09
「実はね、ウニを取り上げられたの、初めてじゃないんだ」 えへへ、と乾いた笑いを交えながらモモナは言った。「あ、昨日みたいなイタズラで取られるのは別だよ。先生みたいに、私のために——、私のウニへの依存を解決するために取り上げる人、たまにいるの」
「まあ、そうだろうな……」
モモナは中学二年生、ぬいぐるみを肌身離さず持ち歩くことが一般的に許容される年齢ではない。不自然だ。そこに何か、モモナ自身が言うところの依存を感じ取って、それを解決しようとする外圧は幾度かあったと推察される。そのうち何人が、モモナとウニの関係性を理解しただろうか。ダクイだって、完全に理解できた自信はない。それでも、モモナはウニと一緒にいるべきだと感じている。しかし、ダクイが取り上げたウニは今、手元にない。どうしたものか。
「小さい子」 モモナは話し始める。「特に女の子って、ぬいぐるみとお話しするでしょう? 私もそうだった。毎日ウニと話してた」
「今は違うのか?」
「お話はしないかな。喋れないし」
そう、モモナはウニをぬいぐるみだと理解している。それは、昨日の保健室での会話でも明らかだった。それを理解した上で、彼女はウニを家族だと言い張り、ウニのためなら冷たくて汚いプールにも飛び込む。どこか矛盾しているが、それはダクイの印象であって、モモナの中には矛盾などないのだろう。ただのぬいぐるみが、同時に大切な家族でもあるというだけだ。
「みんな、ぬいぐるみとかお人形とか、小さい頃は何か大事にしてたものがあったと思うの。でも、いつかそんな気持ちは忘れて手放す。それが普通だって、みんな決めつけてる」
きっと彼女は、そういう決めつけの被害に、何度も遭ってきたのだろう。
「お前も、いつかウニを手放すのか?」
「わからない」 首を横に振るモモナの表情は、とても穏やかだった。「今の私は手放さないよ。でも、未来のことはわからないかな」
モモナが引き合いに出した小さい子どもなら、大事にしているぬいぐるみを一生手放さないと宣言するだろう。自分の考えが、環境が、いつまでも変わらないと思い込んでいるからだ。しかしモモナは現実を見ている。現実の中で夢を見ている。現実を受け入れて、未来を見据えている。現実が変わっていくものなのだと受け入れている。だからこそ、未来をわからないと断言できるのだろう。
今朝、校門でモモナからウニを没収した際、妙に潔かったのはそのためか。そういう現実を、彼女はただただ受け入れていたのだ。
ダクイは今、ルドウ・モモナを強くて、それ故に危ない女の子だと評価している。そして、この評価は変わるかもしれない。未来から来たダクイでも、やはり未来の自分のことはわからない。
「お前がウニを手放すことはない。きっと、ウニと一緒に幸せに暮らせる世界になるさ。そんな気がする」
「ありがとう。さっき、私とウニが幸せに暮らせる世界にしてくれるって、ダクイ先生が言ってくれたの、すごく嬉しかったよ。でも大丈夫。私の夢は、私が自分で叶えるもん。だからダクイ先生は自分の夢を叶えて」
「俺の夢?」 ダクイの頭の中で、自分の世界の景色が広がる。まだ安寧だった頃の景色が。
「本当の先生になるんだもんね」
「あ、ああ、そうだな」 もしかしてモモナは正体を知っているのではないか、という不安がよぎったが、そんなはずはなかった。教育実習生として来ているのだから、教師になろうとしていると考えるのが道理だ。
しかしダクイは任務をスムーズに進行するために、教育実習生という立場に身を置いているだけに過ぎない。だから、ダクイが教師を目指しているという方向に話が進むのは、どこか後ろめたく感じた。モモナに嘘を言うことになる。なのでダクイは話を戻すことにした。
「それにしても結局、お前からウニを没収しても、何も変わらなかったな」
「そゆこと」 背後から声。振り向くと、タタラ・キイロが腰に手を当てて立っていた。「もう、だっくんてば……。ちょっとは私のこと信じてよね。言った通りだったっしょ?」
「キイロちゃん!」 モモナの声が弾む。「どうしたの?」
「こーれ」 キイロが胸の前に掲げたのは犬のぬいぐるみ、ウニだ。「私がだっくんから預かってたんだ。職員室に置いておくと心配だ、授業に出ず一日中自由なキイロが肌身離さず持っていてくれって、頼まれてさ」
そんな頼み事はしていない。隙を突かれて掻っ攫われただけだ。しかし、それを訂正するほど野暮ではない。後々面倒なことになりそうな気がしないでもないが、ここはキイロに借りを作るとしよう。
「そうだったんだ」 上目遣いでこちらに向くモモナ。「ありがとう、ダクイ先生」
「あ、ああ、どういたしまして」 ダクイは曖昧に頷いて見せた。「ところで、お前らはどういう関係なんだ?」
「と、も、だ、ち」 一文字ずつ発音しながら、キイロはベンチの後ろから回り込んでモモナの隣に座ると、肩に腕を回し、モモナをグイと抱き寄せるようにした。そして、回した腕の先でピースサイン。
