春の彼岸のできごと:温泉を巡る物語

蓮見庸

春の彼岸のできごと

「そんなら、裏山のお薬師さんにお参りなすったらえぇ」


 原因不明の体調不良を長く患っていた私は、医者のすすめで、とある山奥の温泉へとやってきた。ここで温泉に浸かりながら体の不調を緩和しようという、いわゆる湯治とうじをすることにしたのだ。

 湯治などというと、今どきそんなことをする人がいるのですかと驚かれることがよくあり、そもそも湯治という言葉を聞いてキョトンとした顔をされることすらある。そんなとき私は、湯治宿に二日でも、三日でも泊まってみることを勧めている。かくいう私も数日滞在するだけというケースが多い。それでも多少の体の不調のある人なら、症状が緩和されるのを実感できるはずだし、健康な人であればなおさら気力体力が充実することだろう。まあ、世の中には酒がすべてだという人もあることだし、私の個人的な感想だと言われればそれまでではあるのだが。


 私は今回も三日分ほどの荷物を旅行バッグに詰め込んで家を出た。暦の上ではもう春はとっくに過ぎてはいるが、まだまだ冬のコートが手放させない。ましてやこれから行こうとする温泉街は数日前にも雪が降り、梅のつぼみさえまだ固いという。

 埃にまみれた乗り換えのターミナル駅では、スマートフォンを見ながら向かってくるスーツ姿の女や男たちが不意に顔を上げ、私の旅行バッグを確認するかのようにちらりと横目で見ては足早に通り過ぎていく。その一様に表情のない顔から逃げるように、私は乗るべき電車へと急いだ。

 電車を乗り継ぎ最寄りの駅からタクシーで一時間ほど。木々に覆われた細い山道を揺られていると、ガラス窓は細かい雨粒で覆われるようになり、外は霧雨が降っているようだった。やがて足元が冷えてきたように感じられたころ、ようやく山あいの小さな集落に辿り着いた。

 流行りの雑誌で紹介されることもなく、今では知る人も少ない温泉街だが、かつては宿場町としてもずいぶんと賑わったそうだ。電気と電話は来ているが、携帯の電波はほとんど入らないとのことで、早々にスマートフォンの電源を切った。妻には宿の連絡先を知らせてあるので、何かあればそちらにかけてくるだろう。

 私は運賃を支払い旅行バッグを抱えるようにしてタクシーを降りた。靴底が冷たく感じられた。

 雨が降っていないことにほっとすると同時に、硫黄のにおいが鼻腔に漂ってきた。

「お客さんの宿はそこね」

 タクシーの運転手はそっけなくそう言い残すと、扉を閉めすぐに走り去ってしまった。


 真正面の建物には『公衆浴場』の看板が立て掛けてあり、入口の脇には猫が数匹丸まっていた。この公衆浴場を挟んで建物が二軒、あとはぽつりぽつりと家が建つばかりだった。私はポケットから取り出したコンパクトカメラのシャッターを切った。焦点距離28mm、F値は2.4。温泉街というより隠れ里と呼ぶべきかもしれないが、あたりは色をなくしほとんどモノクロの景色だった。

 コンクリートづくりの背の低い建物は、くすんだ色の壁にいくつかヒビが入っているのが見える。裾の方からちょこんと突き出したパイプからお湯が流れ落ち、側溝を流れる間に湯けむりとなって空へ消えていく。

 ときおり扉を開けて出てくる人の姿があったが、こちらを気に留める様子もなく立ち去っていく。農作業のような格好からしておそらく近所の人だろう。観光客もさして珍しいものでもないようだ。

 さっそくお湯に浸かってみたい気になったが、

「その前に宿だ」

 私は思い出したように小さく口にすると、公衆浴場の左側にある建物へと向かった。

 今思えば、この時から何かが少しズレていたのだと思う。


 玄関のすりガラスの向こうを何かが横切った気がした。

 すこし立て付けの悪い引き戸をガラガラと横へやると、ひんやりとした玄関には大人用のスリッパがいくつかていねいに並べられていた。それは宿の主人の性格を表しているようだった。

 受付の横には大きく引き伸ばされたモノクロ写真が飾られ、枠外に『昭和初期の温泉街の様子』と書いてある。ここに写った公衆浴場と道の様子は確かに先ほど見た光景と似通ってはいるが、けれどこの建物の多さといったら、まったく想像の埒外にある。当事はさぞかし賑わったことだろう。

