04

 教育実習生が授業を受け持つことはない。初日ということで、授業を見学しつつ、問題を解く時間になると生徒からの質問に答える程度の働きしかなかった。だからじっくりと考える時間はあった。

 ルドウ・モモナに抱いている自分の感情を、ようやく整理することができたのだ。気付いてしまえば何も難しいことはない。ダクイは自分がこれからしようとしていることを、正当化しようとしていたのだ。これはモモナのためにもなることなのだ、と。

 放課後になると、ダクイは二年四組の教室へ向かった。ご丁寧に、モモナは自己紹介の時、学年とクラスも添えてくれたからだ。いちいち全クラスの名簿から探し出したり、誰かに尋ねて回る手間が省けた。

 二年四組の教室を覗く。ちょうどそのタイミングで教室を出ようとしていた生徒に、ルドウ・モモナはいるかと尋ねると、もう出て行った、いるとすれば中庭のベンチではないか、と言われた。

 廊下の窓から中庭を見下ろしてみるが、ここは二階なので、そこまで広範囲が見渡せるわけではなく、ベンチを覗うことはできなかった。とりあえず、教室にはいないようだし、他に当てもないので、中庭へ向かうことにする。

 外履きに履き替える必要があったので、一旦下駄箱へ行かなくてはならなかった。何人かの生徒にさようならと挨拶をされるので、ダクイも返す。

「さようなら」 言葉は同じだが、他の生徒のそれよりも淡白な、感情の籠っていない、言葉だけの挨拶が耳に入る。

 声の主を見やると、ミナモ・スイカだった。

「ああ、さようなら」 他の生徒にするのと同じように、同じになるように、意識してダクイは挨拶を返す。

「ルドウさんのところへ行くんですね」 見透かしたように、それでいて何でもなさそうに、スイカは言った。

「えっと、どうして?」

「外に出ようとしていますが、カバンを持っていないので、帰宅ではありません。部活の可能性もありますが、運動するような格好でもありません。そうとなれば中庭、ルドウさんのところくらいかと」

「ああ、まあ……、その通りだ」

「そんなに驚くことではありません」 靴を履き替えながら、片手間のようにスイカは言葉を続ける。「ルドウさんが放課後は中庭にいることを知っていて、今朝の一件も知っている人なら、誰でも推測できることです」

「ああ、なるほど……。そう言われれば、そう、なのかな……」

「まあ、ダクイさんがルドウさんに興味を示しているとキイロ先輩から聞いていたので、ルドウさんが中庭にいることから逆算しただけですが」

「キイロ先輩……、タタラ・キイロか」 ダクイは踊り場での会話を思い出す。そういえば、スイカのことを可愛い後輩と言っていた。二人は仲が良いのだろうか。「先輩ってことは、あいつはここの卒業生なのか?」

「卒業生? 何を言ってるんですかダクイさん。在学生です」 靴を履き替え、上履きを下駄箱に入れ終えたスイカは、面倒臭そうに教えてくれた。「キイロ先輩は私の一つ上、中等部の三年生ですよ」

「えっ、いや、だって……」

 まずあの見た目。制服を着ていなかったし、髪は染めている。せめてフォーマルな格好なら言い訳の余地があるが、原色が眩しい黄色いパーカーに下はジーンズ。それにあの初対面とは思えない馴れ馴れしい口調と態度。加えて、あの踊り場での会話は一時間目の授業中だった。スイカみたいに保健室に来るならまだしも、ああも堂々と授業中に廊下を闊歩し、あまつさえダクイを捕まえて雑談に興じるとは。モモナのぬいぐるみが校則違反だと言っておきながら、彼女自身は校則違反の塊ではないか。初見のダクイには、そもそも彼女が生徒であることすらわからなかったほどに。

「それじゃあダクイさん、さようなら」

 驚きで言葉が出ないダクイを尻目に、スイカは頭を下げず口だけの挨拶を残して、早足に昇降口を抜けていった。

 とっくに靴を履き替えていたダクイも、追いかけるように校舎を出る。しかし向かう先は校門ではなく中庭だ。タタラ・キイロについて訪ねたいことが湧き出ていたのだが、今は我慢。スイカの背中を見送りつつ、校舎を回り込むように壁に沿って進む。今朝のプールとは逆方向だ。

 渡り廊下を横断すると、足元の舗装はなくなり、土を踏みながら木陰を進む。土の匂いを感じたが、錯覚だろう。景色と土を踏む感触から脳内で偽造された匂い。なぜなら、そんな大自然を感じられるほど大層な庭ではないからだ。二棟の校舎間の空間がもったいないので、とりあえず草木を植えてベンチを置きました、といった程度の、立派とは言い難い中庭である。それでもアカデミアの敷地内では、最も自然を感じることができる場所かもしれなかった。

