背もたれから手を離して、その手を上に背伸びをした。「まだ月曜日だし、フルスロットルで飛ばすには早いぜ。だっくんも、帰る前に明日の授業の準備とか、しなきゃでしょ」

「あ、ああ。そうだな」 ダクイは立ち上がる。

「そうですか。では私も」

 スイカも立ち上がり、ベンチにはモモナだけになった。

「私は……、もう少しここにいるね」

「そうか」 ダクイは片手を上げる。「夕方になると冷えるから、ほどほどにな」

「うん。ありがとう」

 そのまま少し待ってみたが、モモナが顔を上げて、ダクイと目を合わせることはなかった。

 キイロとスイカが歩き出していたので、ダクイも少し遅れて続く。

「ホント、暗くなると急に寒くなるよね」 キイロの呟きは、同意を求めてのものか、独り言なのか、判断できない声量だった。だからなのかスイカは黙々と歩き、ダクイも、言葉を返すことはしなかった。

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