第2話 「日花風人」
尾道市土王小学校の体育館の床に、舞台に向かい小学生が40人ほど並んで座っていた。
その後ろに、数列のパイプ椅子が扇状に並べてあり、保護者たちが座ったり椅子の間に立ったりして大人の壁が出来ている。
親も子も、皆小さなステージを見つめていた。今夜は劇団ナークの人形劇「三匹の子豚」が上演されるのだ。
人形劇の舞台のケコミは既に設置されているが小さな幕はまだ開いていない。
今はその前に黒いタキシードを着た青年が立っていた。
背はそれほど高くなく、ほっそりとした体形だが、ホールの天井から照らす照明のなかに浮かび上がるように見えるその肌は、まるで大理石のように白く滑らかである。額には一本一本が光沢を放つ黒い絹糸のような前髪が垂れており、その下には黒い大きな瞳があった。
青年が一礼して頭を上げ、その顔に笑顔が浮かぶと、まず子供たちの後ろに立って舞台を見ている保護者、とくに母親たちからホーッとため息が漏れた。
青年の横にはキャスターが付いた背の高い台があり、その上には茶色い巻き毛の小さな犬がお座りの体勢で客席の方を見て座っていた。犬種はトイプードルであり、首に細い鎖のチョーカーをして、金色のコインに似たペンダントが光っている。
ペンダントには「RYOKO」と浮彫が施してあった。
劇団ナークは少数精鋭、その演技の質は高いが、それでも子どもたちの集中力を上演時間である40分も持たせるのは難しい。
どんなに良質な人形劇でも、20分もすれば並んでみている子どもたちがむずむずし始める。
そのため、始まる前の掴みが実に重要だ。
青年、「日花風人」の仕事のひとつは、この掴みである。
風人は特殊な腹話術を会得していた。その腹話術は実に巧みに子どもたちの心をつかむ。
風人の横の台の上に座っているトイプードルが、子どもたちに向かって挨拶をする。
「みんなー、こんにちはー!」
トイプードルの口からカン高い女性の声がする。
子どもたちの目が丸くなる。
風人が、客席の中頃に座る子供が抱きかかえているウサギのぬいぐるみを指さすと
そのウサギが
「今夜は劇団ナークの人形劇に来てくれてありがとう」
と話し出す。
子どもたちから歓声があがり、後ろに立つ保護者たちからどよめきがあがる。
風人は天井にある大きな照明を指さす。
「みんな、いまから始まる人形劇、静かに観れるかな?」
照明からスピーカーのように声がする。
横の壁にかけた大きな時計を指さすと
「劇はちょっと長いので、トイレに行きたくなった人は静かに席を立つようにね」
と声がする。
それぞれ、少しずつ声色が違う。
目を丸くしていた子どもたちは、既に青年の腹話術の世界に引き込まれてしまって、
「はーい!」
と従順な声をあげた。
保護者のなかの、30代半ばの母親が驚いて、風人を撮ろうとスマホをかかげると、
「上演中、撮影はご遠慮ください」
とスマホから風人の声がした。
保護者達からも驚きの声が上がる。
「何これ、どんな仕掛けなの?」
自分のスマホをまじまじと見つめる母親。
風人は隣に立つ保護者を指さした。
するとその保護者の髪飾りから
「仕掛けじゃないですよ、腹話術ですから」
という声がして、会場内は笑い声と歓声に包まれる。
ひと呼吸おくと、風人自身が大きな声で
「それでは人形劇団ナーク、三匹の子豚上演開始です!」
と叫び、会場がさらに沸くと同時にトイプードルを乗せた台を引きながら舞台下手の袖に下がっていった。
人形劇団ナークの公演が終わった。
詰めかけた親子劇場の保護者のお母さんたちや、学校関係者から花束をもらい、舞台上に一列に並んだ団長を始めとする3人の劇団員が客席に向かって礼をすると、客席から可愛い拍手が巻き起こった。
風人(ふうと)も下手の舞台袖から舞台に出て礼をすると、人形劇が始まる前の腹話術に感心した親子たちからまた拍手が起こった。
深々と礼をする風人。
子どもたちと保護者が退場するのを見計らい、人形劇の舞台ケコミを解体し、大道具とともに片付けてトラックに乗せ、小道具をトランクケースに詰め終わると、団員5人は車座に座り、順番に小さな反省と大きな満足を口にした。そして最後に団長の砂川が
「みんなご苦労様だった。見てのとおり尾道での公演は無事成功。次の公演まであと4日あるから、各自観光を楽しむなり自宅に帰るなり好きにしていいぞ。ただし、4日の正午には愛媛の松山市民会館に集合するように」
と頭の上で手をパンパンと打った。
劇団といっても、客が払ったお金がそのまま劇団員に渡るわけではない。劇団を迎える地元の組織や会館、教育委員会などと劇団との契約となる。劇団ナークは人形劇を専門とする親劇団である劇団オリオン座のなかの一組織だ。ナークは子供たちの情緒を醸成する質の良い人形劇ということで今年の3月には再来年の年末までスケジュールが埋まるほどの人気を得ていた。全国から上演の依頼がひっきりなしで、劇団員は一年中ほぼ旅をしながら上演する旅芸人一座に近かった
「皆さんにちょっとお話があります」
風人はスクラップブックのようなノートを取りだした。
「ええと、劇団の経費で落とせるのは、上演当日の食糧費、つまりお弁当ですね、と、それぞれの経由地から上演地までの交通費のみです」
風人が話し始めると、また始まった、と、ほかの団員は渋い顔をした。
「お弁当は一食1000円が上限です。1500円のステーキ弁当買っても1000円しか対象になりません。おやつデザートの類は対象外です。一緒にチロルチョコとかうまい棒とか買っても対象外ですからね、団長」
「おお、」
「領収書のあて名書きは空欄か上様でお願いしますね。機材が破損した場合の補修材料は直接買わずにいったん僕を通してください」
「わかった」
砂川団長は身長185㎝ほどの大きな体で、筋肉質。角刈りで人相もあまり良くなく、10年前に大道具の留め金が落ちて来た時に、隣にいた劇団員の女性をかばって顔に大きな傷が出来て、まるでどこかの組の大親分みたいな風貌だ。ちなみにそのときかばった女性が今の奥さんであるから傷を作った甲斐はあったのかもしれない。
副団長の太田さんは団長より背が低いがそれでも170cm後半で、眼鏡をかけたおかっぱ頭のひょろっとした男だが、「人形使いにかけては国宝クラス」と団長がいうほどの腕前だ。セリフも台本を一回読んだだけで覚えてしまうつわものである。
もう一人は人形使いの砂川莉子。団長の奥さんである。身長は150㎝ほどで小柄であるが、人相の悪い砂川団長をしっかり尻に敷いている。
風人は3年前に入団した新人で、役割はほぼ雑用だ。雑用と言っても地元の団体との打ち合わせ、契約、箱付き(会館の舞台装置を管理している技術者)との舞台上での動きの確認、舞台の組み立て分解、客席の子供が泣き出した時の対処など多岐にわたる。
紗枝は風人とほぼ一緒に入団した美術担当だ。八王子の有名私立美大を卒業してそのまま入団したが、背景や小道具の整備、人形の補修、なんでもこなす有望株だ。少し小柄ではあるがなかなかの美形である。
しかし芸術関係の人間にありがちな自己表現が強いタイプで、髪は鮮やかな金髪であり、我が強く風人にしてみればとっつきにくいところであった。
団長ほか三人はすでにはけて、第二ホールに残っているのは風人と紗枝だけだった。
紗枝はにっこり笑って手を振ると、体育館の動きが硬い大きな戸を、体全体で引き開けて出て行った。
