25
結局この日は、キイロとは会えなかった。
今日は金曜日なので、次にチャンスがあるとすれば休日の土日を挟んで週明けの月曜日になってしまう。この状態で二日も空けてしまうのは、危険な気がする。しかし、どうすればいいかわからない。会わないことには、話さないことには、何も動かない。
放課後、ダクイの足は自然に中庭へと向かっていた。今朝キイロと最後に話した場所。月曜日から毎日、モモナと話した場所。そういえば、スイカとは中庭に来たことがない。誘ったら喜ぶかもしれない。喜んで、それから、どうなるだろう。余計な期待をさせてしまうだけだろうか。その期待は余計なものなのだろうか。彼女の夢を叶えてやりたい気持ちはあるが、それを理由に彼女の気持ちに応じるのは間違っている、とダクイは考えている。もしもこれから、本当に、心からスイカを受け入れたいと思える時が来たら、その時はその心に素直になろう。という考えは、ダクイが都合良く答えを先延ばしにしているだけだろうか。スイカについて考えると、決まってそんな自問自答に帰結してしまう。同時に、キイロに言われた自己満足という言葉も心に刺さっていた。ダクイがしていることは、しようとしていることは、所詮は全て自己満足なのではないか。ハチリキにも指摘されていたことではあるが、キイロに言われると、その衝撃はずっと大きかった。
「あ、ダクイ先生」 いつもと変わらないモモナの反応。それだけでダクイはどこか安心感を覚える。「キイロちゃんと、お話しできた?」
「ああ……、まあな」 ダクイは曖昧に頷く。
「そっか……。難しいね」 ダクイの返事で、うまくいかなかったことがモモナにも伝わったのだろう。「さっきまで、いたんだよ、キイロちゃん」
「えっ……」
「落ち込んでるかもしれないから、励ましてあげてって、頼まれちゃった」 モモナは片手を頬に添えて、困ったように口を尖らせる。「そうしたら、本当にダクイ先生が暗い顔してくるんだもん。ごめんだけど、可愛くて」
「可愛い?」 ダクイは耳を疑って、自分の顔を指差す。「俺が?」
「うん」 モモナは笑いを堪えるような顔で、ダクイを見上げた。「暗い顔が照れた顔になったね」
ダクイは中庭の空気を吸い込んで、肺に溜まっていた空気を吐き出した。それは、昨日からずっと溜まっていた空気のように感じられた。モモナがいるベンチへ歩み寄る。
「お前もキイロも、優しいんだな」
「うん。キイロちゃんは優しいよ」
「お前もだよ」 ダクイは腕を伸ばす。遅れて、それはモモナの頭を撫でようとしての動作だと自覚。それから、能動的に腕を引っ込める。
そんな動きを、キョトンとした顔でモモナが見ていた。
またこの感覚だ。今朝のプールでもそうだった。モモナは、撫でるように、時折ウニの頭に手を載せる。同じことを、ダクイはモモナにしそうになる。そんな衝動。スイカやキイロには感じたことがない衝動。無意識にモモナを子供扱いしているのだろうか。
ダクイは、ベンチに腰を下ろす。今日も、モモナとの間には一人分のスペース。いつもは、中央に座っているモモナが端に移動してくれるのだが、先ほどまでキイロが座っていたのだろう、初めからモモナは端に座っていた。
「キイロは、元気だったか?」
「うん。元気そうだったよ」 答えてから、突然モモナが声を出して笑い始めた。「面白いね」
「急にどうした? 何が面白いんだ?」
「だって、お互いに心配し合ってるんだもん、ダクイ先生とキイロちゃん」 涙目になるほど笑っていたモモナは、片手で両目のそれを拭う。「なのに、どうしてうまくいかないんだろうなって」
「俺は……、キイロに心配されてるのか」
「そうだよ」 簡単に頷くモモナ。「心を配るって書いて、心配。黒山羊さんと白山羊さんみたい」
「山羊? ああ、お互いに配り合ってるってことか」
「読まずに食べた」 リズムに乗せてモモナは体を左右に揺らしながら歌う。「仕方がないのでお手紙書いた、さっきのお手紙——」
「なんて書いたの」 ダクイが引き継ぐ。
「ちゃんと読まないとね」 笑窪を作って、モモナは首から上をダクイに向けた。
