08

 昼過ぎから空が曇り始め、雨は降らないまでも、どんよりとした灰色の空気が漂っている。そんな空の下の中庭は、日の当たっていた昨日とはまるで違う様相を見せていた。あるいは、ダクイの心境が勝手にそう思わせているだけかもしれない。

 中庭は中庭です、何も変わりません。

 ミナモ・スイカならそう言うかもしれない。そこまで多くの言葉を交わしたわけではないが、どことなく想像できた。

 昨日の放課後と同じように、ルドウ・モモナはベンチに座っていた。昨日と違うのは、その腕の中に犬のぬいぐるみがないこと。モモナの様子に、他の変化は感じられない。やはり、変わっているのはダクイの心持ちだけで、何も変わらないのだろうか。

 乾いた土の上を進む。その足音に気付いたのか、モモナが顔を上げてこちらを向いた。その表情に驚きは見られない。まるでダクイが来ることをわかっていて待っていたようだ。仄かに微笑むその顔は、そんな風に読み取れた。

「ダクイ先生、ウニは元気?」

「えっと……、タタラ・キイロから何も聞いてないのか」

「キイロちゃん? 今日は会ってないよ。レアキャラだもん」

「本当にそういう扱いなんだな……」 てっきりキイロの冗談だと思っていたのだが。「しかし、思ったより普通だな」

「普通? 何が?」

「お前だよ。ウニがいないと、もっと、こう——」 ダクイは胸の前に空気の球を作るように両手を動かす。「落ち込むとか、取り乱すとか——」

「駄目になる、とか?」 言いながら、モモナはベンチの中央から、端へ体を移した。

「まあ、そんな感じだ」 一人分のスペースを空けて、ダクイはモモナと同じベンチに腰を下ろす。「どうしてだ? 昨日はプールに飛び込むほど取り乱してたじゃないか」

「あれはウニが可哀想だからだよ。ダクイ先生は、ウニに可哀想なことしないもん」

「そうとも限らないだろ」

「限るよ」

「どうして?」

「うーん……、わからないや」 首を横に振ってモモナは答えた。「私、人を見る目がないの。誰でも信用しちゃうんだ。だから、ウニを通して人を見るの。相手がウニに向ける目や言葉を頼りに、私は人を判断する。ウニに酷いことする人は酷い人。大切にしてくれる人は大切な人」

「大切な人?」 その表現に引っ掛かりを感じてダクイは尋ねた。「酷いことをする人が酷い人ってのはわからなくもないが、ウニを大切にするだけで、その人を大切な人扱いするのは、ちょっと大袈裟じゃないか?」

「うん」 あっさり頷くモモナ。「でも、やっぱり私には人を見る目がないから、そういう判断しかできないんだ。スイカちゃんにキイロちゃん、それにダクイ先生、私がウニを大切に思ってることを認めてくれて、受け入れてくれて、だから信用してるの。信頼できるの」

「それはずいぶん……」 ダクイは感じたことを適切に表せる言葉を探す。「割り切ったというか、振り切ったというか——」

「危ない?」

「そう……、そうだな」 ダクイは二度頷く。「判断基準が単純すぎて、心配になる。ウニを認めるだけで、お前から信用を得られるわけだろ。それを知ってたら、誰でも簡単に、お前の心に好き勝手立ち入れるじゃないか」

「うん、そうだね。でも、大丈夫なんだ」

「どうして?」

「わかるんだもん。今朝だってダクイ先生、意地悪で私からウニを引き離したわけじゃないでしょ。わかるの」

「そんなこと——」 ないと言えるだろうか。

 モモナからウニを取り上げて、夢という名の心の支えに亀裂を入れようと試みたことは事実だ。しかしその裏に、キイロから指摘された想いがなかったとは言えない。つまり、ダクイはモモナに良い変化があるのではないかと期待していた。それは単に、自分の行為を正当化するためのこじつけだったのかもしれないが、気持ちとしては事実だ。

「今日はいろんな人に話しかけられたんだ」 足を地面から浮かせて、左右交互ゆっくりと膝を曲げ伸ばししながら、モモナは訥々と語った。「ウニはどうしたんだって、そんな話ばっかり。でもね、みんなウニのこと『ぬいぐるみ』って言うの。ウニのことをウニって言ってくれるのは、やっぱりスイカちゃんとキイロちゃん、それにダクイ先生だけ。ウニのことを『ぬいぐるみ』って言う人は、普段からそう見てるってことなの。えへへ。ほら、やっぱり私はウニを通してじゃないと人を判断できないの。ウニが私のそばにいてもいなくても」

