05

 ウニと幸せに暮らせる世界に行くこと。

 ルドウ・モモナのその夢を情報として受け取った時は、単に別世界の存在を信じている妄想少女かと思っていた。しかし実際に事情を知ってみると、どうやら趣が異なるようだ。

 幸せに暮らせる世界。

 それがモモナにとっては重要なのだ。幸せであることが。それにしても、まさかウニが人間でなく、生き物ですらなく、ただの犬のぬいぐるみだとは思ってもみなかったが。

 夜のファミレス。注文した料理が来るのを待ちながら、ダクイは考えていた。

 ふと、何も言わず向かいの椅子に一人の男が座っていた。ダクイが気付いて止める間もないほど音の立たないスムーズな動作だった。ファミリーレストランというだけあってカウンター席はなく、最低でも二人席。平日の夜は空いているので、ダクイは贅沢に四人テーブルへ通され、二人がけの椅子の真ん中に座っていた。やって来た男も、同じように向かいの椅子の真ん中に陣取っている。つまり、真正面から向き合う格好だ。

「まずはお疲れ様と言っておこうか、ダクイ君」 黒いスーツ姿の男はダクイの戸惑いを気にもかけず喋り出した。「この時代での、そしてこの世界での初日はどうだったかね。どうやら無事、三人の因子にはコンタクトできたようだが」

 これだけで、ダクイにはこの男が自分と同じ世界の人間だ、と即座に理解できた。

「誰だ」 ダクイは問いかける。「何者だ」

「名はハチリキという。何者かと言われると、そうだな……」 黒スーツの男は腕を組んで背もたれに上半身を預けた。「君たちと同じ目的を持つ者だ」

 ダクイが知る範囲で、組織にハチリキという人間は存在しない。それでいて目的は同じとなると、反政府組織の人間である可能性が高い。ダクイは、警戒心をいっそう高める。

「これからどうするつもりかね?」 ハチリキと名乗った男が尋ねる。

「もちろん、任務を遂行する」

「どうやって?」

「それは……」 不本意ながら、言葉に詰まってしまった。モモナの事情を知る前なら、きっと即答できただろう。

「これだから政府の役人は困る」 ハチリキはダクイに聞かせるような、わざとらしい舌打ちをした。「ルドウ・モモナが我々の世界にどれだけの悪影響を及ぼしたか、思い出してみたまえ。ルドウ・モモナのせいで、どれだけの人が苦しめられたことか。ダクイ君、君だってその一人のはずだ」

「ああ、そうだよ。けどモモナは夢を叶えただけだ。最初のきっかけを作ったに過ぎない」

「どうしてルドウ・モモナを庇うような発言をする? それに、その最初のきっかけが大き過ぎたのだよ。それまで一体、この世界の誰が他の世界の存在なんて信じていた? 並行世界が実在すると思っていた? ルドウ・モモナがあの馬鹿みたいな夢を追い求めた結果、こことは別の並行世界、つまるところ我々の世界を見つけてしまった。それからどうなった?」 ダクイの返事を待たずにハチリキは続ける。「酷いことになっただろう。我々の世界はこの世界の人間の実験場、いや、そんなの高尚なものですらない、もはや遊び場だ。ルドウ・モモナの境遇に我々が同情する義理などない。それとも何か、まさか君、ルドウ・モモナを助けようとしているのかね?」

「そんなわけないだろう」 ダクイは力強く否定した。

 そう、そんなわけがないのだ。ハチリキの言う通り、ダクイにとってモモナの境遇など関係ない。ただ目的のためだけに動けばいいのだ。いいのだが。

「それを聞いて安心したよ」 ハチリキは、上半身を背もたれから離して前のめりになり、両肘をテーブルにつくと、顔の前で左右の指を絡ませた。「別に我々も無駄に事を荒立てるつもりはない。君が滞りなく政府の任務を完遂してくれればそれでいい。ただ、少しでも手間取るようなら、我々は手を出すつもりだ。政府のやり方は見ていてどうもまどろっこしい」

