ファッション業界を夢見た政治家
21
「おはようございます」 と挨拶をしてくる生徒がいたら、そちらを向いて 「おはよう」 と返す。何も言わずに素通りしようとする生徒がいたら、そちらに向かって 「おはよう」 と大きめの声で言う。それが挨拶運動。ダクイが参加するのはこれで三度目だ。
「おはようございます」 と言われたので、流れ作業のようにダクイは声のした方へ体を向ける。しかし声の主を認めると、何を言えばいいのかわからなくなってしまった。
立ち止まってダクイをまっすぐに見つめているのは、ミナモ・スイカだ。すぐに、ダクイは自分の状況を思い出して 「お、おはよう」 と他の生徒にするのとできるだけ同じように返した。
普通なら、それで生徒はさっさと校舎に向かって足を進めるのだが、スイカが足を進めたのは、校舎ではなくダクイが立っている方向だった。何を言われるのかハラハラしながら、ダクイは気持ち身構える。
至近距離までやってきたスイカは、ダクイを見上げるようにして何も言わなかった。いつもと変わらない吊り目だが、そこにきつい印象はなく、凛とした晴れやかな目つきに感じられた。
「えっと……」 仕方なくこちらから口を開くダクイ。「どうした?」
「今日は体育の授業、ないんです」
「そ、そうか。そういえば、昨日の五限が体育だったもんな。そんな連日で体育ばかりやらないよな」
「そうですね」 頷かずに、ダクイの方を見つめ続けるスイカ。「体育があったらサボって、保健室でダクイさんに会えるんですけど」
「いや、俺もかなり自由にさせてもらってる自覚はあるけど、一応教育実習生だから——」
「でも」 ダクイが言い終わるのを待たずにスイカは続ける。「四時限目は普通にサボろうと思ってます。体調が悪いことにして保健室に行こうかと。ダクイさん、四時限目、保健室に来てくれませんか?」
「えっと、何かあるのか? 大事な話とか」
「いえ、特に何かあるわけでは」 問いかけを遮るように片手をあげるスイカ。「ただダクイさんと一緒にいたいだけです。保健室でお話しして、そのまま昼休みは一緒に食堂に行って、お昼ご飯を二人で食べませんか?」
「いや、それはさすがに——」
「では、昼休みだけでもいいです。それなら問題ありませんよね。昨日や一昨日もご一緒しましたし」
「まあ、そうだな」 前例を出されると、断れる理由がない。
断りたいのだろうか、とダクイは自分の気持ちを探る。こうしてスイカと顔を合わせることが、どこか気まずい。その理由は明確だ。ダクイが昨日の告白を保留にしているからに他ならない。ダクイがこの世界でするべきことを思えば、彼女の気持ちを受け入れるべきだ。そうしないと、スイカの夢が失われてしまう。今の彼女の夢は、ダクイに好きになってもらうことなのだ。だから、その夢が叶うかどうかは、ダクイに委ねられていると言っても過言ではない。過言どころか、それが現状であり、事実であり、現実であり、未来へ繋がる現在なのだ。
「ありがとうございます。では、昼休み、食堂で」 言い置いて、体を校舎の方へ向けるスイカ。とりあえず安心したダクイだったが、思い出したようにスイカは再びダクイを向いた。「言い忘れてました」
スイカは先ほどよりもさらにダクイに体を寄せてきたかと思うと、つま先で背伸びをして、ダクイの耳元に口を近付ける。何だ、と思いつつも、ダクイも体を傾けて、耳をスイカに寄せる。
「私はダクイさんのことが好きです」
返事は求めていないのか、ダクイが何かを言うより先に、スイカは体の向きを変えて、どこか軽い足取りで、校舎へと早足で歩いて行く。
もしも求められたら、何と返せばいいだろうか。今は先ほどのように昼飯の誘い程度で済んでいるが、いつまでもそうとは限らない。少なくとも、スイカは自分の気持ちを隠さなくなった。今はその状態で本人も満足しているのだろう。しかし、それが彼女にとって当たり前になった時、どういう展開になるのだろうか。誰かに相談したい気持ちに駆られる。真っ先に浮かんだのはハチリキだったが、それはすぐに振り払う。