「にゃー」

 旅行バッグを抱えたまま写真に見入っていると、その鳴き声に驚かされた。足元を見ると薄茶色の猫が足に絡みつきこちらを見上げていた。

「さっきの影はきみか? ご主人さまはいないのかい?」

 猫はまたひとつ鳴くと、音も立てず廊下の奥へと歩いていった。

「ごめんください」

 大きめに発した私の声は、猫の後を追うように薄暗い廊下に吸い込まれていった。

 静寂の中、時計の歯車の音が大きくなる。

「おじゃまします。誰かいますか?」

 もう一度声をかけると、すーっとふすまの開く音が聞こえ、腰の曲がった七十がらみの小柄な女性が姿を現した。

「こんにちは。先日電話をした榎本です」

 女性は見上げるように私の顔を見ると、不思議なイントネーションで、

「はぃはぃ、ゑのもどさんですね。ようこそ、いらっしぇえました」

 と言った。


 鍵を渡され簡単な宿の説明を受けた私は、二階にあてがわれた部屋に荷物を置き、意味もなく座椅子に座ってみたりなどしてみたが、すぐに手持ちカバンと着替えとタオルなどを手に立ち上がった。湯治ではあるが温泉は今は公衆浴場にしかない。

 みしりと鳴る床をそろそろと歩き、さっそく公衆浴場へ向かうべく玄関を出ようとしたところを後ろから呼び止められた。

「あんたさんさぁ、ひょっどしで左の肩がしびぃれだりしねぇが?」

「左の肩? ええ、よくわかりましたね」

「後ろ姿見でるど、すぐにわがる。顔にもでどぉるしのぉ」

 それから驚いたことに、その女主人は私の体調不良の箇所と症状を当ててみせたのであった。

 宿の裏にある薬師堂を教えてもらったのはこの時だった。

 女主人によると、ここの薬師如来は体内の不調に特に霊験あらたかだそうで、ここで毎日お参りをし、湯治を続けて、快癒した人たちをたくさん見てきたという。体内の不調は体のあちこちにとして現れ、顔にも出るのだそうで、私の歩き方と顔を見たときにすぐにその典型的なパターンだと思ったというのだ。

『だからよくなるから心配しなくていい』

 彼女はそのような言葉をかけてくれた。

 にわかには信じられない話だが、それで私は主治医からここの温泉を勧められたのかと、妙に合点がいった。

 しかし温泉に入るだけではだめで、必ず薬師堂へのお参りがセットでないと効果はないという。

「あんださんも一度騙だまされたと思ってぇ、お参りするとえぇ」

「有難うございます。行ってみます」

「階段に気ぃづげでな」

「はい」

 玄関の戸をガラガラと開けると、猫が足をすり抜けて出ていった。


 外は薄日が射していた。

 薬師堂はすぐにわかった。宿の裏から奥行きの狭い石段を五十段ばかり上がると、小さなお堂の目の前に出た。建物はおそらく四畳半ほどの広さだろう。木造の壁はところどころ破れて中が透けるように見え、それなりに風雪に耐えてきたものだと思われた。しかしさびれたという感じではなく、ていねいに掃除が行き届き、ガラスコップに挿してある二輪の花を見ると清々しい気持ちになった。柱に下げられた木札に墨で何か書かれていたが、これはかすれて読めなかった。

 コートの右ポケットに手を入れると指先に触れるものがあった。私はそれをつかむと、できるだけ音を立てないように賽銭箱の中へ入れた。

 お参りはこれでいいだろうと振り返ると、この場所は思ったより高台にあり、景色がとてもよかった。

 集落は三方を山に囲まれた土地にあった。どういう位置関係になっているのかは判然としないが、タクシーで通ってきたと思われるトゲトゲとした森の向こうには山並みが続き、白く薄化粧をした峰々が霞んで見えた。カメラを持ってくればよかったと少し後悔したが、明日また来ることになるからその時でいいだろうと、自分の目でこの景色を堪能しようと思った。

 ふいに心落ち着くような甘い香りが漂ってきた。それはロウバイの飴細工のような黄色い花のにおいだった。

 やはりこのあたりはまだ気温が低いのだろうかと考えながら周りをよく見ると、梅の古木が枝を伸ばしていた。そして天に向かう新しい枝には、たくさんの紅いふくらみがあった。もう少し暖かくなれば満開の花見が楽しめることだろう。


 私は薬師堂をあとにして公衆浴場へと向かった。

 この温泉は宿の宿泊客なら好きなときに何回でも入れることになっている。それをいいことに、私は少なくとも毎日三回、いや五、六回は入ろうと決めていたのだった。

 タイル張りの浴室内は、ほのかな硫黄の香りと湯気で満たされていた。外から取り込んだ光の他には、オレンジ色の小さな明かりがひとつ灯っているだけで仄暗ほのぐらかった。湯船は五、六人入れば身動きが取れなくなるといったところだろうか。しかし先客は誰もいなかった。

 体を洗い、湯船の縁へ向かう。底のタイルのマス目がゆらりゆらりと揺れ、お湯は無色透明のように見えるがその中を白い粉のようなもの、いわゆる湯の花が舞っている。手桶にお湯を少しみ足にかけた。温度は低めながら、皮膚にまとわりつくようなお湯だった。今度は肩から全身にかけた。体全体が薄いベールで覆われたようなそんな気がした。

 湯船の水面は穏やかに波打ち、その静寂を破るのがなぜかためらわれ、波を立てないように静かに入り、そしてそのまま首までかった。湯船は意外と深かった。

 お湯の温度が低いため最初は体を動かすとひんやりと感じた。しかし時間が経つにつれ、額から汗がしたたり落ち、じんわりと体の中から温まってくるのを感じた。

 いきなり温泉に入りすぎるのもよくないだろうと、このあたりで出ることにした。

 脱衣所で体のほてりを静めていると、お年寄りがひとり入ってきて挨拶を交わした。地元の常連が他にも何人かいると、そんなことを教えてもらった。


 夕飯は女主人の手作り料理だった。田舎だからこんなものしかないと言いながらわざわざ部屋まで運んでもらったが、木の芽、山菜、たけのこなど山の幸が豊富で、また根菜などの野菜を中心とした料理は身体にやさしく、私にとってはとても贅沢なものだった。

 夜になるとさすがに冷えてきた。寝るときに使うようにと豆炭のカイロを渡された。言葉で聞いたことはあったが見たのは初めてだった。これだけあれば一晩はじゅうぶん持つという。

 時計はまだ九時半を指していたが、試しに布団の中へカイロを入れてみるととても暖かかった。移動の疲れもあったのか、私はウトウトする間もなく眠りについていた。


 *


 こつんこつんという音で目が覚めた。

 時計はまだ六時を少し回ったところだった。

 窓を開けると冷気が入り込み、私は思わず首を縮め「寒いっ」と口に出した。

 雨樋あまどいに集まったしずくが等間隔にスレートの屋根を叩く、その響きが音の正体だった。時計の秒針の音の先を行ったり後になったり、たまにそれらは重なり合った。

 顔を洗おうと廊下へ出た。まだ薄暗く人の気配もまったくなかった。床は相変わらず歩くたびにみしみしと鳴ったが、それ以外に音はなく建物全体が静まり返っていた。私の他に客がいるのかどうか不思議なことに気にも留めていなかったが、もしいたら起こしてしまっては悪いと、トイレだけ済ませそろりそろりと部屋へ引き返した。


 朝も昨晩と同じく女主人の手作り料理で、軽くお腹を満たすと、それから一日、私は文字通り温泉に入り浸った。

 もちろん薬師堂へもお参りはしたが、昨日の穏やかな様子とは打って変わって、ところどころ暗い灰色に覆われた空はどこか気持ちを沈ませがちで、しんとした静寂に支配されたあたり一面は、時間すら止まっているようだった。

 私は夕方までに数えると五回温泉に入っていた。ひとりだったり先客があったり、朝、昼、そして夕方で浴室の雰囲気、お湯の温度や泉質というのだろうか、そんなものもがらりと変わった。ずっと晴れることのなかった重苦しい天気とは裏腹に、こんなにのんびりとできたことはこれまで一度もなかった。