読んでいないつもりはないが、キイロの言葉を全て受け止められている自信はなかった。なにしろ、スイカと昼休みに少し話しただけで、ダクイが思い及ばなかった考え方がぽんぽん出てくる始末だ。きっとまだ、キイロのことを理解しきれていない。そしてきっと、こちらのことも理解してもらえていない。ダクイが理解してもらおうとしていなかったからだ。なのにこちらは一方的に理解しようとしていたのだ。それは自己満足と言われても仕方ないことだった。今になって、それに気付いた。
気付かされたのだろうか。
ダクイは、探るようにモモナの目を見つめる。見た目には中学生であることも疑わしいくらいの幼さだが、どうにも考え方や気の持ち方がその見た目にそぐわない。
「えっと……」 目が合うと、モモナはすぐに逸らした。「どう、したのかな」
「何か、してほしいことはないか?」 ダクイの口は、自然にそう尋ねていた。
「して、ほしいこと……?」 モモナの声に戸惑いの色が窺える。「えっと、急に、何かな」
「いや、お前の夢を叶えるなんて言っておいて、何もできてないなと思ってな。それどころか、お前に助けられてばかりだ」
「え、ええっと、そんなこと、ないよ。私がダクイ先生を助けたことなんて、あったかな」 目を泳がせながらモモナは言う。心なしか、ウニを抱く腕にも力が入っているように見受けられた。「今日の朝だって、助けてもらったのに」
「俺が助けたのはウニだ。お前じゃない」
「それは、そうだけど」 俯いたかと思うと、モモナはすくっと立ち上がり、早足でベンチの前をぐるぐる回るように、短いスパンで行ったり来たりし始める。「でも、ウニは家族だし、家族を助けてくれたんだから、それで十分、かな。それに、私の夢は私が叶えるから、大丈夫だよ。だから、ダクイ先生は、私じゃなくて、キイロちゃんや、その……、スイカちゃんに、何かしてあげたら、いいんじゃない、かな」
モモナはダクイの正面で立ち止まると、片手を伸ばして、広げた手でダクイの顔を隠すようにした。その指の隙間から表情を窺うと、目を閉じて口を結んでいる。
「何を……、何をしてあげればいいんだろうか」 ダクイは首の力を抜いて、空を見上げる。ダクイの頭の中とは対照的な、雲がない突き抜けるような空だった。「俺にできることが、あるんだろうか……」
「あるよ、たくさん」 モモナは腕を下ろし、ゆっくりと目を開けてダクイを見据える。「私は、ダクイ先生が、私の夢を応援してくれるだけで、嬉しいよ。何もしてあげられてないって言うけど、そんなことないもん。何ができるか考えるより、できることを全部、やればいいんじゃないかな。あの、だから、えっと、何言ってるのかな、私……」
きっとモモナは、同じ考えで自分の夢を叶えるためにできることを、全てやるのだろう。そうでもしないと、並行世界を見つけ出すなんて真似はできない。
ウニを持ち上げて、顔の目より下を隠すと、モモナはそのままダクイに近付いてくる。こうして向き合うと、ベンチに座っているダクイと、立ち上がっているモモナの顔の高さが、ほとんど同じだった。
何を思ったか、モモナは探るように右手を伸ばすと、その手をダクイの頭に載せた。いつもウニの頭を撫でるその手で、ダクイの頭を撫でたのだ。
「うん。大丈夫。大丈夫だよ。ダクイ先生なら、何でもできるよ。私とウニが保証する」 えへへ、とモモナはダクイの頭から手を離して笑った。「そんな保証じゃ、頼りないかもだけど」
「いや……」 戸惑いつつもダクイはどうにか言葉を返す。「ありがとう……」
「うん」 モモナは体の向きを百八十度変えて、背中を向ける。もちろん、表情もダクイからは見えなくなった。「どう、いたしまして……」
部活動に勤しむ生徒たちの声が遠くに薄く聞こえる。頬に緩やかな風が当たり、連動するように草木が揺れる音も耳に届く。モモナにも、同じ音が聞こえているだろうか。モモナの後頭部をぼんやりと見つめながら、ダクイの頭には、現状とはおよそ無関係と思われる思考が巡っていた。まるで、目の前で起きた出来事について、深く考えることを本能が避けるように。
「わ、私っ!」 勢いよく裏返ったモモナの声が、穏やかだったダクイの鼓膜を大きく震わせた。「そっ、そろそろ帰らないと! じゃあね!」
ダクイが何か言うより先に、モモナは慌てた様子で駆けて行った。
ダクイの耳は、再び取り留めのない音を取り込み始めた。
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