ドリーミンファクターズ

草村 悠真

幸せに暮らせる世界に行くこと

01

 コートのポケットに突っ込んだ拳を握りしめる。足を止めて、目を閉じる。自然に溜息が出た。

 これから三人の少女から夢を奪わないといけない。

 目を開いて顔を上げる。

 校舎を前にして立つと、パノラマ状に広がるアカデミアの敷地面積に圧倒されそうになる。ここからまずはターゲットの三人を探すところから始まるのかと思うと、いきなり気が重たくなった。

 ダクイは今日、週が明けた月曜日からこのアカデミアにやって来た教育実習生、ということになっている。

 あれは誰だ、と問いたいが、ダクイがアカデミアの関係者かどうかもわからないので、話しかけていいものかわからず、とりあえずこちらを向いているだけの生徒たちの好奇心に満ちた視線を受けながら校門をくぐり、校舎に向かって歩みを進める。

 来たばかりの教育実習生が生徒を差し置いて中央を堂々と通るのは印象が悪いかな、という慎ましい考えで、昇降口の端を通り抜けようとしたのが良くなかった。

 腹部に衝撃。

 勢いよく飛び出してきた誰かと衝突したのだ。

 驚いて二歩引いてから、ぶつかった相手が女子生徒だと認識。短く切り揃えられた、耳が隠れる程度の黒髪はどこか少年的だが、シルエットに丸みがある。それに周りの生徒と同じセーラー服に身を包んでいることが、何よりもその生徒が女子であるという証明だ。ちなみにそのセーラー服は黒を基調に赤いラインが入ったもので、中等部のものだ。つまり、ぶつかった女子生徒は中学生ということ。まあ、ここは中等部の校舎なので当たり前なのだが。

「おっと、悪い」 それがアカデミアでのダクイの第一声となった。「大丈夫か?」

 しかしそれには応えず、それどころかこちらに目を向けることなく、その女子生徒はダクイにぶつかった時の勢いのまま、むしろこの数秒のタイムロスを取り戻すつもりなのか、さらに勢いを増して走り去ってしまった。忘れ物でもしたのだろうかと思ってその後ろ姿を目で追うと、彼女は校門の方へは向かわず、昇降口を出てすぐ左に折れ、誰もいない方へと走っていく。

「あーあ」 ダクイの横から女の声。「ルドウさん、またやられてるよ」

 見ると、気楽そうに両手を頭の後ろで組んでいる女の子がいた。態度や声はやや幼い印象だが、制服を着ていない。黄色いパーカーにデニムのジーンズという、えらくカジュアルな格好だ。生徒がもれなく黒髪なのに対して茶髪。およそ学校という場所に似合わない。生徒ではないだろう。ということは教師、あるいはそれに類する学校関係者、もしかしたら自分と同じ教育実習生かもしれない。それならどことなく感じる幼さにも納得がいく。服装や髪色はいずれにしても場違いだが。

 それよりも。

「ルドウ?」 ダクイが引っかかったのはその言葉、否、その名前だ。「もしかして、さっきの子、ルドウ・モモナか?」

「モモナ?」 頭の後ろで組んだ手はそのままに、黄色いパーカーの女子は目線を斜め上にして僅かに首を傾げる。「えっと、そんな名前だったかな。知らないけど。苗字はルドウだったはずだよ。改めてきかれると自信ないけどね。生徒会長くらいだよ、生徒みんなの名前把握してるの」

「どこに行ったかわかるか?」

「さあ……、どうせプールじゃないの? いつもの早朝ダイブ」

「ダイブ? まあいい、ありがとう」

「どいたま。てか、誰?」

 自己紹介を要求するお気楽な声を無視して、ダクイはルドウ・モモナと思われる女子生徒が走り去った方向へ駆け出す。こんなに早くターゲットの一人を見つけられるとは運が良い。これならこの世界での仕事をさっさと片付けられそうだ。

 しばらくアスファルトで舗装された校舎前を走ると、校舎の壁は終端、そしてフェンスで囲われたスペースが現れた。アカデミアのことを知らなくても、ここがプールであることは見ればわかる。出入り口の扉は開いていた。誰かが入ったか出ていったかして、開けっぱなしになっているのだろう。もちろん、ルドウ・モモナが入って開けっぱなしにしたとしか、ダクイは想定していない。

 扉を抜けて数段のステップを上る。コンクリート打ちっぱなしのプールサイドに、ポツンと人影。それがルドウ・モモナかどうかを判別するより先に、ダクイは絶句した。その人影は一糸纏わぬ姿だったからだ。足元に、制服が脱ぎ捨てられている。

