22
初めてアカデミアのジャージに袖を通すのが、体育の授業でもなければ部活動の顧問でもなく、プールに飛び込んで濡れた服の代わりになるとは予想していなかった。月曜日に初めてアカデミアに来て、初めてモモナに会って、彼女がプールに飛び込むところを見た時は、まさか自分が同じことを同じ理由で行う日が来るとは、予想だにしていなかった。今日は金曜日なので、たった四日前だ。それなのに、ずいぶん変わったものである。ダクイは、そんな自分の変化に気付いて、過去の自分に同情するような息を吐いた。
保健室のベッドに腰掛けているモモナは、タオルで包まれたウニを抱いて、両足を前後にブラブラさせながら、自身の膝を見つめるようにしていた。
「今日はおとなしいな」 プールから保健室まで、道中含め終始無言でいるモモナを不思議に感じて、ダクイは尋ねた。「何かあったのか?」
何かあったと言うなら、大事にしているぬいぐるみをプールに投げ込まれたということが事件なのだが、モモナが今更そんなことで落ち込むような女の子でないことは承知している。
「何もないよ」 何かありそうにモモナは答えた。「ダクイ先生こそ、何か、あったんじゃないのかな」
「俺が? いや、何もないけどな」
「さっき、プールに向かう途中、スイカちゃんとすれ違ったんだ。すっごく嬉しそうな顔してたの。幸せそうだったな……」
「そうか……」 昨日のスイカの告白に、モモナも同席していたのだ。
「だからね、ダクイ先生が、何かしたんじゃないかなって、思ったんだ。うん」 揺らしていたモモナの足が止まる。「昨日の……、返事をしたんじゃないかなって」
「ああ……、いや、まだ返事はしてない」
「そっか」 モモナはほっとしたように小さく微笑んだ。視線は斜め下を向いたままだが。「なんて返事するのかな?」
「わからない」 そうダクイは首を振り、これはモモナが普段よく使う言葉だなと連想。
「答え? 言い方?」
「どっちもだ」
「そっか。ダクイ先生も、悩んだりするんだね」
「そりゃ、悩むこともあるさ」
「答えもわからないってことは、ダクイ先生は、スイカちゃんのことが、好きじゃないのかな」
「いや、そんなことはない」
「好きなの?」 ようやくモモナは顔を上げて、ダクイを直視した。「スイカちゃん、すっごくいい子だよ」
「ああ、知ってる。スイカはいい人だし、お前も、キイロもいい人だ。だから、俺の中で、スイカは特別な存在じゃないんだ」 因子の一人という意味では特別ではあるが。
「私がいい人かどうかはわからないけど……、そうだね。キイロちゃんもいい人だね。あと、ダクイ先生も、いい人だよ」
「俺が……、いい人か?」
「うん。だって、キイロちゃんのこと、助けたいんだよね」
ダクイは言葉に詰まった。昨夜ハチリキに宣言した通り、キイロの夢を叶えてやろうという意気込みはある。しかし、それがキイロを助けるということなのかどうか。自分がしようとしていることは、キイロの意志を無視した行為なのではないかという不安が、モモナの言葉によって湧き上がった。
「前に話したよね」 ダクイの不安をよそに、モモナは話し出す。「キイロちゃん、私からウニを取り上げたことがあるんだ。昨日、スイカちゃんにお説教するところ見て、思い出しちゃった。私の時も、そうだったんだよ」
「あれをお説教って言えるお前が凄いよ」
「お説教だよ。だって、キイロちゃんは、スイカちゃんのことを考えてたもん。自分のことを考えてたら、あんな嫌われるようなこと言えないもん。なんとなく話を合わせて、自分が嫌われないように、相手に好かれるようにする方が、ずっと簡単なんだもん」 どこか儚げな言い方をするモモナ。それはきっと、ウニを通して一歩引いた目で世界を見ているモモナだから言えることなのだろう。「たぶんキイロちゃんは、スイカちゃんに嫌われたと思ってるよ。私の時もそうだったもん。口では友達って言ってくれるけど、キイロちゃんは、私と、距離を置いてるもん」
それは、ダクイにも思い当たる節があった。わかりやすいところでは、キイロがモモナの名前を口にせず、あの子としか呼ばないことだ。
ダクイは昨日、食堂で二人きりになってからのキイロを思い出す。泣きながら笑っていたキイロの姿を。そんな姿を隠そうとするキイロの背中を。彼女は、スイカに嫌われたと思って泣いていたのだろうか。
