第8話 ファースト・キス

 ――狂気。この世界に長居すると、人間は段々と自我を破壊され、発狂してしまう。ここが人間の世界を意味する「こちら側」ではなく、霊性の支配する世界、すなわち「あちら側」であるからだ。


「仕方がないね。けれどこれもボクの務めだ」


 胎動する月を背負った莫はゆっくりと是良に歩み寄った。脱走した猛獣を捕らえようとするように、何も危害は加えないと手のひらを見せるように。


「く、くるなっ!」


 狼狽る言葉と共に銃弾が放たれる。右頬を掠める。すた、すた、と、近寄る。是良の目を見る。眼鏡のレンズ越しに浮かぶ瞳。恐怖の赤い色。支配された色。


「お、お前は何なんだっ? お前も化け物の一部だろっ? うあ、ああ、ああっ」


 ――自分で自分が分からなくなっていく感覚。まるで潜水だ。息継ぎをしなければ死に到る。視界をが侵食していく。狭くなる視野の先から、黄色い眼のが向かってくる。

 喰われる。本能が告げてくる。このままでは、死ぬ。


「是良、ボクの目を見て」


 見れない。何故ならそれが狂気の根元の穴だったからだ。吸い込まれてしまう。果てしのない闇に。

 お前は何者なんだ?

 ここはどこなんだ?

 そう考える俺は、そもそも何者なんだ?

 分からない。分からない。怖い。ただ怖い。故に是良は再び引き金を引いた。


「――是良、その抵抗はボクに到達しないよ」


 ランゲラウフから撃ち出された魔弾は、しかし妖刀――オルマド・キル・マの黒い刀身によって真っ二つに斬り裂かれて今は宙に投げ捨てられている。

 その速度に是良が対応することは出来なかった。

 黒い影。それが覆い被さった時、是良の唇に柔らかな感覚が溶け出した。吐息だ。闇とはかけ離れた新鮮なイチジクのような口づけだった。

 ――ほら、これでもう、怖くない。

 重ねた柔らかな果実の向こう側。脳味噌の裏側に伝った甘い液体がやがて滴って底に透き通った湖を作った。火山は冷まされ、思考が水平を取り戻していく。湖での潜水から、


「ぷは」


 と、息を吸いこんだ。

 二人は見つめ合っていた。――を直視できる。

 莫はそっと離れてから刀を背中の鞘に納めた。真っ直ぐに心臓を貫かれた。一度死んだ。だから鼓動は止まり、俺は今、平静としている。全身から恐怖が拭い取られた。

 俺は、上遠野是良。大丈夫だ、自認できる。もう歩ける、


「ば、莫…… 今のは、」

「――質問はいらないよ。分かるでしょ?」


 そう答えた莫のなよやかな背中は、何も問題はないという無言の肯定をしていた。


「う、うん」


 それは――俺のファースト・キスだったんすよ。と、自分がそんな軽口を叩けるぐらいには正気を取り戻している事を認知し、是良は先行する莫の残り香を辿るように走り出した。

 

 ◇


 ――……ここは、どこ?

 廊下……?

 

 真丸ケイは見覚えのない廊下で目を覚ました。

 木製のイスに座らせられている。微睡む視界をゆっくりと持ち上げると、そこに見えた世界は幻想的な光景だった。

 照明のない薄闇の廊下に、左右の障子から黄昏時に似た淡い桜色の灯りが射し込み、記憶にない甘い香りがする。そんな廊下が遥か遠くの消滅点に向かって伸びる一点透視があった。


 ――でも、不思議と、心地が良い。


「――おや、お目覚めかね少女よ。どうぞ心置きなく寛ぐといい。ここは僕のお気に入りの場所だ」

 

 水色のビー玉のように透き通る声だった。けれど表面には反射で見え隠れする傷のような、妙な違和感がある。まるで男装の麗人が真似た声帯のように。

 ケイは声の方に視線を向けた。

 背後だ。そう思った時、イスがくるりと一八◯度回転した。そこには、依然一点透視が広がる、ものの、違う点が、つまり声の主がいた。


「失礼。君には恨みも妬みもない。にも関わらず不自由な思いを強要してしまっている事をお詫びするよ」


 学生服に身を窶した白塗りの美少年。こちらに横顔を見せたまま本を読んでいる。分厚い上製本の古書らしかった。

 ぱらり。と捲り、ふむふむと咀嚼するように嗜む。


「……あ、あんた、だれ?」


 ケイは呂律の回らない舌で尋ねた。少年は、ぱらり。とまた一枚めくり、


「少女。にようこそ。ここが僕の住処なものでね」

「……夢の、世界?」

「そうとも。君たちが眠りにつくと立ち上がるさ。僕らは夢を食べて生きている。君ら人間の夢は質が良く、その中でもの物は格別だ」

「トンカジョン……?」

「少女の兄妹の事さ」


 ぱたん、と本を閉じた。上製本の分厚い背に立てた人差し指を添えて、ほい、と後ろの存在しない誰かにパスする。すると少年の背後にある障子が滑るように開き、そこから細長い腕が伸びて本を受け取った。

 それは異様な腕だった。スペースステーションで工作をするロボットアームのようだった。妙に細長く、死人のように白い肌だった。そして本来ならある筈の腕の関節がない。いや、見えた腕は二の腕だけだったのだ。受け取ると速やかに障子の向こう側に消え、逆再生するかのように、ぴしゃり、と閉じた。

 少年はまだこちらに横顔しか向けていなかった。承知しているよ、とそれからケイの正面に向き直った。

 ムラなく真っ白に塗り上げられた美しい顔。その切れ長の目が妖艶な雰囲気を投げかけていた。


「我ら眷属の新たな拠所。どうも、加拉太ガラチアを統べる枕童子です」

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