風人は劇団員全員が会館から出たことを確認すると、校舎の職員室の隣にある事務室に入った。黒いブロッコリーみたいにボリュームのあるヘアスタイルの事務員に挨拶をして、トイプードルのリョーコを小脇に抱えて学校施設使用届の写しを受け取った。風人の車を明日の朝まで停める許可も得ているのだ。
「今日は遅くまでありがとうございました。もう施錠してもらって大丈夫だと思います」
通り一遍の挨拶をしたが、事務員は小さな会釈をしたあと、食いつくように風人に訊いた。
「私、最初だけ見てたんだけど、あの腹話術ってどうやるんですか?小型マイクを仕込んでいるわけじゃないんでしょう?」
風人は自分の特殊な腹話術の仕組みを説明した。風人の口と舌は少し特殊な構造をしており、音声の射出を絞り、狭い範囲で遠くまで飛ばすことが出来る。花に水をかけるホースの口を絞るのと同じだ。通常の会話はシャワーの状態であるが、風人の腹話術は水を細くして遠くまで飛ばす状態に似ている。保護者のスマホから声がしたのは、細く絞った声がスマホにあたり、スマホから反射した声を会場の来客者が聞いたというわけだ。
管理人のブロッコリーみたいな女性は目を丸くして、「そんなことができるんですねえ」
と感心した。
風人は管理人の背後、事務室の机の上にあったパソコンのモニターを指さす。
モニターから、
「わかります?こんな感じです」
と風人の声が聞こえ、管理人は驚いて振り返った。
「じゃあ、行こうか姉さん」
風人はトイプードルに語り掛ける
「もう、待ちくたびれちゃったよう。お腹も減ったー」
トイプードルが抱えられた風人の腕の中で不満そうな声を出した。
管理人がまた目を丸くする。
「ええとワンちゃんのお名前は?」
「私、リョーコよ。この子の姉なの」
管理人は風人に問いかけたのだが、トイプードルが答えたので目をぱちくり。
「それも腹話術なんですよね?」
風人とトイプードルの会話を不思議そうに見ていた管理人がさらに尋ねた。
「何言ってるんですか、腹話術じゃなくて姉さんが話しているんですよ。ねえ」
「うんうん」
トイプードルが頷きながら返事をした。
(このひと、おかしい)
美形な風人に向けて放たれていたうっとりとした視線が、瞬間的に怪訝なものに変わった。
女性はあることを思い出していた。
演劇が始まる前に、劇団の団長と名乗るゴツい男がやってきて、耳打ちするように
「手続きにくる腹話術師の兄ちゃんは、こまめで仕事はきっちりなんだが、ちょっと変わった所があるんだ。だからあんまり突っ込まないでくれ」
そう言ったことを思い出し、
「美形なのにねえ」と小さくつぶやくとあさっての方を見てゆっくり二回頷き背中を向けた。
「あれ?」
女性は両手を服のポケットに差し込み、何かを探しているが、みつからないようだ。
「おかしいわ。確かにこのポケットに入れたはずなのに」
カーディガンのポケットを探し、スカートのポケットを探し、机の引き出しを探し始めた。
「どこに置いたのかしら、ないわ」
「ひょっとして、探してらっしゃるのはこの体育館と校舎の鍵ですか?」
風人はリョーコを抱いたままブロッコリーみたいな髪型の女性に尋ねた。
「よくおわかりになるわね。そう鍵がないの」
「いえ、この時間で、僕との会話が終わって必要なものと言ったら鍵かなと」
「そうなんですよ。鍵をかけないと私帰れない」
ブロッコリーは困った顔をした。
風人は、ふっと息を吐いてあと、彼女の方を見て、
「僕の質問に答えていただけますか?」
と言った。
「え?」
「みっつの質問に答えてもらえれば、鍵がどこにあるかわかりますよ」
風人は能面のような美しい顔でにっこりと笑った。
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