29
ほとんどのものが白で統一された保健室の中央で、黄色が存在感を放っている。手前のベッドで、足を下ろしたまま、上半身だけしなだれるように枕に頭を乗せたタタラ・キイロだった。半目を開けて、億劫な瞳をダクイに向ける。
「ああぁ……、だっくん、来たんだ」 寝起きのようにこもった声で言いながら、キイロは体を起こした。「ううーん……、さーて、どっちかな?」
「いきなり何だ」
「だっくんは、何に期待してここに来たのかなってこと」 腕を真っ直ぐ上にして、伸びた声でキイロは言う。「またプールに飛び込んだあの子が来てるんじゃないか、体育をサボったスイカが来てるんじゃないか、あっ、もしか両方? だっくん欲張りいぃ」
「何となく覗いてみただけだ。特に何かを期待してたわけじゃない」
「またまたぁ。残念ながら私でしたー」 赤ん坊をあやすように、顔の横で両手を広げるキイロ。
「服」
「うん?」
「制服キャンペーンはもう終わったのか」
「まあね。だっくんも、こっちの方が好きっしょ」 黄色いロングスカートの膝部分を摘まみ上げるキイロ。その上半身は白いブラウス。明るい髪色の中で、黄色いカチューシャが際立っている。「ちょっと大人っぽい感じで」
「大人っぽいのが好きだって、俺が言ったか?」
「あれ、違った? あ、逆か。うん、じゃあ明日はフリフリのロリータで来てあげる」
「お前は、俺のために私服で来てるわけじゃないだろ」
「それはそうだけど。でも、だっくんの着せ替え人形になってあげてもいいぜ」
「断る。そういう趣味はない」 ダクイは、改めて保健室を見回す。「スイカは、来てないのか」
アカデミアの時間割は曜日ごとに決まっている。先週、月曜日の一時限目、体育をサボってスイカが来ていたので、今日も来ていると思ったのだが。
「なあんだ、目的はスイカの方か。ま、私もここにいればスイカが来るんじゃないかなーと思って待ってたんだけど」 お得意の待ち伏せで、キイロはこの保健室にいたらしい。「スイカならさっき来て、今日は体育に出ようと思いますとか、わざわざ宣言してったよ」
「スイカが……」 ダクイは、直前の校門でのやりとりを思い出す。そういえば、金曜日は授業をサボって保健室に行くから、ダクイも来て欲しいと誘われた。しかし今日はそれがなかった。「そうだ。スイカが、お前と一緒に——」
「お昼ご飯でしょ。誘われた。しかし驚いたぜ。まさかスイカが体育の授業に出たり、私を誘ってくれたり。どういう心境の変化だろね」
「お前が変えたんだよ」
「だっくんが変えたんでしょ」
「きっかけはお前だ」
「またまたご謙遜を。体育の授業に出るのは、サボってるとだっくんに嫌われるかもしれないからだって、言ってたぜ」 キイロは片手を頬に添えて、その肘を自身の膝について、少し前屈みになる。「私を誘ったのも、だっくんが何か言ったからだったりして」
「いや、それはスイカが自分で考えてしたことだ。あいつ、自分で話しながら、自分で解決策を見つけるよな」 今朝、ダクイを誘ってこなかったのもそうだ。金曜日のダクイの反応を受け止めて、スイカなりに考え直したのだろう。
「ま、理屈屋さんだから。話しながら理屈を見つけるんじゃない? 今までは、それが自分の気持ちを隠す方向に働いてたけど、今は自分の気持ちと向き合って、それを伝える方向に働いてるんだろうね」
「お前……、前にも思ったけど、意外と地頭いいよな。ちゃんと授業に出て勉強すれば——」
「政治家にでもなれるって? 冗談」 言ってから、キイロは自身の発言を笑い飛ばす。「あーあ、スイカは変わっちゃったし、あの子がこの部屋のお世話になることももうなさそうだし、いよいよだっくんは私しか授業中の話し相手がいなくなっちゃうね。末長くよろしくぅ」
「あの子って、モモナか? モモナが、保健室の世話になることがもうない……?」
「へえ。スイカの話より、あの子の話の方が食いつきいいんだ」 キイロは目を細める。「ま、だっくんが誰推しかはどうでもいいけど。そ、もうあの子はここに来ることないと思うぜ。ウニがプールに投げ込まれることがないからさ」
「そう、なのか……」 安心よりも、疑問の方が大きい。「どうして」
「だっくんが飛び込んだからだよ」 そんなこともわからないのか、と言いたげに、キイロは口を尖らせた。「金曜日、だっくんがあの子の代わりに飛び込んだっしょ。それが波紋を呼んだわけ。飛び込んで波紋。おっと、上手いこと言っちゃった」
「どうして、モモナが飛び込んでも無視してたのに、俺が飛び込むと問題になるんだ」
「そんな恐い顔しないでよ。私の知ったことじゃないんだから。ま、生徒間の問題じゃなくなったってことなんじゃない? 今まであの子の代わりに飛び込む大人なんていなかったからさ。冷たくて汚いプールに飛び込むだっくんの姿を見て、思うところがあったんだろうね」
「冷たくて汚いプールに飛び込んでたのは、モモナも同じだろ」
