02

 保健室のタオルで体を拭き、制服を着直した少女は今、ベッドの上で膝を抱えて毛布にくるまっている。毛布に隠れて見えないが、彼女の膝と胸の間にはウニと呼ばれている犬のぬいぐるみがいるはずだ。体温で少しでも早く乾かしたいのだろうか。

「新しい先生?」 まだ微かに青紫色をした唇を動かして、少女は問うた。

「今日から教育実習生として来たダクイだ」

「ダクイ? 変な名前」

「お前は、ルドウ・モモナだろ?」

「え?」 こちらを見る少女の目に不信感が宿るのを、ダクイは感じた。

「いや、下駄箱でぶつかった後、たまたまいた人に聞いたんだ」

「あっ、あのときぶつかったの、先生だったんだ。ごめんなさい」 少女はぺこんと首だけを曲げて頭を下げた。「うん。私、二年四組のルドウ・モモナ」

「それは良かった」

「えっ?」

「いや、なんでもない」

 やはり、この子がルドウ・モモナだった。ターゲットの一人。ダクイがここへ来た目的の一人。

 さて、どうしたものか、という思案は、背後からのガラガラと扉を引く音に遮られた。

 保健室の先生が戻って来たのかと思ったら、振り向いた先にいたのはモモナと同じ制服を着た女の子だった。つまり中等部の女子生徒。

「あっ、スイカちゃん。おはよう」 モモナの声が一段明るくなった。

「おはよう」 片手をスッと上げて少女は答えた。「今日も災難ね」

「ううん」 モモナは笑顔で首を横に振る。「いつものことだから。スイカちゃんは、一時間目は体育?」

「そう」 短く答えると、スイカと呼ばれているその少女は、隣の空きベッドに腰を下ろし、足元に鞄を置いく。後頭部で束ねていた髪を片手で解いて、ヘアゴムを左手首に巻く。そしてそのまますぐ仰向けになって頭を枕に乗せた。寝るのかと思いきや、右手を上げる。その手にはスマートフォンが握られていた。彼女は顔の上にその手を持っていき、左手で画面を操作し始める。

「私とスイカちゃんは保健室仲間なんだ」 モモナが説明してくれる。「私はしょっちゅうプールに飛び込んでお世話になるし、スイカちゃんは体育の授業は絶対に出ないから、ここに来るんだよ」

「ただのサボりってことか」 ダクイはスマートフォンの画面に夢中になっている様子のスイカという少女に顔を向ける。「それは良くないんじゃないか」

 教育実習生ということになっているので、一応もっともらしいことを言っておいた。ルドウ・モモナに、自分がただの教育実習生であることを印象付けておきたいという狙いもある。

「私は運動すると体調を崩す。体調を崩せば保健室に行く」 仰向けの少女は画面から目を逸らさず、淡々と口だけを動かす。「だったら運動する前から保健室に来ても同じ。手順を省いただけ」

「ふふっ」 笑い声を発したのはモモナ。「ダメだよ先生。スイカちゃんを納得させるのは難しいんだから」

 スイカ。

 そう、スイカだ。目の前のルドウ・モモナに意識を持っていかれて、すぐに気付けなかった。彼女こそ、ミナモ・スイカ、二人目のターゲットではないのか。

「先生?」 ようやく仰向けの少女は手元の画面から目を離してこちらを向いてくれた。「始めて見る顔だけど」

 どうやら、モモナがダクイのことを先生と呼んだことに引っかかったらしい。

「ああ、今日から教育実習に来たダクイだ」

「ふうん、そうですか」 またすぐ画面に視線を戻す。「実習生なら、まだ先生じゃないってことですね」

「えー、そうかなあ」 モモナは首を傾げる。「確かに今は先生じゃないかもしれないけど、将来先生になるために教育実習に来てるんだから、いつか先生になるんだもん。じゃあ今から先生って呼んでもいいと思うな。それも教育実習だよ。先生って呼ばれる練習!」

