第二章 霞ヶ丘小男児四名遭難事故9

 ――暗闇に一歩踏み出す手前、レンはかろうじて中空で足を静止させた。


「はあ~~~~。あ~~~~~~~~~~。焦った~~~~~~~~~~~~~~」


 安心感でどっと息を吐く。息が、もわもわと顔に降り掛かるがそれでも息を吐き続ける。

 はあ。ああ。やべ。やっべ。ああ。あー焦った。人生でこれほど焦ったことはないってくらいに焦った。

「良……?」

 そんな俺を、下方から、レンが、眩しげに、訝しげに見上げている。


「レン! レン!」

 何度も叫んでいるのにレンはずんずんと進んで行った。まるで何かに囚われているみたいだった。UMAなんかに興味を持つ奴じゃないだろう。むしろ心の中で馬鹿にしていそうなくらいなのに。何が彼をああも突き動かすのか。そうまで帰りたいか。

「そっか。雪か」

 雪は音を吸収する。確か、化学系のテレビ特番で見たことがある。音は振動だ。複雑な形をしている雪の結晶は、その音の波を内側に捕らえてしまう。だから、雪が降った日は異様な静けさに満ちているように感じられる。

 吹雪いているせいもあるのか。思い出したところで何の役にも立たない知識。

 何かが引っ掛かった。が、すぐに忘れてしまう。

「まずっ」

 視線の先、それでもいいところまで追いついてきた。と、思ったところで。

「あそこは」

 崖があった。瞬くフラッシュバック。あのすぐ先には闇が広がっている。成程。ここからこうして見てみると、微妙に角度があるせいでその先が見えない。おまけに雪がちょうどよく崖側に堆積しているせいで殆ど落とし穴だ。あんなの気付けって方がどうかしている。

 大人だったらまだしも子供。ましてレンは小さいからより気付きにくいであろう。俺? 俺は馬鹿だっただけだ。前方不注意、なんて耳にタコが出来るほど子供の頃は言われていたのにな。何故だろう。子供の頃ってのは、俺だけは違う大丈夫という想いが強い。

 大人になってしまうとだんだんとその想いは薄れていくのだが――。

 この距離ならば……。

「レン!」

 だめだ。止まらない。

「レン!」

 止まらない。止められない。

 クソッ!

「あ。そっか」

 そこでやっと気付いた。自分の手にしていた物に。別れる間際、愛に渡された、右手に握っている代物に。やはり俺は馬鹿だ。


『これ、予備だから。持っていってね』


 パッと光を向けた。持たされた懐中電灯。愛に持たされた懐中電灯。

 一瞬悩んだが、光はレンの足元、目の前に向けた。レンに光をそのまんま向けてしまうとびっくりして逆に足を滑らせてしまいそうだという一瞬の判断からだった。

 びくっと体を強張らせ、足を中空で静止させたレン。

 それを俺は、陸の頭上、数メートルは上の――崖の上から見下ろしている。




「ひえー。おっかねえ。いやあ、助かった。ありとうな、良」


 四つん這いで、崖の上から下を覗き込みながらレンは言った。俺も恐る恐ると覗いてみる。懐中電灯で照らすと、さっき俺が立っていた崖の倍以上はありそうな高さが。

 ……いや、柵くらい立てようぜ、ここ。下にでかい岩あるぞ。ていうか、なんだあのゴミの山。不法投棄現場か? よく生きてたな、当時の俺。

 誰が管理――って、私有地だから管理も何もって話か。そもそも立ち入るなっていう。

「愛から聞いてな」

「愛?」

 陸は眉根を寄せた。俺はうんと頷く。

「ああ。何でもこの山はあいつん家の持ち物らしい。親が猟師やってるんだと。校長だよ、あの校長。髭面の。びっくりだよな。そんな趣味持ってたなんて。いや、俺も今まで忘れていたんだが……って、それはこっちの話。で。愛に聞くところによると、この山めちゃくちゃに危ないってんで、愛と二人でお前らを探していたわけだな」

 冷静になってみると……、だったら校長に言えよって思うが。そんな時間も惜しかったのか、焦って視野狭窄になっていたのか、ただ単に、これからある英会話教室をサボる口実が出来たと踏んでいたのか――一番最後の理由じゃないのか、実は。

「ふうん」

 ぶすっ面。何を考えているのだろう。珍しい表情だ。

「レンが歩いていた道。これ。帰ろうとしてたのか?」

「あ。いや」

「? まあいいや。この道、行き来た道と方向がズレていてな。真っ直ぐ進むとこの崖に突き当たるんだよ。気付いた時には真っ逆さま。俺は三人が別れた場所からレンを追ってきたわけだけど、この道はアップダウンが急だから」