 夕食を終えると、私は心底充実した気持ちで、布団の中に入れたカイロの暖に当たった。


 *


 そして明くる日の朝食時。私はもうここの温泉を十分堪能した気がして、それに体の調子もよくなったので、予定を早めて帰ろうと思う旨を女主人に話した。すると、ひどく驚いた顔をされた。

「今日帰るのけ? 明日じゃだめなのけ?」

「午後には帰ろうかと思っていたのですが、明日なにかあるんですか?」

「ほれぇ、あんたぁ。お彼岸の中日でねぇかぇ。お薬師さんにぃいっしょにお参りぃしでやっがらぁ、あと一晩とまってきなぇ」

 私は最初はそうするつもりでいたのであと一日泊まっていくのは問題ないのだが、こんな一旅人にそこまで考えてくれていたのかと思うと心の中にある小さなわだかまりがほぐれていくのを感じ、自分の気まぐれが恥ずかしくなった。

「それでは予定通り明日帰ります」

「それがええ」

 女主人は心からほっとしたような、とても嬉しそうな表情をした。


 朝食を食べ終わると、いつもと同じように温泉の準備をして薬師堂へと向かった。

 キリリとした空気の青空が広がり、草に付いた霜は日を浴びて露になっていた。

 私は梅の木の根元に咲く福寿草に気がついた。水仙のつぼみもふくらんでいた。

 来るたびに花の種類が増えていくようで、なんだか嬉しくなった。


 もう見慣れた何度目かの公衆浴場。午後の浴室内には誰もいなかった。

 湯船に浸かると、私は何も考えず、いや何も考える気など起きず、ただひとつ「ふぅ」と大きく息を吐いた。

 そのまましばらく目をつぶり、ぼんやりとした夢うつつの時間を過ごしていた。

 やがて、人の気配を感じて目が覚めた。

 見ると一人の老人が背中を流し終え、湯船の方へ向かってくるところだった。私は湯船を独占していたことを少し申し訳なく思い、湯船から上がろうとした。

「いえいえ、ご遠慮なさらず。どうぞごゆっくり。ちょうど話し相手が欲しかったところで」

 いつもの私なら何か理由をつけて湯船から出るところだが、穏やかな口調で話す老人の誘いを無下に断るのも失礼な気がして、少しだけ話をしてみようという気になったのだった。それに、私もまだお湯に入っていたい気分だった。

 初めて見る顔だった。老人は自分から話を始めた。この温泉が好きでよく来るそうだった。

 話をしながら何となくお互いの顔が合うと、その老人は私の顔を見て、宿の女主人と同じことを言った。つまり私の病気を言い当てたのである。

 老人は「失礼ですが」と前置きしながら、自分は昔医者をやっていたので、よかったら症状を教えてくれないかという。ひょっとしたら何か役に立てるかもしれないと。

 私は楽しみで来ている人に仕事をしてもらっては申し訳ないと一度は断ったが、老いぼれ医者のなぐさみとして聞かせてもらえないかと言われ、特段断る理由もなかったので、自分の症状を話し始めた。

 老人は頷きながら私の話を聞いていたが、やがて「でしたら、今のあなたの治療法はこういうものではないですか?」と確かに私が受けている治療法を口にした。

「やっぱりそうでしょう。確かにその方法はとてもいいものです。けれど、今度病院に行ったら次の方法を検討してみてもらえないかと主治医の先生に伝えてくれませんか。なに、簡単なものなのですぐに覚えられます。部屋に帰ってメモ書きにだけしてもらえたらいいですから」

 そのあとどうやって温泉から上がったのかすらよく思い出せないが、とにかく私は部屋に帰るとさっそく言われた通りのメモを書いた。初めて聞くような言葉がスラスラと頭から流れ出てきて紙の上に並べられていく。そこには私の見慣れない英数字ばかりが並んでいた。満足した私は急にどっと疲れが襲ってきたように感じ、そのままメモをカバンへしまい、布団に横になったのだった。

 女主人に食事に起こされた時には、とっぷりと日が暮れていた。


 *


 翌日もよく晴れた暖かな朝だった。

 朝食後、荷物を玄関に置いて、宿の女主人と薬師堂へと向かった。彼女の手にはたくさんの花があった。街の花屋で見かけるような華やかなものではないが、小さくてもひとつひとつが芯の通った丈夫そうな花の束だった。

「今日は、お山さよぐ見えるのぉ」

 階段を登りきり振り返ると、遠くの白い峰々がくっきりと見えた。

 今朝はお堂の扉が開けてあった。ホコリをかぶったような千羽鶴がいくつか吊り下げられ、真ん中に置かれた小さな厨子ずしには、くすんだ金色を背にした像が安置されていた。お堂の中は薄暗いうえに、またこの像はかなり古いものだと見えて姿かたちは曖昧で、表情などはほとんど分からなかった。

「お薬師さん、どうかこの人のびょうぎ、よぐしてやっでくれなし」

 彼女はそう言いながら無造作に花をガラスコップに生けた。

 私は特になにかを期待していたわけではなかった。けれど、心のどこかではやはり仏像が光ったり劇的に体調が良くなるなどという、そんな奇跡のような展開を期待していた。しかしながら当然そのようなものは起こりはしなかった。

 なにか特別なことがあったかといえば、梅の花が一輪咲いていたことくらいだった。紅い花びらがとても控えめに開き、女主人はそれを見て今年もようやく春が来たとたいそう喜んだ。

 そして私たちはお堂の階段に腰掛け、そのまま話をするでもなくしばらく朝日を浴びていたのだった。

「さて」と女主人は言い、重い腰を上げると、私もつられて立ち上がった。


 女主人はすでにタクシーを呼んでくれていた。

 玄関で待つ間、最初の日に見た薄茶色の猫がどこからともなく現れ、ずっと足元にまとわりついていた。

 時計がごーんと時を刻み、遠くから車の音が聞こえてきた。

 別れ際に女主人は、

「また来なせぇ」

 そうひとこと言って、どこか寂しそうな目をした。


 私は初めのうちこそ感傷に浸りがちであったが、タクシーに乗るとすぐにそんなことも忘れ、運転手に向かって恥ずかしげもなく温泉のよさを語ったのだった。彼も最初のうちは興味深く聞いてくれたものの、そのうち相づちだけを返すようになり、私も話すのをやめてカバンの中のスマートフォンを取り出した。

 電源を入れると、すぐに通知が3件ほど入った。すべて妻からのものだった。

『もう着いた?』

『そっちはどう?』

『電波が届かないかもしれないって言ってたわね。帰る時連絡ちょうだい』

 私は今から帰るところだということ、そしてここであったことを簡単に書いて送信した。


 そうして電車を乗り継ぎ自宅へと戻ってきた。

 部屋で荷物を片付けると、いつもの病院へ予約を入れた。体の調子はいいからまだ先でもよかったのかもしれなかったが、定期的にみてもらうのが大事なのではないだろうかと思ってのことだった。

 予約はすぐに入った。今から老人に教えてもらった話をするのが楽しみになった。


 *


 医者は会うなり顔を緩めた。

「今日は顔色もよさそうですね。具合はいかがですか?」

「ええ、とても調子がいいです。先生は私にぴったりの場所を教えてくださったんですね」

「ぴったりの場所といいますと?」

 医者はにこやかに笑いながらそう聞いた。

「あの温泉はちょうど私みたいな病気を抱えた人が多く湯治に来るそうだとか。宿の女主人がいろいろと教えてくれました」

「あ、前にお話した温泉のことですね。そうだったんですね。昔は湯治場として有名だったらしいけど、そんな話あったかなぁ…あ、いやいや、体に合うのが何よりです。それにしても宿の主人は女性に代わったんですね」

