10

 ダクイは昨日と同じ席で待っていた。階段のキイロ、ベンチのモモナ、何だか今日は待たれてばかりのように感じたので、最後くらいこちらが待つ側に立たせて欲しい。

「待たせたな」 別に約束も何もしていなかったが、まるでしていたかのような口ぶりでハチリキはダクイの正面に座っていた。何の予備動作もなく、今そこに現れた。「それで、一体どういうつもりかね」

「いや、ここでこうしていればまた会えると思って」 つまり、夜のファミレスで一人座っていれば。

「私と会ってどういうつもりかと聞いたのではない」 ハチリキはドスの効いた声で言う。「ルドウ・モモナをどうするつもりか、と聞いているのだよ」

「どうもしないさ」 ダクイは答える。「どうもしない。モモナには、今のままでいてもらう。今のまま、現実を見てもらう」

「それで因子は排除される、と?」

「ああ。別に彼女の夢を打ち砕く必要はない。むしろ叶えてやるべきだ。この世界で、叶えてやればいい。そうすれば、モモナが他の世界を探す未来はなくなる」

「それが君にできると?」

「そんな難しいことじゃない。何もモモナはこの世界全体を幸せで包み込もうなんて夢物語を実現しようとしてるわけじゃない。要はモモナにとっての世界が幸せになればいいんだろ。モモナがこの世界を、今の世界を幸せだと思えれば」

「君が、ルドウ・モモナにそう思わせる、と?」

「そうだ」 ダクイは意思表示も兼ねて強く頷いてやった。「俺がモモナを幸せにする」

「まるで愛の告白だな」 ハチリキは鼻で笑った。「ふん。まあいい。今のところ、ルドウ・モモナもこの世界を諦めてはいないようだったしな。しかし、これで任務を完遂したと思っていないだろうな」

「まさか」

「そうか。わかっていてくれて安心したよ。君はまだ、三つの因子のうち、一つを排除しただけに過ぎない。それも、排除とは言い難い、危険を孕んだ状態、要経過観察状態で置いているだけだ。言い方を変えれば、ただ保留しただけ。ルドウ・モモナの危険性を完全に取り除けていない以上、残り二つの因子にもアプローチしておくべきだと、私は思うがね」

「ああ、もちろんそのつもりだ」

 残り二つの因子、二人の少女。ミナモ・スイカとタタラ・キイロ。

「しかし、やはり政府のやり方は生ぬるいな」 ハチリキは片肘をテーブルについて前のめりになり、ダクイとの顔の距離を少し縮めた。「確かに我々はこの世界の、この時代の生命に危害を加えることはできない。しかし、物はその限りではない。あのぬいぐるみを引き裂くなり燃やすなりすれば、もっと簡単に事は運びそうなものだが」

 ぬいぐるみ。

 ハチリキがその言葉を使っただけで、ダクイの中で彼に対する敵対心が強まるのを感じる。モモナも、こんなふうに人を判断しているのだろうか。

「そんなことをしても何も変わらない」 ハチリキの言葉を振り払うように片手を動かして、ダクイは言ってやった。そんなことは、モモナ自身やキイロいわく、すでにこの世界の人間が何度も試みたことらしい。「彼女が夢見る世界が、ウニと一緒に幸せに暮らせる世界から、ウニと一緒でも幸せに暮らせる世界に変わるだけのことだ。モモナにとって、ウニがそばにいるかどうかは関係ない。存在するかどうかは関係ない」

「たった二日で、ずいぶんわかったような口を利くものだな」 ハチリキはテーブルから体を引いて、椅子に深くもたれる。「あまりこの世界の人間、それも因子そのものに肩入れするのは、得策とは思えないがね」

 肩入れ。ダクイは肩入れしているのだろうか。ハチリキの言う通り、ウニに危害を加えるという手段もあった。しかし、もしもキイロの介入がなく、ダクイがあのままウニを職員室まで持って行ったとして、そこまでのことをするつもりはなかった。モモナの反応によっては、口では燃やしたとか捨てたとか言うことも考えてはいたが、あくまでも口で言うだけ、嘘をつくだけのハッタリ、それを本当に実行しようとはしていなかった。それが、ハチリキに言わせれば肩入れしている、ということなのだろうか。

