第3話 ぼえぼえぼえ
俺は夢を見ている。
これは明晰夢の、それもとびきりの悪夢だ。
―—俺は夢の中で、殺される。
この、俺の性癖という鋳型で見事に鋳造された少女と、ついでの刀で―—
「勘違いしないで。ボクは君を助けに来たんだよ」
ケラケラと笑うように言った。
「それから、ただの明晰夢だと思って舐めてたら、マジで死ぬよ? テレビのニュースは見てるでしょ?」
「テレビのニュース?」
そう。と答えて、抜刀したまま是良の元へ近づいていく。ごくりと生唾を飲み込む。
―—俺を殺す気はない。
いやいや、論理的に考えろ。これが夢なら、そもそも人殺しなんて出来やしない。
じゃあ、この恐怖はなんだ?
本能的にヤバさを感じ取っているじゃないか。
いいや、それ以前に。
お前は、誰なんだ?
「ばあ」
いないいない、ばあ。
「うおぁああッ―—や、やめろよぉ!」
考え込んでいた隙を突かれ、まんまと尻餅をつく。
「にひひひ。キミの夢、とっても質がいいねぇ。もしもボクがアイツらと同じ―—
「た、食べるってどうやって?」
「こうやって」
一瞬だった。
黒いジップ止めのジャージをぐいと下までおろす。是良は反射的に目を背けたが、青少年の健全な助平心は戸惑いではなく照れに根差している。
「え……?」
けれど。
そこにあったものは、およそ是良の想像とはかけ離れていた。
闇と、眼だ。それも一つだけではない。真っ暗闇に浮かび上がる、眼。眼。眼。
胸の辺りに、赤い巨大な一つ眼があり、その周りには大小様々な眼が犇きあっている。
―—あぶくだ。
まるであぶくだ。
屯する、大きなあぶくと、小さなあぶく。
そして、口がある。
巨大な穴のような口だ。
吸い込まれそうになる、穴。
「あ、やっぱり見たんだ。なら。ほら。よく見てよ。これがキミの夢を、キミごと屠ろうとする者たちの正体だ」
じりじり。少女は妖艶な雰囲気さえ纏いながら、是良に詰め寄っていく。
「ひ、ひい」
月明かりだけが世界を灯す、県立箱根板橋高校の正門前で。
―—これは現実か? 夢か?
何れにしても、本能が「逃げろ」と是良に訴えかける。
「た、助けて!」
口が是良の上半身を覆い尽くそうとした時、尻餅のままずりずりと後退り、立ち上がり、背後へと逃走を開始した。
逃亡先には、学校のグラウンドがある。
「―—ちょっと
少女はそっと刀を背中の鞘に納め、ゆっくりと後を追う。
月明かりは、少女の踏む足音に合わせて、まるで心臓のようにどくどくと点滅していた。
◇
グラウンド。こじんまりとした北門。
都合よく開いており、是良は構わず通り抜けた。
―—真夜中の学校に入るのは初めてだ。
いや、少し訂正。俺がまだ小学生だった頃、ケイと一緒に空手を習っていた。
当時は道場が無かったから、体育館を借りてたんだ。
夜八時には終わる。そして帰る時、昼とはがらりと表情を変える校舎に、俺たちは正体不明の恐怖を覚えていた。
恐怖。
俺は今、何から逃げているんだ?