「だーかーらあ、そういう問題じゃないの。あの子の代わりに飛び込むだっくんの姿に心を打たれたとか、そんな人情的な理由じゃないわけ。あの子がプールに飛び込むのが面白かったのに、だっくんが飛び込むんじゃ意味ないでしょ。だからやめただけ。目的が達成できないことがわかったからやめただけ。だから安心しちゃあ、いけないぜ」 キイロは人差し指を立てて、その指を左右に振って見せる。
「他の方法に切り替えるかもしれないってことか」
「そ。だからだっくんがしっかり守ってあげないと」
「お前は、守らないのか?」
「私が?」 目を見開くキイロ。「なんで?」
「いや、なんだかんだで、けっこう気にかけてるだろ。先週、俺がモモナからウニを取り上げた時も、俺から回収して、モモナに返してくれたし。その前から、俺がモモナを気にしてるのを知ってて、あれこれ情報を渡すような話をしてくれたし——」
「それはだっくんが都合よく解釈してるだけ。あの子の話をしたのは、その話題ならだっくんが興味持ちそうだったから。ウニを回収したのは、その件でスイカがプンスカ怒ってたから。私がそんな深い考えで動くわけないじゃん」
「お前は、モモナのことを『あの子』って呼ぶけど、一度だけ『ルドウさん』と呼んだことがある」
「へえ、そんなことあったっけ。だっくんの勘違いじゃないの」
「いいや。俺がアカデミアに来てすぐのことだ。昇降口から飛び出してきたモモナとぶつかった後、お前が『ルドウさん、またやられてるよ』って、俺に聞こえるように言ったんだ。まるで、さっきの女の子がルドウ・モモナだと俺に教えるように」 あの時は、そう教えてくれたのがタタラ・キイロだとは知らなかったので、何も気にならなかったが。「あれは一体、どういう了見だ」
「あちゃあ、覚えてたかー」 キイロは頭の後ろで手を組むと、そのまま後ろに倒れるように、上半身をベッドに預けた。「リッキーに言われたんだ」
「ハチリキに?」
「そ。まあ、その時はその人が誰なのかはわからなかったし、今も、リッキーがどういう人なのかあんまりわかってないけど、とにかく、言われたわけ。ルドウ・モモナとぶつかる男がいるから、そいつに、ぶつかった相手がルドウ・モモナだとそれとなく伝えてみろって。そうすれば面白いことになるからって。そしたらホントに面白いことになったからびっくり。だって、あそこでだっくんがあの子が誰かわからないと、追いかけることもなかったわけじゃん」
「ハチリキのやつ……」 そんなに早い段階から行動を開始していたのか。だが、ダクイが来たこの時間より前には戻れないだけで、ダクイより先に行動できないわけではない。きっと、何度も繰り返した結果、あのタイミングでダクイにモモナの存在を自覚させるのが、必要な分岐の一つだったのだろう。そういう細かい分岐を何度も試しながら、ハチリキは今のこの時間を見つけたのだろう。辿り着いたのだろう。「結局、どこまでがハチリキの指示で、どこからがお前の本音だったんだ?」
「さあね。私が本音を言ってるつもりでも、それはリッキーにそう誘導されただけかもしれないし、ホントのところは私にもわかんないよ」
「まあ、そうだよな……」
どうしても知りたければ、ハチリキに直接尋ねるしかない。しかし、会うことができるだろうか。もしもこの時間が、ハチリキが目指していたルートの上にあるのだとすれば、もう彼がダクイの前に姿を表す理由はなさそうだ。とりあえず、今晩もいつも通りあのファミレスに行けばわかるだろう。どのみち、ハチリキのためではなく、夕食のために毎日通っているファミレスだ。ハチリキに会えなくなったところで、ファミレス通いをやめることはない。
「だっくん」 キイロは、横を向いて腰を曲げ、頭を枕の上に乗せると、下ろしていた足も上げて、全身をベッドの上に乗せた。「添い寝してあげよっか」
「断る」
「あっそ。じゃあお願い。添い寝して」
「断る」
「あの子——、モモナに同じこと言われても断る?」
「モモナはそんなお願いしてこない」
「じゃあスイカ」
「それは……」 あり得ない展開ではない。ベッドで横になって、添い寝してください、と言ってくるスイカ。真剣に考えかけたが、これこそがキイロの真意だと思い至った。「モモナを名前呼びするのが照れ臭いからって、俺を恥ずかしさの道連れにしようとするな」
「ちぇっ、なーんだ、バレてたかー」 キイロは仰向けになると、手足を大の字に広げた。「モモナ。モ、モ、ナ。モーモナ。スイカ。うーん、スイカは普通なのになぁ……」
「まあ、気が済むまで練習しててくれ」 ダクイはキイロに背中を向けて、扉に手をかける。「色々、ありがとうな」
「モモナモモナモモナ——」
練習を続ける声で、キイロの耳に感謝の言葉は届かなかったようだ。だが、これからいくらでも伝える機会はあるだろう。
ダクイは扉を開ける。
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