「手を出すって、一体何をするつもりだ」

「そう睨まないでくれ。ちょっと君に発破をかけに来ただけのことだ」 ハチリキはニヤリと口もとを歪ませる。「少しは本気になってくれたかね?」

「俺は最初から本気だ。余計なことはするな」

「余計? 何が余計なことがある?」 ハチリキは、ふんと鼻で笑った。「我々の世界とは関係のないことだろう。どうしてこの世界の秩序まで保つ必要がある? 我々の世界が乱されたのだ。この世界がどうなろうとお互い様ではないか」

 ダクイは、廃棄物に溢れてしまった、汚されてしまった自分の故郷を思い出す。子供の頃から慣れ親しんだ、自然が豊かなあの街の姿はもうない。それがどうしようもなく悔しくて、この任務に志願した。そしてこうして選ばれた。故郷を元の姿に戻すためなら何でもする。その覚悟で来たつもりだ。

「とにかく——」 中庭で見たモモナの嬉しそうな顔がダクイの脳裏に浮かぶ。「余計なことはしないでくれ。全て俺が終わらせる」

「それを聞いて安心したよ」 ハチリキの体がグネグネと揺れる。いや、揺れているのはダクイの視界の方なのか。「今のところは、だがね」

 言い終わるのと、ハチリキの姿が消えるのは、同時だった。やはり、彼は政府の人間ではない。そうでなければ、この世界に、この時代に存在しない技術は使えないよう、制限を受けているはずだからだ。

 ルドウ・モモナがダクイがいた世界を見つけることを阻止するには、彼女に夢を諦めさせなければならない。ウニと幸せに暮らせる世界なんて存在しないのだと、思い知らせなければいけない。逃げられない現実を叩きつけなければならない。そして、その糸口はすでに掴んでいる。

 私はウニのおかげで毎日幸せ、とモモナは言っていたが、その実、心の奥底ではウニと幸せに暮らせる世界に行くことを夢見ている。そしてその夢を紐解くと、彼女にとってこの世界、つまり現実は、幸せではないという意味にも受け取れる。今が本当に幸せなら、幸せに暮らせる世界に行くことを望まないはずだ。夢という言葉を使うと綺麗だが、結局のところ現実逃避に等しい。ダクイはそう分析している。夢を叶えていつか幸せな世界に行く、だから今は幸せでなくてもいい。夢を言い訳にして今をやり過ごしている。

 だとすれば、その支えになっているのは間違いなくあのぬいぐるみ、ウニだ。

 モモナの夢を正確に言うと、ウニと幸せに暮らせる世界に行くこと、だ。モモナだけでなく、ウニも一緒に行くことが条件になっている。

 そして、モモナこうも言っていた。ウニは私といて幸せなのかな、と。これも言い訳だろう。モモナ自身が幸せだとは思っていない。しかしそれを認めたくない。だが認めないことには、幸せな世界に行くという夢が成立しなくなる。心の支えになっている夢に矛盾が生じる。だから彼女は、自分は幸せなことにして、ウニに不幸を押し付けたのだ。自分は幸せだけどウニはそうじゃない。だからウニも幸せになれる世界に行くのだ、と。

 あくまでもウニのため。

 そこまで考えが及べば、過剰とも思えるモモナのウニへの思い入れにも頷ける。ウニが寒さを感じると言って譲らなかったのは、ものを感じることにしておかないと、不幸を感じていることにできないからではないか。モモナにとって、ウニは不幸な存在でなければならないはずだ。

 不幸な彼女は自分が幸せだと言い張り、にもかかわらず幸せな世界に行くことを夢見ている。その矛盾を成立させているのが、ウニというぬいぐるみの存在だ。

 だったら話は早い。その存在を取り除くだけだ。

 ダクイにとってウニはただのぬいぐるみである。ぬいぐるみに心を揺さぶられるほど、ダクイは子供ではない。だが、そうした時にモモナがどうなるか。今朝、プールに投げ込まれただけでもあの有様だったのだ。それを想像すると、心が痛んだ。

 この痛みを指して、ハチリキはまどろっこしいと表現したのかもしれない。それは確かに、ダクイ自身もまどろっこしいと思った。だからこそ、彼はわざわざダクイの前に現れて、挑発するようなことを言い残したのかもしれない。

 それにしても。

 ダクイは店内を見回す。

 客が少ないのに料理が遅い。

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