 そんなどこかアンバランスな空間に、ルドウ・モモナの姿を見つける。名も知らぬ二年四組の生徒の言っていた通り、ベンチに座っていた。そのベンチはちょうど木陰の隙間になっていて、日に照らされている。校舎を見上げるように、モモナの顔は斜め上を向いていた。膝の上にはピンク色をした犬のぬいぐるみを抱いている。ぬいぐるみの頭は重力には逆らえないらしく、モモナとは逆に斜め下を向いていた。

「こんなところで何してるんだ?」 本当に何をしているのか見た目にはわからなくて、ダクイは尋ねた。

「あっ、ダクイ先生」 モモナの目の焦点がダクイへ移った。「どうしたの? こんなところで」

「いや、同じ質問をさっきお前にしたんだけどな……。座っていいか?」

「うん」 頷いて、モモナはベンチの真ん中から端へお尻を浮かせて移動した。「どうぞ」

「ありがとう」 言いながら、ダクイもベンチに腰を下ろす。そのベンチは三人がけと思われる幅だったので、間に一人分のスペースを空けた。「俺は、中庭にモモナがいるって聞いて来たんだ」

「じゃあ、私に会いに来たんだね。嬉しい」 見ると、モモナは本当に嬉しそうに微笑んでいた。「私はね……」

 続きの言葉は出て来ず、モモナはまた斜め上を向いてしまった。それから三十秒ほど、ようやくモモナの口が動いた。

「ウニのこと考えてたの」 撫でるように、モモナは右手をぬいぐるみの頭に乗せた。「ウニは私といて幸せなのかなって。毎日考えるの。私はウニのおかげで毎日幸せ。でも、ウニはどうなのかなって」

「そんなに大事にされてるなら、幸せなんじゃないのか」

「えへへ、先生は優しいね。優し過ぎるくらい……。私ね、夢があるの」 真っ直ぐに宙を見つめたままモモナは言う。「言ったらみんな笑うんだけど……」

 そうだろうな、とダクイは思う。モモナの夢を、ダクイは知っている。そして、未来でそれが叶うことも。だからダクイはここにいるのだ。ここへ来たのだ。

 それ故に 「俺は笑わない」 と断言することができた。

「本当?」 ぬいぐるみで顔の下半分を隠して、恥ずかしそうにダクイを見つめるモモナ。探るような目は、しかしすぐに逸された。「でも、やっぱり言わない」

「ウニに関する夢だろ」

「わかる?」

「そりゃあ、話の流れで想像はつく」

「そうだよね」 体を正面に向けて、モモナはぬいぐるみと同じく地面を見つめるように視線を斜め下へ。「やっぱり私、ウニにも幸せになってほしいんだ」

「そうか——」

 ダクイには、彼女の夢を応援することも否定することもできない。ここへ来た目的を思えば否定すべきなのだが、いざこうして本人を目の前にしてしまうと、それは憚られた。モモナの言った通り、自分は優し過ぎるのだろうか。ダクイはモモナに気付かれないよう、小さな溜息をつく。

「ううーん」 モモナは両腕をまっすぐ上げて伸びをする。「太陽が当たらなくなると寒いね。そろそろ帰らなきゃだよ」

 話しているうちに太陽の位置が低くなり、二人がいるベンチは日陰になっていた。

 腕を下ろしたモモナは、飛び跳ねるように勢いをつけて立ち上がり、ダクイの方へ向き直る。

「じゃあね、先生。また明日!」

「お、ああ」 つられてダクイも立ち上がる。そして片手を上げる。「さようなら」

「うん。バイバイ」 モモナも手を振り返す。それから手を下ろすと、抱いているぬいぐるみの腕を掴み、同じように左右に振らせた。「ウニもバイバイって」

「おう、さようなら」 どう反応したら良いかわからず、結局ダクイはさようならを繰り返した。

 モモナの姿が見えなくなるまで立ったまま見送ると、ダクイは再びベンチに一人腰掛けた。

 ダクイが知っているルドウ・モモナの夢。

「ウニと幸せに暮らせる世界に行くこと」

 こうして一人で声に出して呟いてみるのも恥ずかしい。

 しかしこの馬鹿みたいな夢を彼女は諦めることなく、ついにこの世界とは別の世界、並行世界を見つけてしまうのだ。それが今から十二年後のことである。

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