「私は、キイロちゃんのこと嫌いじゃないし、スイカちゃんも、ちゃんとキイロちゃんのことわかってた。感謝してた。だからあとは、キイロちゃんが自分を許すだけなのに、キイロちゃんは、自分に一番厳しいから……」
「お前……、人のことよく見てるよな」
「ううん、見てるのはウニだよ」 タオルに包まれたウニを、モモナは見せるように掲げる。それから、ゆっくりとそれを胸に近付けて、抱きしめた。「もう、キイロちゃんに、会えないのかな……」
「会えるさ」 と言ったものの、ダクイもどこか、そんな気がしていた。「もう一度会って、ちゃんと話をするって、約束したんだけどな」
「そっか。じゃあダクイ先生は会えるね」 モモナはウニの頭をそっと撫でた。「キイロちゃんは、約束を破ったりしないもん」
「お前も会えるさ……」 ダクイの中で、キイロに約束を死守する律儀なイメージはなかった。それは、何か具体的な実例を伴った想像ではなく、単に付き合いが短いだけだからだろう。何しろまだ金曜日、ダクイが初めてアカデミアに来た月曜日から、まだ四日しか経っていないのだから。「キイロと話か……」
キイロと話すとして、今のモモナの話を聞いたダクイは、何と言ってやれば良いのだろうか。昨日は、ハチリキとの関係を問い詰めたくて必死だったが、その件については昨夜ハチリキ本人と話をして、とりあえず落ち着いている。同時に、キイロの夢を叶えてやろうという気概も、落ち着いていた。モモナと話しているうちに、それよりも優先すべきことがあるような気がしてきた。
「もしも……」 ダクイは、何かヒントを求めて、質問を始めていた。「未来から来た人に、お前の夢は叶わない、未来では叶っていないって教えられたら、どうする?」
「えっ、未来? うーん……」 突然のもしもに驚いたようだったが、しかしモモナは考えてくれる。「まずは、ありがとう、かな」
「ありがとう?」
「うん。教えてくれてありがとうって」 モモナは誰もいない空間に頭を下げる。「それから、どうして叶ってないのか聞きたいかな。聞いて、それから考えるの。じゃあどうすれば叶えられるかなって」
「やっぱりすごいな、お前は」
「そうかな? 誰でもそうすると思うよ。だって、未来で叶ってないからって、そんなので諦められないもん。未来で叶うようにするのが、叶えられるようにするのが、夢だよ。簡単に叶うようなら、それは夢じゃないと思うな」 えへへ、と照れ笑いを添えるモモナ。「私は、笑われても否定されても、絶対に諦めないよ。ちょっと傷つくかもしれないけどね」
これが、ルドウ・モモナだ。夢を叶えるために並行世界を見つけ出すほどの存在。始まりの悪夢と、ダクイの世界ではモモナをそう呼ぶ人が少なくない。一見無謀な夢を追いかけ続けるその姿勢は、ある種、悪魔的ではある。
「ありがとう」 ダクイは一言お礼を言って、立ち上がる。どこか行く当てがあるわけではなかったが、動かないと始まらないような気がした。「そろそろ行くよ」
「うん。キイロちゃんによろしくね」
ダクイの考えの変化なんて、モモナにはお見通しなのかもしれない。
片手を上げて応え、ダクイは保健室の扉に手をかける。今は、キイロがアカデミアにいると信じて動くしかない。迷宮へ入るような気持ちで、ダクイは保健室の扉を開き、廊下へ踏み出した。
後ろ手で扉を閉める。今度はモモナにもう会えないような気がした。だが逆にキイロには会える予感がする。こちらから彼女に会いたいと思ったのは初めてではないだろうか。いつだって不意に現れて、好き勝手言われていた気がする。
廊下を進む。
本当なら、こういう時くらいこちらが待ち伏せしてやりたいところだが、残念ながらキイロが必ず現れる場所をダクイは知らないので、フラフラと校舎内を歩くしかない。
キイロも授業にでず、こうして毎日校舎内をうろうろしていたのだろうか。だとしたら、一体何を考えながら歩いていたのだろう。
もしも会えたら、そういう、何気ないことを話すのもいいな、とダクイは思った。
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