これが夢なら、ゴールなんかない。出口不明。出所不明。
意味不明。
けれど、そう思って無抵抗でいれば、俺は確実に死ぬ。そんな本能的な直感だけがある。
逃げろ、逃げろ。
逃げろ。
誰もいないグラウンドを真っ直ぐに突っ切ると、やがて校舎が見えてくる。本館と呼ばれる第一校舎棟だ。ここには二、三年生の教室があり、一年生は西にある別館・第二校舎棟に通う事になっていた。
二年前が懐かしいな。通り過ぎ、本館の昇降口でそう思う。
―—靴は履き替えるか? いや、ここは夢の中だ。気にしてる場合じゃない。
階段を上がり、自分の教室を目指す。四階、三年二組。そうだ、掃除用具入れに隠れよう。そこで、この悪夢が終わるまでやり過ごすんだ。
ぱたん。と扉が閉まった。いやいや、久しぶりに入ると自分の成長感じるな。よくキレたケイに押し込まれてた。イジリを深追いし過ぎた時だ。あれは小学校の頃の話しだけど。つまり、
狭いぜ。
その時だった。暗い木製の箱。いや、棺桶のなかに不気味な振動が走る。
何だ?
扉や清掃用具がぶるぶると揺れる。地震? いや、これはそう言う類いの揺れじゃない。
なんだ?
……ぼえぼえぼえ。ぼえぼえぼえ。
これは。
これは? これは? これは?
ぼえぼえぼえ。ぼえぼえぼえ。ぼえぼえぼえぼえぼえぼえ。
ぼえぼえぼえぼえぼえぼえぼえぼえぼえ。
―—……っ!
声と揺れが段々大きくなっていく。
ずるずる、ぺたん。ずずずずず。
気味の悪い音が続き、やがて止まる。
何かが、いる。扉を挟んだ俺の前にいる。
確かめたい。猛烈に確かめたい。けれどポケットにスマホがない。照らせる物すらない。
どうする?
何だ、この緊迫感は。怖い。
けれど何だか、
笑ってしまう……っ。
「ぼ、ぼえぼえぼえって……」
その時だった。
夜目が効きはじめた視界にぼんやりと見える扉。そこに薄らと模様が浮かび上がってきた。
―—何だこの模様は? こんなのあったっけ?
「あ」
いま、ようやく気づいた。
これは、模様じゃない。
眼だ。
―—こいつ、壁をすり抜けんのかよ……?!
ぼえぼえぼえ。ぼえぼえぼえ。
―—……っ! やべぇっ。
大きな眼と口。
無数の眼の焦点が一斉に俺に合う。瞳孔がきゅっと絞まるのが分かる。大きな口が不気味にも「にや」と笑う。
俺を、食おうとしている。
「ああ、わ、わ、わ」
金縛りみたいに体が動かない。
ぼえぼえぼえ。
ぼえぼえぼえ。
ぼえぼえぼえぼえぼえぼえぼえぼえぼえ。
生暖かい、湯気立つ息が、自ら退路を絶った俺に、嘲笑うように。
「た、たすけて…… ごめん、俺が悪かった、ケイ……っ!」
ずぶり。ぷしゅ。どろり。
「……え?」
一際大きな目玉。
その眼球を貫くように、黒い突起物が突き出している。次に刃先がくいくいと小刻みに動き、
しゅ。
と、眼の内側に潜っていく。
「……ええ?」
是良は困惑気味に言葉を漏らした。次の瞬間、
ざく、ざく、ざく、ざく。
と、連続して、残る四つの眼玉がくり抜かれる。是良は寸止めの滅多刺しをされた気になり、思わず悲鳴を上げた。
「うるさいな。もう、大丈夫だよ」
少女の声。重なるように、眼と口は扉の向こう側へと引き摺り出されて行った。
ぐぱ。びゅち。じゅるり。じゅるり。
立て続けに鳴った音は、まるで巨大な赤子の指しゃぶりのようだった。
何が起きているのか。是良は恐る恐る、清楚用具入れの扉を開いた。
「うわぁ……」
化け物が、食われていた。
大きな眼と口を持ったスライムの化け物が、より大きな口に丸呑みされている。
少女。黒い刀を持った、少女。
はだけたジャージの内側から、本来であれば上半身のあるべきその場所に、狼のような大喰らいが宿り、けれど歯の無い口で搾り取っている。
いいや、寧ろその様は、口を突き出した蛸のようだ。
是良は、教室に差し込む月明かりに照らし出されたその怪異を見てそう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます