最後の声

月井 忠

第1話

 今日もあのクジラの声を聞けなかった。

 最後に聞いたのはいつだったか。


 今日は退官の日だ。

 もはや、あの歌を聞くことはできないのだろう。


「教授、いいですか?」

 ゼミの女学生が顔をだす。


「ああ」

 片耳に当てていたヘッドホンを机に置き研究室を出る。


 遠い海に浮かぶブイには集音装置がつけられている。

 音は電波に乗って、この研究出まで運ばれていた。


「ちょっと、お願いしたいことがあって」

 女学生はペロッと舌を出して媚びる。


 クジラの声を聞けなかったからか。

 どうにも、いいお願いには見えない。


「ああ、いいよ」

 拒否する選択肢はもともと持ち合わせていない。


 女学生の後について廊下を歩く。


 あのクジラに出会ったのは何年も前のことだ。

 独特な歌を奏で、私は心を奪われた。


 毎年のように回遊ルートのブイを調べた。

 私は彼の歌を何度も聴いた。


 しかし、ある時から彼は姿を見せなくなる。

 あれから私は彼の歌に恋い焦がれていた。


 クジラの寿命は長い。

 生きているなら、いつか会えると思って今日まで続けてきた。


 しかし、それも今日終わる。


「最後にお願いをしてもいいかな」

 前を行く女学生に声をかける。


「最後……ですか?」

「ああ、集音ブイのことで」


「あ、ちょっと待ってください!」

 急に慌てて、辺りをキョロキョロと見始める。


「その話は、もう少し後で」

 そう言って、歩き始めた。


 やはり、なにか良くないことが起こりそうだった。

 私の退官と共に集音ブイの研究は終わりを告げる。


 研究室は後進の者に託すことができたが、研究内容全てを引き継げたわけではない。

 クジラの歌を聞く方法はなくなる。


 女学生はある教室のドアの前で立ち止まった。

「どうぞ」

 そう言って、中に入るよう促す。


 警戒しながら入ると、突如クラッカーの音が迎えた。

「教授! お疲れさまでした」


 そこには、大勢の学生がいた。

 いや、中には卒業生もいる。


「びっくりしました?」

 研究室を託した研究員が前に出た。


「ああ、これは?」

「サプライズですよ」

 彼はニコッと笑う。


「それと、研究についてもお知らせしたいことが」

 彼はわざとらしく声をひそめる。


 何度となく、それを見てきた私にはわかってしまった。

 彼は隠し事が下手だった。


「集音ブイのことですけど、彼らが会社を立ち上げて引き継ぐことになりました」

 拍手の中、出て来たのは随分前に卒業した学生たちだった。


「教授がいつも聴いていたのをヒントに、海の音を配信するサービスを開始するということです。これからも、聴けますよ」

 彼は笑った。


 どうやら彼の全てを見抜けるわけではなかったようだ。

 私は涙を拭う。


「ありがとう」

 そんな方法もあるのか。


 研究ばかりの私にはない発想を彼らが成し遂げてくれた。

 終わったはずのものが、また目の前に現れた。


 またクジラの声を聴ける。

 いつか聴いた歌を最後にしたくはない。


 私はこれからもヘッドホンを片耳に当て続けるだろう。

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最後の声 月井 忠 @TKTDS

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