03
保健室を後にして、職員室へ向かう。場所は事前に頭に入れていたし、念のため保健室の先生にも聞いておいた。初日からあまりにも色々と把握しすぎていると、かえって怪しまれる恐れもあると考えてのことだ。決して自信がなかったわけではない。
それにしても、アカデミアに来て小一時間でターゲットのうち二人と接触できるとは運が良い。この調子で最後の一人、タタラ・キイロともすぐ出会えたりするかもしれない。
「やっほー、だっくん」
階段を昇ろうとすると、頭上から声。見上げると、踊り場で小柄な女性が片手を顔の横で広げていた。学校という空間に不釣り合いな黄色いパーカーに、下はジーンズ。紛れもない、今朝少しだけ口を交わした彼女だ。
「カムカム」 広げていた手で手招きする黄色パーカー女子。「だっくんとお話ししたいなー、なんて、思っちゃったりなんかして」
「だっくんて何だ?」 言いながらダクイは階段に足をかける。彼女に呼ばれたからではなく、どのみち職員室に行くためにはこの階段を昇らなければいけないからだ。
「ダクイってんでしょ。だからだっくん。センスあるーう」 自画自賛する彼女は、昇降口で話した時と同じように、手を頭の後ろで組んで気楽そうに喋っている。「ニックネーム付けるの好きなんだ、私」
なんてフランクな喋り方。ほぼ初対面だというのに。見た目からはそう思えないが、仮に彼女が年上だったとしても、敬語あるいは丁寧語で話す方が馬鹿らしいと思える。だからダクイはぶっきらぼうに応えた。
「あっそう。ダクイでもだっくんでも先生でも実習生でも、好きに呼んでくれ」
そもそもダクイというのもこの世界での名前なので、ニックネームのようなものだ。だからどう呼ばれようと特に気にならない。
「で、あの後どうなったのかなぁと思って」 踊り場まで上がってきたダクイに体を寄せると片手を口元にやり、内緒話でもするように小声で尋ねてくる。授業中なので周囲には誰もいないのだが。「セメタリーな話題に目がないんだ、私」
「セメタリー? もしかして、タイムリーの間違いか?」
「タイムリー? うーんと、うんうん、そう、そんな感じ。つまりほら、あの子を追いかけてプールに行った後」
改めて近くで見ると、茶髪の先は銀色のグラデーションになっているのがわかった。
「プールに飛び込んで、今は保健室だ」 ダクイはさっきまでいた階下に人差し指を向ける。「止められなかった」
「誰が止めても飛び込むよ、あの子は」 今までのお気楽な調子とは一点して、神妙な物言い。「ウニのためなら何でもするんだ。だからだっくんは落ち込まなくてヨシ!」
「落ち込んでるわけじゃ……。ところでモモナのこと、よく知ってるのか?」
あの子、と言ったり、ウニというあの犬のぬいぐるみの名前を知っていたり、どこか深い関係を匂わせる。
「モモナ? 初日から女子生徒をいきなり名前呼びなんて、だっくん大胆だねー。狙ってる感じ?」 一瞬見せた神妙な面持ちが嘘だったかのように顔を上げると、再び片手で口元を隠すようにして、彼女はニヤニヤと上目遣いにダクイを見上げる。「もしか、もう保健室でイイコトしてきちゃったり?」
「馬鹿言うな」 追い払うようにダクイは手の甲を向けて片手を振る。
「あっそ。ま、いいや。いきなりプールに飛び込むとこなんて見ちゃったら、気になっちゃうのもしょうがないもんね」 ダクイから体を離して、彼女は再び両手を頭の後ろに組み直す。「とりま、だっくんがあの子を名前で呼ぶことは気にしないでいてあげる。なんなら、私のこともキイロって呼んでいいからさ」
「キイロ? もしかして、タタラ・キイロ……」
「おっと、もしか私って有名人? たはー、照れるぜ」 その反応からして、どうやら彼女がタタラ・キイロで間違いなかったらしい。「いやー、光栄だよ。来たばっかの先生にもう知られてるなんて」
「まだ先生じゃなくて教育実習生だけどな」
「あはは、スイカみたい」 頭の後ろにあった手を下ろしてお腹に当てて、キイロは大げさな仕草で笑う。「ま、どっちでもいいけど。ちな、スイカってのは私の可愛い後輩ね。理屈屋さんなんだ」
