第16話 酒匂先生(1)

「手間かけさせてすまなかったな、こいつの頭、ときどきバグるんだよ」


と発する言葉はあまり一般的ではなかった。


「バグるとは、どういう意味ですか」


バグ、とはもともと虫という意味である。コンピューターのプログラムに間違った記述などがあるとエラーとなってプログラムが動かなくなるが、そのような誤りや欠陥を虫が食べた穴に例えた言葉だ。


「ヒトの精神って、精密なプログラムみたいなものなんだ。こいつは過去にかなり――」


酒匂はそこまで言うと口を噤んだ。


「まあ、ちょっとしたショックで精神こころが故障(傷つき)やすい奴なんだよ。リョーコがいなくなったほかに、何か変わったことがあったとか聞いてないかい?」


「昨日は別行動だったし、あ、人形劇のあとの懇親会で店長さんが急死した現場に居合わせたそうです」


「なるほど。確かにショックではある。ほかには何か無かったかい?」


「うーん、これと言って。あ!」


真木の顔に少し朱がさした。


「どうした?」


「いやいやいや、あれは違うわ」


真木は顔の前で掌を左右に振った。


「なんだ?小さなことでもいいんだ。心当たりがあったら言ってくれ」


「そのあの、露天風呂でね、出くわしたんです、日花君と」


「浴槽の掃除でもしてたのか?」


「違います、、、露天風呂で私すっぽんぽんで」


真木の顔がかなり赤くなっている


「何!?」


 酒匂は押し黙り考え込んだ。


「それが原因だ」


 真木に背を向け、風人の両肩に手をかけて酒匂が言った。


「風人はいつもスカしているように見えるが、実はそういう刺激に弱いんだ。きっとあんたの裸の刺激が強すぎたんだろう。あんたみたいな凄い美人ならなおさらだ」


「え?え?凄い美人というわけでもないけど」


声が小さくなる真木。


「うーむ、風人のこの症状を治すには、あの方法しかないな」


「あの方法?」


「原因となったものと同じ刺激を再度与えるんだ」


「?」


「ここでもう一度、あんたの一糸まとわぬ姿を風人に見せてくれ」


酒匂の声が大きくなった。


「え?」


「さあ、今すぐ!あんたには風人をこんなにしてしまった責任がある。文字通りひと肌脱いでくれ!俺の目の前で!」


と言って振り返った酒匂は、鼻の下が伸び、これ以上ないくらいスケベな目つきだった。




バシッ!と平手打ちの音が部屋に響いた。


酒匂の左の頬に真っ赤な手形がついて鼻血が出ていた。


「治療じゃなくて、貴方が見たいだけでしょ!!信じられない」


「ちっ。ちょっとがっつき過ぎたか」


酒匂は舌打ちのあと一瞬考えこみ、キリッとした顔に戻り、真木に言った。


「お嬢さん、風人だけに見せたというのは不公平だ。俺にも――」


バシッ!


 両側の頬に赤い手形がついている。


「もう治療でもなんでもないじゃない!マジで逮捕するわよ!」




「しかたないな。じゃあ依り代を使うか」


「じゃあ、じゃないでしょ!方法あるなら最初から――」


酒匂は両側の頬に赤い手形をつけたまま、自分のスーツケースから茶色いトイプードルのぬいぐるみを取り出し、虚ろな眼差しの風人の前に置く。


ぬいぐるみは、リョーコと同じチョーカーとペンダントをつけていた。


酒匂は風人の顔の前に自分の人差し指をさした。


「風人、ちょっとこの指を見ろ」


風人の視線が酒匂の指先に合った瞬間、酒匂はその指先で不思議な図形を描いた。まるで、空気に文字を書いているようだ。


「ちょっと、これって何?まるで降霊術みたいなんだけど」


真木の言葉が聞こえていないのか、先ほどまでとは打って変わって真剣な目をしていた。そして、ぬいぐるみに訊いた。


「おい、何かあったのか?」


「なんだ、飲んだくれが来てたの」


ぬいぐるみからリョーコの声がした。


『えまがいないみたいなんだ。だからお前をこのぬいぐるみに降ろした』


「そうみたいね」


「あいつが風人の傍を離れるなんてな」


「非常事態ね。非常事態と言えば―――」


「何かあったのか」


「昨日、劇が終わった後の懇親会で赤木と会ったのよ」


「赤木だと?」


「そう、お屋敷のコックをしていたあのいけ好かない男」


「なるほどな」


「この間、尾道で黄瀬とも会ったわ。もっとも、風人にとってはどちらも初対面だったけど」


「風人にとっては初対面だが、泥のように沈殿した深層心理に波がたったんだろう、それがきっかけで、風人の世界に乱れが生じたってわけか」


 酒匂は聞き取れないほどの小さな声でリョーコの声を発するぬいぐるみと会話している。


「何?どういうこと?」


言葉の真意がくみ取れなかった真木は酒匂に事の次第を尋ねた。


「それはな」


酒匂は深刻な顔で、ふうとため息をついた。


「風人のこの状態は、あんたの身体全体を見たからではなく、胸の大きさに関係があると思うんだ。そう、胸。だからその乳<ちち>だけでいいからちょっと見せて――」


ばっしーーん




鼻に丸めたティッシュを詰めている酒匂


「次に同じこと言ったらほんとにほんとに警察に突き出すわよ!」


頭から湯気をたてて怒り心頭な真木。


そのとき、突然風人のスマホが鳴った。


酒匂が気づいてキリッとした顔で応答する。


「もしもし、こちら日花の携帯ですが」


「私、保護犬の施設を管理しています塩田と申します。昨夜遅くにうちの施設に可愛いトイプードルちゃんが迷い込んできて、首輪にこの電話番号が刻印してあったものですから」


声は女性のものだった。


「いなくなったウチのリョーコに間違いないですね」


「いまどちらにいらっしゃいますか?」


「旅館<鯉の里>にいます。そちらの施設は?」


「鯉の里だったらすぐ傍ですよ。100メートルも離れていないと思います」


酒匂は通話を切ると、ことの次第を真木に説明した。




酒匂と真木は、虚ろな目をした風人を連れて保護動物施設「アニマルレスキュー」を訪れた。


古びた木造の家屋を改築し、広い庭に鉄柵を作り、保護された犬たちが遊べる場所となっていた。玄関に、リョーコを抱いた、茶髪のショートカットでカーリーヘアに近い髪型の、丸顔の女性が立っていた。背の高さは風人とだいたい同じくらいである。


抱かれていたリョーコが酒匂と風人に気づき、手足を動かし始めたので、女性はリョーコをそっと路面に置いた。勢いよく走り、風人の胸に飛び込むリョーコ。


「あんたが塩田さんかい?」


「そうです。昨日の夜、うちの子が一匹、床下に隠れて出てこなくなったので、犬笛を吹いたんですよ。リョーコちゃんはそれに反応しちゃってここに来たみたいです」


「犬笛か。確か涼子が使っていたな。なるほどえまが反応したわけだ」


酒匂が独り言のように呟いた。


風人の眼差しが、虚ろなものからみるみるもとの風人の瞳に戻った。


「あれ?ここ何処ですか?なんで先生がいるんですか?」


辺りを見回し、事態を呑み込めない様子の風人。


「はあ、良かった。もとの日花君になった」


と真木。


「アタシがいなくなって、風人がおかしくなったから、飲んだくれがわざわざ八王子からかけつけたのよ」


と、話すリョーコに目を丸くする塩田。


「え?リョーコちゃんがしゃべった」


「こいつ、腹話術師なんだ」


驚いた塩田に、酒匂は風人を指さしながら言った。


「あー、そうなんですね」


ほっとしたように胸に手を当てる塩田だが


「いやいや、そういうことじゃなくて」と困惑している。


「真木さんが色々手を尽くしてくれたのよ。感謝しなくちゃね」


続けて話すリョーコ。


「真木さん、ありがとうございます」


風人は真木の手を握り、礼を言った。いつもの丁寧だけどどこか上滑りなものではなく、心から真木に感謝しているのが、その瞳から見て取れた。少し赤くなる真木。


「そうだぞ、風人。感謝するべきだ。しかしもとはと言えばこのひとが露天風呂で見せてはいけないものを見せてそのショックで精神に支障を」


「な!」


「ええー?、そんなショックを受けるほどのものでもなかったですよ」と風人。


「は?」


 バシーン、バシーンと大きな音が2回して、


 酒匂と風人の左頬に赤い手形がついていた。


 (真木の手も赤く腫れている)


 


 「お茶でも飲んで行かれます?」


ちょっと引きながらも、アニマルレスキューの塩田が三人を保護施設の中に案内した。


四角い、質素なテーブルに、酒匂と真木、塩田と風人が向かい合い座っていた。


古びたコーヒーカップに、熱い珈琲が注がれ湯気をたてていた。


家の中には頑丈な大きなケージや小さな可愛いケージがたくさん配置してあり、昼間は庭で遊んだ犬や猫たちが、それぞれ自分のケージに入り眠るようだ。保護施設にはつきものの動物の糞尿の臭いがあったが、それでも最小限に抑えられていると言って良かった。


管理人の塩田がいかにこまめで有能かがうかがえる。


「失礼だが、今、犬と猫は何頭くらいいるんだい?」


酒匂が部屋の中を見渡しながら訊いた。


「全部で12頭です。一番多いときは20頭ほどいたんですが、里親が決まって貰われていきました」

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