「もう、キイロちゃん——」 口調とは裏腹に、モモナは抵抗するようなそぶりを見せず、キイロに体を預けている。「あのね、キイロちゃんは、私とウニを引き離そうとしたことがあるんだよ」
モモナは目を細めて微笑んだ。昔を懐かしむようなその表情からは、キイロに対する負の感情は読み取れない。ダクイに対してもそうだったように。
「あはは、あったねー、そんなこと。いやー、さっきのだっくん見てて、あの時の私を思い出しちゃったよ」 そう言って笑い飛ばしながら、キイロはモモナの膝の上にウニをそっと置いた。「はいこれ。いやー、ウニが会いたがってたぜ」
「ありがとう」 モモナはウニを抱くようにして体に寄せる。「おかえり、ウニ」
感動の再会とは程遠い、貸していた本を返してもらった時のような反応。それは、ウニを持っていたのがタタラ・キイロだったからだろうか。モモナ曰く、スイカとキイロはウニをただのぬいぐるみ扱いしない人だ。これが他の、ウニをただのぬいぐるみとしか見ていない人の手に渡っていたら、果たしてモモナはどうなっていたのだろう。それも一つの現実として受け入れつつも、何かしらの抵抗はするのだろうか。昨日プールに飛び込んだように。
「さてと」 キイロはモモナを解放して立ち上がると、腕を真上に背伸びをした。「ううーん、雨も降りそうだし、私はここらでおいとましようかな」
「お前は一日中いとまだっただろ」 鼻で笑って、ダクイも立ち上がる。
「私は……、もう少しここにいるね」 座ったままのモモナは小さく手を振る。「じゃあね、ダクイ先生、また明日。キイロちゃんは、またいつか」
「おうよ。ウニと仲良くね」 キイロは片手を顔の横で広げた。
「じゃあな」 ダクイは控えめに手を少し上げる。
自然、ダクイはキイロと並んで中庭を歩く。しばらく互いに無言だったが、やがてキイロが口を開いた。モモナから見えない、そして声が聞こえない距離になるのを待っていたかのように。
「私さ、あの子が羨ましかったんだよね」 いつものように頭の後ろで手を組みながら気楽そうにキイロは言う。「あちゃあ、カッコつけちゃった。訂正訂正。今もそう。現在進行形で羨ましい。真っ直ぐでブレないっていうかなんていうか」
「芯が強い?」 思ったままのことをダクイは言ってみた。
「そうそう。あんな見た目なのにね。強いんだ」 キイロらしくない、しおらしい物言いだった。「それが羨ましくて、ムカついて、壊そうとしたんだよね。私もまだ子供だったからさ」
「今も子供だろ」
「今より子供だったってこと」
「今も子供なことは認めるんだな」
「ま、今日のところは認めてあげよっかな。特別だぜ。で、まあ、あの子の心をさ、ズタボロにしてやりたくなったのさ」
「ウニに手を出そうとしたんだな」
「そそ。あのいつも大事に持ってるぬいぐるみに悪いことすれば、大ダメージを与えられると、昔のキイロちゃんは考えたんですなあ」 ククっと小悪魔みたいにキイロは笑う。「なのにもう拍子抜け。なんにも変わんないんだもん。なんの抵抗もしないでウニを渡してくれてさ。だっくんもそうだったっしょ」
「まあ、そうだな。びっくりしたよ。でも、ちょっと怖かったな。何か、とんでもないことをしてしまったような気持ちになった」
「そ。それそれ。私も感じたぜ。あの子からウニを取り上げる方が危ないんじゃないかって、なんとなくね」
ダクイが垣間見たモモナとウニの関係性を、キイロも感覚的に理解したのだろう。
「ありがとうな」
「どいたま。て、何が?」 キョトンとしたキイロの顔がダクイを向く。「何かしたっけ、私」
「ウニのことだ。あのまま俺が職員室に持って行ってたら、取り戻せないところに行ってたかもしれない」
「あはは、だっくん大袈裟。取り戻せないところなんてアカデミアにはないよ。私がどうにでもするって」
「お前……、かっこいいな」
「知ってる。惚れてもいいぜ」
「それは遠慮しとく。一応確認したいんだが、お前はモモナの味方……、てことでいいんだよな?」
「味方? 何それ。敵がいるわけ?」 北校舎と南校舎を繋ぐ渡り廊下の下をくぐる。しかしキイロはそこで立ち止まった。「さっきも言ったっしょ。私はあの子の、と、も、だ、ち」
歩みを止めたキイロを振り返る形で、ダクイは彼女と向き合った。キイロはやはり片手でピースサインを作っている。
「そうか。まあ、改めて、今日はありがとう」 それだけ言って、ダクイはキイロに背中を向ける。「じゃあな」
「おうよ」 ダクイの後ろからキイロの声。「ま、今日に限らず、これからもだっくんは私に感謝することになるぜ」
「そうならないよう頑張るさ」
ダクイは上げた片手をひらひらと振ってやった。
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