26
「確かに、君にできないことは私が代わりに実行しようとは言ったが……」 ハチリキの声は、いつもと変わらず低かった。「まさか君に頭を下げられる日が来るとはな」
ダクイは、両手をついて額をテーブルに密着させたまま、ハチリキの声を聞いていた。ダクイだって、ハチリキに頭を下げることになるとは、この数時間前まではまったく想定していなかったことだ。
「しかし、そうだな。こうして君に頼み事をされるのは初めてだ。ここはひとつ、聞いてやっても構わんよ」
「本当か……!」 ダクイは手をそのままに顔を上げて、ハチリキを上目遣いに見る。
「まあ、君とタタラ・キイロに接触の場を設けることくらい、たいしたことではないのでな。私が代行しようと言ったのは、こういうことではないのだが、まあ、いいだろう」 それにしても、とハチリキは興味深そうな視線をダクイに投げかける。「一体どういう風の吹き回しかね? 私に頼み事なんて」
「別に、なんでもない」 言いながら、ダクイは体を起こしてハチリキに正対する。「ただ、俺にできることを全部やろうと思っただけだ」
「できること?」 ハチリキは鼻で笑った。「君に一体、何ができる? タタラ・キイロと会ったところで、何が言える?」
「わからない」 ダクイは静かに首を横に振る。「キイロが何を考えているのか、それはわからない。だけど、自分が何を考えてるかは、自分のことだからわかる。だから、俺の話をして、そして、キイロの話を聞く」
「やれやれ……、まるで答えになっていないな。因子や他の学生と接するうちに、君まで子供になってしまったのかね」
「かもしれないな」 ダクイは否定しなかった。
そんな昨夜のハチリキとの会話を思い起こしていると、制服姿にマフラーを巻いたキイロが現れた。少しでも寒さを和らげるためか、両腕で自身の体を抱き締めるようにしている。その首元のマフラーが黄色であることに、ダクイはどこか安心感を覚える。
「あり得ない」 そんなダクイの安心をよそに、キイロはぶつぶつと怒りを露わにしていた。「土曜日に学校に呼び出すとかあり得ない。しかもこの寒いのに中庭とか嘘でしょ。信じられない」
「悪かったな」 ダクイはベンチから立ち上がって、顔の前で両手を合わせる。自分の手が冷えていることがわかった。「来てくれて嬉しいよ。ありがとう」
「ホント、感謝してよね。だっくんが私を呼び出すなんて、百年早いぜ」
「百年か。それはさすがに長いな」 言いながら、ダクイはキイロの横まで歩く。
「何年後から来たの?」 待つように立っていたキイロは、ダクイが隣に行くと、校舎を向いて歩き出した。
「ハチリキから聞いてないのか。十二年後だ」 ダクイもキイロに並んで足を進める。
「なんだ、そんなもんか」
「そういう言い方されると、引っかかるな……。どれくらい先をイメージしてたんだ?」
「うーん、どれくらいって聞かれると、そんな具体的にイメージしてたわけじゃないけど、でも、十年ちょっととは思わなかった。十二年てことは、私は二十七歳か。うわあ、アラサーじゃん。わっ、急にすっごい未来に思えてきた。ね、二十七歳の私、どんな感じ?」
「いや、そこまでよく知ってるわけじゃないんだ」 政治家としてのキイロの所業は聞き及んでいるが、それをここで伝えることは避けておく。あくまでも聞いた話であって、ダクイが見たキイロの姿でもないのだから。「並行世界とはいえ別の世界のことだし。俺の世界とこの世界がつながったのは、最近のことなんだ。ああ、俺の時代での最近な」
「あ、そっか。世界も違うんだっけ。だっくんの世界では、ドラゴンが飛び回ってたり、動物が喋ったりするわけ?」
「そんなファンタジーじゃない。この世界とほとんど同じだ。異世界じゃなくて並行世界、パラレルワールドだな。ほら、見た目も話す言葉も同じだろ?」
「そういえば——」 キイロは少し早足でダクイより前に出ると、こちらを向いて後ろ向きに歩き始める。ダクイの全身を観察するように、目を上下に動かしている。「あー、確かに。普通に日本人だ」