「先生になれればいいですけど」 ちらりと一瞬だけこちらに目を向けて、またすぐ画面へ。「まあ、ルドウさんのその考え方は嫌いじゃない」

「えへへ、ありがとう」 照れたように、モモナは毛布で口元を隠した。

「それで、来たばかりの教育実習生が、どうしてルドウさんと一緒に保健室に?」

「それは——」

「私がウニを助けるのを見ててくれたんだよ」 ダクイを遮って応えたのはモモナ。

「へえ。先生なら普通は止めると思いますが」

 スイカの言う通りだ。それを思えば、まだ先生じゃないと彼女に言われるのも仕方ないのかもしれない。

「そうなの!」 なぜか興奮した様子で、やや前のめりになるモモナ。「最初は止められたけど、ウニは私の家族なのって言ったら離してくれたんだ」

「ふうん」

 違和感。モモナは楽しそうに話しているが、聞くスイカはスマートフォンから目を離さないし、返事もどこか素っ気ない。二人の仲はどの程度なのか図りかねる。モモナの言葉を借りれば保健室仲間。だったらタイミングが重なればこうして保健室で会話する程度の仲なのだろうか。

「スイカちゃんも、ウニは私の家族だって言っても、変な顔しないんだよ」

「ペットを家族としている人と変わらない。ルドウさんは自分とウニの血が繋がってないことをちゃんと理解してる。ウニが生きてない物なことも理解してる。その上で家族と言ってる。だったら訂正することは何もない」

「うん。もしも私とウニの血が繋がってたら良いな、生きてて動いたりお話できたら良いなって思うけど、そうじゃないことはわかってるの」

「じゃあ、何をもってお前は、その、ぬいぐるみ——、ウニを、家族だと言い張ってるんだ?」 それはダクイの純粋な疑問。

「ずっと私と一緒にいてくれて、支えてくれるからだよ」 モモナは右手でウニの頭をそっと撫でる。「家族はずっと一緒にいてくれるでしょ? 自分のことを支えてくれる人がいたら、結婚して家族になるでしょ? それと同じ。だから家族なの」

 やや強引な気もするが、一応筋は通っている、のだろうか。モモナが中学生だということを鑑みれば、ちゃんとした考えだと思える。裏を返せば、彼女は本気であのぬいぐるみを家族だと思っているということだ。さすがにぬいぐるみに命があるとは思っていないようだが。いや、そうとも言えない。

「そういえば、プールでウニが寒さを感じてるって、言ってたよな。あれはどうなんだ? ウニが生きてないことは理解してるんだろ? だったら——」

「生きてなくても感じるの!」

「どうして」 ダクイはさらに問い詰める。

「水が凍ったり蒸発したり、鉄が伸びたり縮んだり」 口を挟んできたのはスイカ。画面を見ていても話は聞いているらしい。「ああいう温度による物体の変化は、温度を感じていると表現することもできます。だからウニが寒さを感じるという表現が間違っているとは言えませんよね」

「まあ、そう言われればそうだが……」

 何やら中学生に論破されそうになっている。どうにか有効な反論ができないものか。単純に中学生に口で負けるのは情けないし、もしもここでモモナにウニが家族でないことを認めさせれば、目的が達成できるかもしれないのだが。

 という思案は、またもや扉を開ける音に遮られる。

 現れたのは白衣を羽織った女性。一目で保健室の先生だとわかる。

「ルドウさん、ミナモさん、またあなたたちですか」 溜息混じりに言うと、白衣の女性は壁際の机にバッグを置いて椅子を引き、そこに腰掛けた。「それで、あなたは?」

「えっと」 ダクイは急いで立ち上がる。「今日から教育実習でお世話になります、ダクイです」

「ああ、教育実習生ね。はいはい、よろしく」

 この保健室の先生は、ベッドで仰向けになってスマートフォンを触っている彼女をミナモさんと呼んだ。そしてモモナは彼女をスイカちゃんと呼ぶ。

 つまり、ミナモ・スイカ。

 間違いない、この体育をサボって保健室に来ている少女こそミナモ・スイカ。ターゲットの一人だ。

 ふと視線を感じる。それは保健室の先生のものだった。いつまでいるつもりか、と目で訴えている。

「ああ、では、俺はこれで」 ダクイはさっきまで自分が座っていたパイプ椅子を畳み、それを部屋の隅の壁に立てかける。「失礼しました」

「じゃあね先生」 右手を小さく振るモモナ。「ありがとう」

「先生になれるよう頑張ってください、ダクイさん」 相変わらず手元の画面を見たまま口だけ動かすスイカ。

 どうやらスイカは頑なにダクイを先生扱いしないつもりらしい。どことなく、ミナモ・スイカの人となりが掴めた気がする。

 そして、ルドウ・モモナの夢を奪う糸口も。

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