実際、スイカに言われたことを気にしての発言だったが、彼女からもスイカの名前が出てくるとは。モモナのことも存在は知っている口ぶりだし、すでにターゲットの三名には多かれ少なかれ、関係性ができているということなのだろうか。しかし、本当に偶然なのか。自分でも疑いたくなるくらいトントン拍子に進んでいる。モモナ、スイカ、キイロと連続して出会えるとは。順序としては、スイカより先にキイロと話していたわけだが。
「でもま、あの子に熱くなっても損だよ」 キイロは数歩下がると、踊り場の壁に背中を付けてもたれた。腕は後頭部ではなく胸の前で組まれる。「来たばっかだし、いじめられてる生徒をほっとけない熱い気持ちはわかる。けど、あの子はほっといていいと思うな」
「いじめられてる?」
「あれ、違った? 今日もあの大事なぬいぐるみをプールドボンされたんでしょ?」
そういえば、家族と言い張るほど大切にしているあのぬいぐるみがどうしてプールに浮いていたのか、その理由は考えていなかったし、モモナ本人に尋ねることもしなかった。しかし、いじめられているというキイロの言葉から、事情はおおよそ察せられた。だがキイロの説明は止まらなかった。
「中学生にもなってぬいぐるみを肌身離さずって、ちょっと普通じゃないっしょ。しかもそれを死ぬほど大事にしてて、ああやって冷たいプールに飛び込むほどに。そんなの、遊ばれるに決まってるじゃん。みんなあの子のこと、バカだと思ってる。ぬいぐるみに心があると信じて家族だとか言ってるバカな女の子だってね」
ふと、さっきまで保健室でスイカと楽しそうに喋っていたモモナの笑顔を思い出す。なぜあんなに平気そうに笑っていられたのだろうか。事情を知ってしまうと、あの笑顔が急に辛く感じられた。
「それ、他の先生は——」
「わかってるとは思うよー」 キイロはダクイの質問に先回りして応えた。「でも、どうしようもないんだよね。イジメをしてはいけないなんて校則はないし。どこからがイジメか、何をしたらイジメかなんて明確な基準はないんだし。おっと、ちょっとスイカみたいな言い回しになっちゃったかな」
「だからって——」
「それで言ったら、校則違反してるのは、あの子の方なんだよね」
「校則違反?」
「だって、あんな大きいぬいぐるみダメっしょ。違反も違反。キーホルダーくらいならいいけどさ」 キイロは右手の親指と人差し指で十センチほどの幅を作る。彼女が言うキーホルダーはそれくらいのサイズを想定しているのだろう。ならば、モモナのぬいぐるみは悠々と規定範囲外だ。「いじめっ子にイジメは辞めなさいって言うより、あの子に、ぬいぐるみを持ってくるのは辞めなさいって言う方が、筋が通ってるし、楽なんだよね、先生側としてはきっと」
「でも、モモナは絶対に持ってくる」 家族だから。
「そ。だっくんわかってるじゃん」 人差し指を伸ばしてピストルのようにした右手を、キイロはダクイに向けた。「原因は何であれ、実害を与えられてるのはあのぬいぐるみなわけ。だからあの子はほっといていいと思うわけ。わかる?」
「ぬいぐるみが身代わりになってるのか」
「そそ。あの子にとっては大事なぬいぐるみかもしれないけど、私たちからすればただのぬいぐるみ。あの子に直接的な危害を加えられないだけマシっしょ」
「それは——」
それは、何だ。ダクイは一体何を庇おうとしているのか、自分でもわからなかった。モモナがいじめられていること、ウニがその身代わりになっていること、そんなモモナが保健室でスイカと楽しそうに喋っていたこと。どうやらモモナに肩入れしている自分がいることを自覚する。だが、その理由がはっきりしない。彼女はターゲットなのに。
「うーん、こんなお話がしたかったわけじゃないんだけどなー。でももうすぐ一時間目終わっちゃうし」 言いながら、キイロは背中を壁から離した。「ま、いっか。じゃーね、だっくん。また今度」
片手を上げてフラフラさせながら、タタラ・キイロは階段を降りていく。
そんな背中を見送りつつ、少し迷って、ダクイは職員室を目指して階段を昇ることにした。
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