「だろ。日本人だ。俺の世界でも、俺の国は日本で、そこに住む人は日本人と呼ばれる。どこかの時間から分岐しただけで、元は同じ世界だ」
「なんだ。ホントに一緒じゃん。つまんないの」
「期待に添えなくて悪かったな」
話しているうちに、昇降口まで回ってきて、そのまま校舎に入った。ダクイはどこかに向かって歩いているわけではない。キイロの歩調に合わせているだけだ。キイロはどうなのだろう。もしも、キイロもダクイの歩調に合わせているのだとしたら、一体誰が、どこに二人を向かわせているのだろうか。二人とも、行き先について疑問を呈することなく、ただ決められていたように靴を履き替えた。
「でも、リッキーみたいなことはできるわけっしょ?」 先に上履きに履き替えたキイロが、廊下でダクイを待って立っている。
「ああ、あの、どこからともなく現れて、どこに行くでもなく消える卑怯技か。あれは、俺の世界の能力じゃなくて、俺の時代の技術だ」 ダクイは少し急いで靴を履き替え廊下へ。
また二人は歩き出す。
「てことは、十二年後には、あんなことが普通にできるようになるんだ」
「まあ、色々制限はあるから、普通とは言えないけどな。俺は、その制限で、あんなふうに自由に使えない」 本来、ハチリキにもその制限がかかっていないとおかしいのだが。いくら反政府組織とはいえ、あそこまで自由に使えるものなのだろうか。
「ふうん、そっか。ま、なかなか夢ある未来じゃん……」
夢という言葉を使った途端、キイロの声が少し弱くなったのを、ダクイは感じた。キイロは前を向き直して、普通に歩き始める。また、表情を隠したのだろうか。涙声になっても泣き顔を見せなかったように。
「てかさ」 普通のキイロの声。「こんな雑談するために呼び出したわけ? けっこう覚悟して来たんだけど、調子狂うなあ」
「別にいいだろ。ほら、他にも何か、俺に聞きたいことないのか? 俺の世界のことでも、未来のことでもいいぞ」
「何それ。わざわざ休みの日に学校まで呼び出しといて、何か話があるんじゃないの?」
「いや、ただお前と話がしたかっただけだ。そんな堅苦しいもんじゃない。お前とは、これくらい軽い気持ちで喋らないと、疲れるからな」
「あっそ。ま、それは前に私がだっくんに言ったことだから、自業自得だと思って諦めてあげよっかな」
諦めて、という言葉で、またキイロの声が弱くなる。ダクイは歩調を早めて、キイロの隣に進み出る。すると、キイロはまた歩く速度を上げて、ダクイより前に出た。
「じゃあ、質問」 前を向いたまま、キイロは言ったが、続きの言葉はなく、連動するように足も徐々に減速し、最後には止まった。それから数秒して、ようやくキイロは口を開く。「もし……、もしも未来がだっくんの望む通りに変わったら、どうするの?」
「どうするって……」 ダクイもキイロの斜め後ろで立ち止まる。「それは目標が達成できたんだから、もう何もすることはないさ」
「そうじゃなくて」 もう、とキイロは顔についた虫を払うように、大きく首を左右に振った。それから、両手を後ろで組んで、いつもの頭ではなく腰の下で組んで、とん、とん、と一歩ずつ確かめるように、四歩前に出た。「だっくんは、未来に、帰ったりするのかなぁ、とか、思ったりなんかして」
「そりゃあ、まあ、全部スッキリ解決したんなら……、未来を知ってる俺がずっとこの世界にいるのはリスクがあるし——、お前、もしかして……」 ダクイの頭に、ある発想が沸いたが、それを口にすることは憚られた。
「スッキリ解決ねぇ……」 妙に含みのある言い方をするキイロ。「それってつまり、あの子がウニと幸せになって、スイカが好きな人と結ばれて、私が——、政治家にならなかったら、てこと?」
「モモナとスイカのことはともかく、最後のは違う。お前が政治家になるかどうかは関係ない。お前が、夢を叶えたら、だ」
「ふうん。じゃ、私が夢を叶えられなければ、いつまで経ってもだっくんは、自分の世界に、未来に帰れないんだ」
「お前……」 ダクイの中で、疑惑が確信に変わった。「やっぱり、俺を未来に帰したくなくて——」
