そこに僕はいない

天雲宇海

第1話 プロローグ

夜の海岸沿いの道路

雨が車のフロントガラスをたたく。

ドイツ製の車のフロントガラスに落ちた雨はワイパーにより勢いよく左右に拭かれ、しずくとなって飛んでいる。

ハンドルを握っているのは女だ。カーブの多い道路を制限速度をゆうに超えるスピードで車が走っていた。

助手席に座る男が、運転している女にスピードを落とすように促すが、女はいうことを聞かない。声の調子から、女の方が男よりも上の立場にあることがうかがえる。

本来ならば、男が運転するところであるが、会社で出張用に購入した車の運転を、女がやってみたいといい、半ば強制的に運転席に座ると宣言し、ハンドルを握っていた。

大きな高級車が、彼女のハンドル操作に遅れることなく車体の向きをひらりと変える。

しかし、突然、コマ落としの動画のように、視界に何かが現れた。

女は反射的に床が抜けるような勢いでブレーキを踏むが──。

ドギャッ

柔らかいものと硬いものが高速でぶつかる音がして、大きく重く長い肉の塊が回転しながら雨を裂いて宙を舞い、濡れ雑巾のように路面に落ちた。

それが落ちた位置から数メートル離れたところに車が停まった。

ドアが開いて、女と男が降りてくる。

足音さえ、雨音で聞こえない。

 

「これは」

それを見て、男は言葉を失った。

「どうして、急に道路に人が」

女はうろたえた。

「だからスピードを落とせとあれほど」

男が震える口で言う。顔を伝う雨が顎から滴り落ちる。

「病院に」

男がそういうと、女は首を横に振った。

「駄目よ、もう息していない」

「警察に電話を」

 雨に濡れて寒いのか、己が置かれた現状に恐怖したのか男がガタガタ震えながら胸ポケットから携帯電話を取り出した。

「救急車を」

電話をかけようとするが、

女がその携帯を雨で濡れた手で叩くように押さえた。

「いったい何を」

と男は女を見るが、

首を何度も横に振った。

前髪から雨がしたたり落ちる。

「誰もみていない―――」

降りしきる雨の中、路面で雨粒の砕ける音にかき消され男と女が何を話したが聞こえなかった。

男が路面に横たわる遺体の背後から抱き起すように持ち上げ、女は脚を持ち、車のトランクに載せた。

雨は更に強くなり、路面に散らばった車の小さな部品や遺留品や血液を洗い流した。

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