 しかし、とハチリキは再び口を開く。

「まったく、相変わらず政府のすることは理にかなっていないな。君のような人間を、どうしてこの重要な任務に指名したのか。もっと冷酷な人間は政府にいないのかね? まったく、生ぬるくて見ていられない」

「だから、それじゃ駄目なんだ」 ダクイの声は自然に大きくなった。「どうしてわからない。モモナからウニを、あのぬいぐるみを奪ったところで、彼女の夢は奪えないんだ。むしろ加速する。この世界に絶望して、すぐにでも他の世界を探し始めるかもしれない。俺たちの世界を見つけるかもしれない」

「それは君の判断、君の憶測だろう。実際どうなるかは、やってみないとわからない」 ハチリキは腕を組んで、口元を歪める。「なんなら、私が君の代わりにやってやろうか?」

「その必要はない」 ダクイはハチリキを強く睨む。「昨日も言っただろ。余計なことはするな」

「それが任務遂行のための君の決意なら一向に構わないが。しかし私にはこう言っているようにも聞こえるね。あいつに、そしてあいつのぬいぐるみに手を出すな、とね。もしも君がただの個人的な善意で、あるいは好意で、ルドウ・モモナを、そしてあのぬいぐるみを守ろうとしているのなら——」

「違う。だから、ウニをどうこうしても無駄なんだ。どうしてわからない」

「わかっているさ。わかっているが、それはやらない理由にはならないだろう。無駄だというのは、君の意見だ。結果ではない。それで上の人間は納得するのかね? いくら政府といえども、そこまで甘くはないだろう。実行した結果、無駄に終わったと、そう報告すべきではないのか。誰も君の感想なんて求めていない。違うかね?」

 悔しいが違わない。違わないが。

「それに——」 ダクイの葛藤をよそに、ハチリキは続ける。「ルドウ・モモナの悲願成就が早まったとしても、その時は、別のアプローチに切り替えればいいだけだ。ルドウ・モモナは諦めて、他の因子を処理すればいい。どのみち、ルドウ・モモナ一人がいくら夢を追い求めたところで、我々の世界とは直接的には繋がらないのだからな」

「だったら……、だったらミナモ・スイカかタタラ・キイロを排除すれば文句ないだろう」

「まあ、そうだな」 ハチリキは口元を斜めにして頷いた。「つまり君は、ルドウ・モモナを幸せにしつつ、他の因子の夢を奪う、というわけだな。果たして、そんなことができるかね。どうやら因子同士はすでに関わりを持っているようだ。そんな状態で、一人の因子には夢と希望を、残りの因子には現実と絶望を叩き込もうと、君がしようとしているのは、つまりそういうことなのだよ。自覚しているかね?」

「ああ、もちろんだ。自覚してるし、やり遂げてみせる」

「ずいぶん立派な口ぶりだな。まあ、今はその言葉を信じるとしようか。困った時はいつでも言ってくれたまえ。君のことだから、困った状況になっても、その意識がないかもしれないな。だからもっと具体的に言っておこう。もしも政府の人間としてできないことをしたくなれば、いつでも私が代わりに実行しよう。念押ししておくが、私と君の目的は同じだ。手段において、なかなか意見が一致しないがね」 ハチリキの身体がユラユラと揺れる。彼自身が動いているのではなく、ハチリキの存在そのものが、この世界と隔絶されたように動いている。「では、次に会う時を楽しみにしているよ」

 ダクイが何か言い返すより先に、ハチリキの姿は消えた。立ち去ったとかではなく、文字通り消えたのだった。

 これからダクイがすべきことは、すでにハチリキが言葉にしてくれた。ありがたいとは思わないが。

 ルドウ・モモナに夢と希望を、ミナモ・スイカとタタラ・キイロに現実と絶望を与える。

 こうして改めて言葉にしてみると、確かに難易度が高そうだ。まだ火曜日。ダクイがこの時間に、この世界に、アカデミアに来て丸二日も経っていない。

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