「あーあ、バレちゃったか……。ま、今のは私からバラしたようなもんだけど。隠してたら何回もこうやって休日に呼び出されそうで嫌だしね」 キイロは振り返って、ダクイの前で両手を腰に当て、不敵に微笑んだ。「もち、当たり前じゃん。このタタラ・キイロが、他人に何か言われた程度のことで、簡単に諦めるわけないっしょ。十二年後の私が政治家になってるって? だからなに? 十三年後の私がモデル兼デザイナーになればいいだけのことじゃん。政治家踏み台にしてでもなってやるし」
「だよな。ああ、そうだよな」 言いながら、ダクイは言葉に喜びの感情が乗ることを抑えられなかった。「やっぱりお前は、そういうやつだよな。本当に……」
強い奴だ。モデルかデザイナーだったのが、しれっとモデル兼デザイナーにパワーアップしているし。
スイカの言った通りだったし、そのことをわざわざ伝える必要もなかった。
「いいや、十年以上先とか遅すぎるぜ」 キイロは息巻いて続ける。「そんな未来を知ったからには、もっと早くなってやる。私の未来は私が変える」
モモナも言っている。自分の夢は自分で叶える、と。
まったく、どいつもこいつも、本当に。キイロの言う通り、お節介が過ぎたのかもしれない。過去の人だから、別世界の人だから、中学生だから、女の子だから、そんな風に、勝手に弱い存在だと決めつけていた自分が馬鹿らしい。
「てわけでだっくん」 キイロはしっかりとした足取りで、ダクイとの距離を詰めた。「私にこんなことをわざわざ言わせたんだから、ちゃんと責任とってよね」
「責任?」
「そ。こんな宣言しといて、なれなかったらカッコ悪いし。だからだっくんは、ちゃんと私の未来を見届けること。スイカやあの子の未来もね」 確認するように、キイロはダクイの顔に指を突きつける。「勝手に満足して勝手に未来に帰るとか、絶対許さないから」
「ああ」 ダクイは強く頷いた。「宣言する。俺はお前やモモナ、スイカを置いて、勝手に帰ったりしない。お前たちの未来を、一緒に見届ける。見届け続ける」
「おっけ」 短く言うと、キイロはまた廊下を進み始める。
ダクイからその表情はまた見えなくなったが、初めて会った時と同じように、頭の後ろで手を組んで、気楽そうに歩いていた。
ダクイは、わざと並ばずに少し後ろをついていく。
宣言するまでもなく、ダクイは未来に帰るつもりはなかった。
それで構わない。モモナの夢を応援すると決めてから、同時に帰らないと決意もしていた。モモナだけじゃない。スイカも、キイロも、ここまでして三人を置いて帰るなんて、とてもできない。それができる冷酷さがあれば、こんな遠回りな手順は踏んでいなかっただろう。ハチリキから促されるまま、夢を奪っていたに違いない。
突き当たりでキイロは立ち止まる。右手には階段、左手には渡り廊下に出る扉。当然左だろうと思って、ダクイは進行方向を変えようとしたが、キイロが向いたのは右だった。そして彼女は階段に足をかける。
「勝手に帰って、スイカを悲しませちゃあ、いけないぜ」 キイロは階段を昇り始める。
「悲しむのはスイカだけか?」 ダクイは昇らず見上げる。
「あの子も悲しむかもね」 キイロは一人で昇る。
「素直じゃないな」 ダクイは待つ。
「馬鹿素直なだっくんから見たら、そうかもね」 踊り場まで昇ると、キイロは振り返ってダクイを見下ろした。「ま、だっくんがどうしてもって言うなら、私も悲しんであげよっかな」
「そりゃどうも」
「今のはリップサービスだぜ」 キイロはサッと身を翻して、踊り場から見えなくなる。階段を駆け上がる音。「あばよ!」
上から降り注ぐようなキイロの声を受け止めて、ダクイは大きく息を吐いた。
「休日の校舎のどこに行くんだよ……」
その声は、キイロには届かなかっただろう。それに、キイロはどこにでも行く。そこがどこか関係ない。その先に望むものがあるなら、なりふり構わず夢中で進むのだろう。
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