 これが、タタラ・キイロが言うところの完結なのか。考えればわかりそうなことだった。モモナはウニを家族と言っている。本当の家族だって、常に一緒にいるわけではない。離れていても、家族は家族、その関係は変わらない。変えられない。つまるところ、ダクイがモモナからウニを取り上げたところで、何も意味はなかったということか。結局、キイロの言う通りだった。何も変わらないし、何もできない。

「ごめんな」 ダクイの口から自然に言葉が出る。「今朝の俺は、軽率だった」

「そっ、そんなことないよ」 両手を振って慌てたように否定するモモナ。「ダクイ先生は先生になるために頑張ってるもん。正しいことをしたんだよ。先生の言う通り、校則違反だもんね。やっぱり、ウニがいないと人を見れない私が悪いんだ」

「悪くない。俺が誤解してたんだ。お前はウニに依存してると思ってた。ウニを心の支えにしてると」

「うん。そうだと思うよ」

「いや、違ったんだ。俺が思ってたのは、お前は自分の不幸をウニに押し付けて、現実から逃げてるんじゃないかって、そう思ってたんだ」

「不幸? 私の?」

「そう。でも、お前は不幸でもなんでもなかった。こうして、ウニがいなくても、お前は普通にしている。それが何よりの証拠だ。確かにお前にはウニが必要なのかもしれない。それは依存していると言っていいのかもしれない。でも、それはお前が現実から目を背けるためじゃなくて、現実を見るために必要なことだったんだな」

 ぬいぐるみを家族扱いする夢見る女の子。そんなイメージだったが、モモナはウニを通して、現実を見つめていたのだ。現実の人間を。モモナにとってウニは家族。ダクイは勝手に兄弟や娘をイメージしていたが、モモナにとっては親に近い存在なのだろう。

「そう、なのかな? 私、そんなに現実を見てるつもりはないよ。でも、ダクイ先生がそう言うなら、そうなのかも。だけど、やっぱり私が見てるのは現実じゃなくて夢じゃないかな?」 困ったように首を傾げていたモモナだったが、意を決したように一人で小さく頷くと、居住まいを正してダクイに向き直った。「私の夢……、昨日は言わなかったけど、ウニと一緒に幸せに暮らせる世界に行くこと。それが私の夢なんだ」

「そうか」 反応が薄いことを自覚しながら、ダクイは短く頷いた。

「本当に笑わなかったね。そんな世界はないとか、そもそもウニと暮らすとかおかしいとか、思わない?」

「思うかもな。でも、そういう世界だったら良いなって、思えるよ」

「だよねだよね!」 一人分空いていたスペースを埋めて、モモナはダクイの真横に移動して体を寄せる。そして興奮気味にダクイを見上げた。「みんな、そういう世界になればいいなって、本当は思ってるよね!」

 みんな。

 その言葉に、どれほどの人間が含まれているのだろう。きっと、みんなはみんなだ。全員だ。

 今の彼女が夢見る世界は、ただの優しい世界だった。それをルドウ・モモナなりの言葉にすれば、ウニと一緒に幸せに暮らせる世界。ただそれだけのこと。なんてことはない、彼女が望んでいるのは、誰もが思い描く穏やかな未来だったのだ。人と人が信頼しあって、悪意などない理想郷。

 そして、そんな世界を、今のモモナはまだこの世界で探している。求めている。とても純粋で、わかりやすい夢だ。ダクイだって、自分の世界がそうなればどれほど嬉しいことか。しかし、それは簡単なことではない。不可能と言ってもいい。大人になれば自然にわかるだろう。普通なら、それを現実として受け入れる。だがモモナはそうしないのだろう。事実、いや史実、そうしなかったのだ。ウニを通してしか現実を見ることができない彼女は、いつまでもその夢を追い求め続ける。この世界を諦めて、別の世界を探し出すほどに。

 それを阻止するのがダクイの役割だ。だったら、その方法はモモナの夢を奪うことではない。奪うことは不可能だ。誰だって、もっと良い世界になることを望んでいるし、生きていれば自然に望むのだから。

 ダクイの中で結論が導かれた。

「俺がこの世界を、お前とウニが幸せに暮らせる世界にするよ」

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