「男性だったのですか?」

「確か先代の息子夫婦が後を継いでいるはずですが…」

「七十くらいの方だったのですが、では先代の奥さんというところでしょうか?」

「何か事情でもあるのかもしれませんね…」

 医者はなにか腑に落ちない顔をしていた。

「そうそう…」

 そう言って私はカバンからメモを取り出した。

「温泉で一緒になったお年寄りから聞いた話なんですが、なんでも昔医者をやっていたそうで、この治療方法を伝えてみてくれとのことでした」

 医者はメモを見るなり、ん? ああそうか、いやまてよ、うーんなどと呟きながら考え込みはじめた。

 私は自分でこのメモを書いたが、何を書いたかよく覚えていないし、内容もさっぱり理解できてはいなかった。

 しばらくした頃、私は声をかけた。

「変なことでも書いてありましたか?」

「いえいえ、そうではないんです。ちょっとね、これまでと少し違った治療方法を試してみてもいいかと思いまして、それで考えていたんです」

「違う方法を?」

「ええ、このメモを見ていて気づきました。これを書かれた方はさぞ高名な方だと思われますが、どんな方でしたか?」

 私は顔を思い出そうとしたが、どうしても曖昧な姿しか思い出せなかった。男湯だから男であるのは間違いないが、顔はどんな輪郭だったのか、目鼻立ちは、髪はどうだっただろうか…、湯けむりで顔が見えなかった? いやそんなはずはない。そんなに湯気が立ち込める湯船ではなかったはずだ。高い声だったか、低い声だったか…。そしてなぜかロウバイの甘い香りだけが思い出された。

「昔医者をやっていたというだけで、あとは何も…」

「そうですか。それでは今日はいつものお薬をお出ししますが、近いうちに新しい治療法についてご相談したいと思います。来週はいかがですか」


 私は駅前の商店街を抜けひとり歩いていた。カバンの中にはちゃんと今回の分の薬も入っている。

 しかし、考え事で頭がいっぱいでぼーっとしながら歩いていた。

 新しい治療法というものが気になるわけではない。そうではなく、さっきの医者とのやり取りがちぐはぐすぎたからだ。そして温泉で一緒になった老人のことが思い出せないという自分の記憶の曖昧さ。

 家に帰り机の上にカバンを置くと、中からカメラが滑り落ちてきた。まだ入れっぱなしになっていたんだと、何気なく再生ボタンを押した。

 そして何枚かめくるうちに私は違和感をおぼえ、その正体が分かったときそのまま固まってしまった。

 写真の中にはそこにあるべき、私の泊まった宿がなかったのである。

 いや、建物はあるにはあるのだが、どうみても私が泊まった宿なんかではない。有り体に言ってしまうと、それは廃屋だった。住む人がいなくなってもう何十年も経っているような朽ち具合だった。だが拡大してよく見ると、玄関の引き戸のすりガラスには憶えがある…。

「ぼた餅買ってきたわよ」

 妻の声がした。今日は珍しく早く帰って来る日だということを忘れていた。なんでも有給休暇を消費しなければならないという日なのだそうだ。

 私は救われた思いがして、カメラの電源を切った。

「あなた、いるんでしょ。お茶にしましょうよ。お彼岸の売れ残りが半額だったのよ。みんななんで買わないのかしら。ちょっとレンジすればぜんぜん美味しいのにね」

 妻が差し出す皿の上には、あんこときな粉のおはぎがひとつずつ乗っていた。

「お彼岸か…」

 さっそく箸で小さく切りながら食べ始めてみたものの、なかなかのボリュームがあった。

 一個食べ終わったところで妻が言った。

「来週行く温泉楽しみね」

「来週?」

「そう温泉。ぼーっとしちゃってどうしたの? また具合でも悪いの?」

「いや、そうじゃないんだけど…温泉……予定表とか作ってたっけ」

「こないだスマホで送ったじゃない」

「そうだったっけ?」

「消しちゃったんならまた送るけど」

「あ、あった、これね…」

 私はメモ帳アプリに書かれている文字を辿る。やっぱりあの温泉のことだった。次はカレンダーアプリ。記憶がないがここにもちゃんと予定が書き込まれていた。

 今日は疲れているのか、それとも気が付かないだけで体調が悪くなってしまっているのか…。とりあえず早く寝るに越したことはない。

「そういえば、そこの温泉のおばあちゃんは今ごろどうしてるかなぁ」

 私は少し話題を変えたはずだったが、逆に踏み込んでしまった。

「温泉のおばあちゃん? 知ってる人?」

「ほら、こないだメッセージ送ったじゃないか」

 今度は妻が腕組みをする番だった。さてと首をひねっているがそんな記憶はどこにもないようだ。

「タクシーの中から送ったやつ。ほら、ここに書いて……」

 私は妻にスマートフォンの画面を見せようとして目を疑った。

 そこに表示されている文章、その文字ひとつひとつが、束縛するものから開放され風に舞う花びらのようにふわりふわりと漂い、次から次へと消えていくのだった。

 文字が消えていくたび、大事な記憶が消えてなくなっていくような気がしたが、私の心はなぜか軽やかになっていくのだった。

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