 二等辺三角形を想像をしてもらうと分かりやすいかもしれない。まず、頂点から下辺へと向かう。一方の直線を俺が行き、もう一方の直線をレンが進んで行くとする。辿る道筋は違うが、行き着く先は同じ。下辺はつまり山の麓である。レンは先に出発しており、しかもやたらに急いでいる。それでも俺が追いつくことが出来た理由――それは直角三角形を横、三次元方向から見てみた時に判明する。レンの進む直線は上からだと真っ直ぐに見えるのだが、横から見てみると酷い波を描いているのだ。対して、俺の進んだ直線に波はない。なだらかなものである。

 ちなみに、レンの進んだ直線と俺の進んだ直線は隣接している。

「ほら。あそこから何度も呼んだんだぜ?」

 俺は今しがた俺が立っていた崖の上――つまり、帰り道を指差した。

「全然聞こえなかった。つか、良、お前雰囲気変わった?」

 ぎくっとなる。相変わらず勘の良い奴だ。

 くそ。喋り方違ってたか? いやしかし……子供の頃の喋り方なんていちいち思い出せん。ええい、面倒臭い。そのまま続けることにしよう。

「光」

「光?」

 俺は手にしていた懐中電灯を上へと向けた。木々の隙間から満天の星空が見える。

 綺麗だなあ。こんな状況じゃなければしばらく眺めていたいくらいの星空だ。澄んだ冬の空気だからこその。俺は視線を戻し、足元の雪を蹴った。

「音は雪で吸収されても光ならば雪は反射してくれる。拡散し、乱反射。雪の朝って妙に明るく感じられるだろう? 雪焼けって言葉があるくらいだ。何でもさ、雪の日光反射率って八十%いくらしいぜ? ちなみにコンクリが五%くらいで、水面が十%から二十%くらいな。いやあ、化学系のテレビ特番ってたまには役立つこともあるんだな。あの距離でも無事こうして助かったわけだから」

「はあ」

 分かったような分からないような顔をした後、レンはハッと立ち上がる。

「良。今何時だ」

「いいとこ七時過ぎだろ」

 この暗さ、ここに着くまで一時間弱、登りに一、二時間、ここに行き着くまでに同じ時間、と考えると大体そのくらいになるはず。

「あ~!」

 レンはまたぞろ四つん這いになった。走ったりコケたり這い蹲ったり忙しい奴である。

「どした」

 あの頃、レンだけは何となく大人に見えていたが、こうして見てみると案外子供だよな。クールそうに、落ち着いてそうに見えて、実はそうでもないという。心の内では色々思うところありそうだな。言葉を外に出すことをしないというだけ。それを隠しきれていない。まるで昔の俺みたい。クールは除くとする。

「見逃し……見逃した……。ああ……そんな……」

「なにを?」

「さ。あ、いや。なんでもねえ」

「?」

 横に俺が立っているのを思い出したみたいに口を噤んだ。

 んん? 見逃した? 土曜。この時間帯。さ。っていうと。

「カードキャプターさくらか」

「う」

 羞恥に染まる顔を眺めて俺もハッとする。ぬかった!

「うーわ。そっか。そうだな。リアルタイムで放送してんのか。うわあ。リアルタイム視聴。体験したかった。ずっと頭にあったのに失念してた。うう。クソ」

「……お前、さくら見てんの?」

「はあ。ま、いっか。もう見てるし」

「は? 見てから来たのか……って、そんなはずねえよな。時間的に」

「あ」

 レンに独り言で返していたことに気付く。

 うわ。やっべ。どうしよう。言い訳。いい言い訳は。

「あー。ほら。えーっと。家に漫画揃ってるからな。それで。もう観てるっていう」

「え。さくらって漫画なの?」

「漫画だよ。なんだ知らなかったのか?」

 そういえばこのくらいの年代ってジャンプマガジンサンデー、その辺の超メジャー級漫画でも知っている奴は少なかったなあ。これが高学年中学生くらいになってくれば、みんなが興味持ち始めて話も通じてくるんだが。まだコロコロ、或いはボンボンか。兄貴いる奴は多少通じたか? ああ、懐かしい。家にまだあったけな。好きだったんだよ、ボンボン。エロくて。

 当時、話が合わなくてやきもきしていた気がするなあ。

 少女漫画なら尚更だよな。手出し辛いだろうし。

 ふうむ。

「良」

 俺が夜空を見上げ一人感慨に耽っているとレンが立ち上がって肩を掴んできた。

「お、おお?」

 どした? 今から告白でもされんのかってくらい顔真っ赤っかだが。

 そうしてしばらく十秒二十秒と経過し、そろそろ上に戻らねばまずいなあと考えていると、ようやっと決心したのか、震えながらレンが口を開いた。


「読ませてくれ」


 これが、レンの将来を大きく左右する。

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