 吐く息が白くなるほどの寒空の下、プールサイドに裸で立つ女の子。そして、プールには水が張ってある。凍ってはいないが、後のことを考えると、凍っていた方がありがたかったかもしれない。なぜなら、その裸の少女は一歩ずつプールへ歩みを進めていたからだ。

 飛び込むつもりだ、とダクイはすぐに察した。同時に体は動いていた。幸いなことに、まだ少女はこちらに気付いていないらしい。ダクイに止められるのを拒んで急いで飛び込まれると困る。ダクイはできるだけ足音を立てないように、それでいて可能な限りの速さで少女に接近。さすがに3メートルほどまで近付くと気配を感じたらしく、少女は振り向いた。そして驚きの表情。その一瞬の硬直を逃すことなく、ダクイは一気に駆け寄り、彼女の手を掴んで引き寄せ、体で受け止める。抱きつく格好になってしまったが、こうして身体を密着させている方が、彼女の身体を見ずに済む。ダクイの衣類越しでも、その少女の身体が冷えていることが感じられた。

 そうだ、コートがある。ダクイは自分が着ているコートを脱いで、彼女に羽織らせることを思いついた。それを実行しようとして、つい拘束する力が緩んでしまったらしい。その隙をつくように、少女はダクイの手を振り解こうとする。

「やめろ、凍え死ぬぞ」 ダクイは再び彼女の手を掴む力を強める。「どういうつもりだ」

「ウニが、ウニが……」 やっと聞くことができた少女の声は、今にも崩れ落ちそうな涙声だった。「助けないと」

「ウニ?」

 何のことかと思って少女が見ているプールへ視線を向けると、何かが浮いていた。ピンク色をしている。目を凝らしてみると、どうやら動物のぬいぐるみのようだ。何の動物かまでは判別できない。

「あのぬいぐるみが、ウニなのか?」

「ウニはウニだもん」

「だから、あのぬいぐるみのことだろ。あんなののために——」

「あんなのじゃない!」 開けたプールサイドに少女の叫び声が響いた。その迫力に負けて、手を放してしまう。しかし、続く言葉は一転して穏やかな口調だった。「あなたから見たらぬいぐるみかもしれない。だけど……、私にとってウニはウニなの」

 言いながら、少女は思い詰めるような足取りでプールに向かって歩いて行く。ダクイは手を伸ばすが、もう届く距離にない。なぜか足は動かせなかった。ここで彼女を止める方が間違いなのではないか、少女の声を聞いていると、そう思わされた。

 いよいよ彼女の足はプールの縁に乗った。そして首から上だけをこちらへ向ける。

「大切な家族なの」 泣き腫らした顔で彼女は笑った。

 再び正面を向くと、躊躇う様子もなく、簡単に彼女はプールに飛び込んだ。

 控えめな水飛沫が上がる。

 お世辞にも綺麗とはいえないプール。そんなことはものともしない美しいクロールで、少女はすぐにプールの真ん中までたどり着き、浮いているぬいぐるみを回収した。

 ダクイはただ見守っていた。動けなかった。

 ただのぬいぐるみとしか思えないが、彼女がそれを大切な家族と言うのなら。

 ぬいぐるみを持っているからか、戻ってくるときは平泳ぎ。少し時間がかかった。

 ダクイは手を伸ばすことができた。少女は抱えていたぬいぐるみを先にプールサイドに上げてから、ダクイの手を掴んだ。ちなみに、この距離で見てようやく、そのぬいぐるみが犬を模していることが判明した。ピンク色をした犬のぬいぐるみだ。腕を引いて少女を引き上げる。

 彼女は四つん這いで咳き込みながらも、ぬいぐるみを掴むと、すぐに立ち上がった。そしてふらつきながらも小走りでどこかへ向かう。

「待て」 コートを脱ぎながらダクイは彼女を追いかける。

 出入り口のそばにある水道だった。追いついたダクイはとりあえず後ろからコートを羽織らせる。そして少女の手元を見ると、ぬいぐるみを洗っていた。

「おい、先に自分の体を拭け。風邪引くぞ」

「いいもん」 と言う声は震えている。

「よくない」

「私よりずっと長い時間冷たい水の中にいたんだもん。ウニの方がずっと寒かったもん」

「ぬいぐるみが寒さを感じるわけないだろ」

「感じる。私は感じるの! ウニも感じるの!」

「感じない!」 自分がムキになっていると、ダクイは感じる。

「家族だもん……。ウニは……、ウニは……」

「わかった、もういい」 少女の涙声を、ダクイはこれ以上聞いていられなくなった。「気が済むまで洗ってろ。その……、ほら、家族なんだろ」

「うん」 頷く少女の声は、どこか嬉しそうだった。

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