もしかして、とどこか期待して背後を振り返ってみたが、誰もいなかった。昨日はタタラ・キイロがいた。スイカと話している間もずっと気を向けていたが、キイロはまだ校門を通っていない。アカデミアの出入り口はここだけなので、もしも登校してくるなら必ずその姿を見つけられるはずだ。それとも、ダクイが来るより前に、もうアカデミアに来ているのだろうか。
そんなことを考えながら校舎の方を見やると、昇降口から飛び出してくる女子生徒がいた。慌てた様子で、校舎前の舗装された道を駆けていく。彼女が向かう先に、プールがあることを知っている。そして、その女子生徒がルドウ・モモナという名前であることも知っている。
ダクイも同じ方向に走り出していた。モモナは何も持っていなかった。いつも抱いているピンクの犬のぬいぐるみ、ウニを持っていなかった。何が起きたのか、ダクイは即座に理解する。モモナがどういう人間なのか、ダクイの中で彼女の評価は大きく変わっているが、それはダクイが理解しただけで、モモナが変わったわけではない。モモナを取り巻く環境も、変わっていない。モモナはそれを不幸とは思っていないことを理解しているが、不幸だと思われそうな目に遭っていることは、変わっていない。
プールサイドで、すでにモモナは制服の上を脱ぎ始めていた。横目で、冬のプールに浮かんだウニを認める。
「俺が行く」 言いながら、ダクイは上着を脱ぎ捨てる。「服着て待ってろ」
「ダクイ先生……!」 モモナからすればダクイは突然現れたように見えただろう。「でも——」
モモナに何か言われるより先に、ダクイはプールに飛び込んだ。全身を襲う水の冷たさに歯を食いしばる。ここで表情を歪めてしまうと、モモナに罪悪感を抱かせてしまうかもしれない。ここは、何食わぬ顔でことを成し遂げなければならない。だからダクイは、あえて潜水してプールの水を全身で受ける。これで表情を崩しても、モモナからは見えないだろう。そのままプールの真ん中まで泳いで、下からすくい上げるようにウニを手に収め、水面から顔を出す。
プールサイドを見ると、泣きそうな顔でモモナがこちらを見ていた。何に対して涙を流そうとしているのか。ウニのことか、ダクイのことか、それとも他のことか、もっと複雑に入り乱れた感情が溢れそうなのか。ダクイは泳ぎながらいくつか想像するが、これだと確信できるものはなかった。少なくとも、初めてここで会った時は泣いていたモモナを、泣かせずに済んだようだ。できれば笑顔まで持っていきたかったが、それはこれから少しずつ変えていけばいいだろう。少しずつ、モモナの周りを変えていく。そして最後には、モモナが幸せに暮らせる世界にする。もちろん、そこにはウニもいる。スイカとキイロもいればいいな、とダクイは思った。
プールサイドまでどうにか泳ぎ着き、ウニを先に置いてから、水を含んで重たくなった服に苦戦しつつ、転がるようにプールから上がる。仰向けになると、視界が空の青だけになった。
「ダクイ先生、大丈夫?」 空を背景に、覗き込むモモナの顔がダクイの視界に現れる。「風邪ひくよ」
「かもな」 言いながら、ダクイは上半身を起こして、片膝を立てる。口に入っていたプールの水が喉の奥で動いて、思わず咳き込んでしまった。咳が収まってから、隣で膝をついていたモモナに笑いかける。「でも、ウニを冷たいプールの中で放っておけないからな」
ぽかんとした表情で口を開けているモモナ。そんなモモナの頭を撫でてやりたくなって、ダクイは片手を伸ばしかけたが、すぐにその手を戻した。プールの水で濡れている手で、触らない方がいいだろう、という理由で自分は納得した。代わりに、ウニを掴んで立ち上がる。
「さて、こいつを洗ってやらないとな」
プールサイドのコンクリートに両膝ついて、変わらず口を開けたまま、モモナはダクイを見上げていた。
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