第二章 霞ヶ丘小男児四名遭難事故8
パァンッ! と、拍手を放った。
すぐ手前にいた少年がびくりと肩を震わせ、しかしそれより先に数メートル先にいた動物が反応を示し、山の奥の方へと逃げて行った。
猟銃だとでも思ったのかもしれない。
「あ――……」
まるで置いていかれたように少年は前方に手を伸ばす。口をぽかんと開けて。
その姿を、愛は後方から眺めている。
徐々に、ゆっくりとだが少年は事態を呑み込み始めている、ように見えた。
何かが後ろに迫ってきていると悟ったのか。果たして何だと思っているのか。
こっちが可笑しくなるくらいおっかなびっくり首を巡らす様に、愛は腹の底から込み上げてくる笑いを必死に抑えた。ここで笑ったら台無しだ。
「やあ」
悪戯心も手伝って愛はにんまりと笑ってみせる。口裂け女を意識してみた。が、残念なことに少年は口をぱくぱくとさせるばかりで、愛の欲しかった反応は返してくれない。
「あえ」
脳の処理が追いついていないのかもしれない。
「やあってば」
少年――陸に向かって愛は再度言い放った。
「……さ、崎坂? ほ? 本物? ゆ、UMA?」
「こんな美少女を捕まえてUMAとは。とんだご挨拶だね」
わけのわからぬ物言いにやっと目の前の少女が自分のよく知るクラスメイトの一人だと悟ったのだろう。陸は口をぱくぱくとさせながらも不満げに言い始める。
「お、お前。なんで。なんでこんなとこに。あ。それより。それより。さっき。あれ。さっきのあれ。あれ。新発見だったのに。UMA。UMAが目の前に」
指は先程動物が消えて行った方を示している。
「あれはシカだよ」
愛はふうとこれみよがしにため息を吐いた。吐いた息が白く染まり顔に掛かる。急速に悪戯心が萎えていくのを感じた。何がUMAだ。馬鹿らしい。
「……鹿? いや、鹿じゃねえって。ちゃんと見てねえだろ、お前。それなのに」
「待ってくれ」
ヒートアップしてきた陸を鬱陶しげに手で払う。
愛の視線は件の『鹿』が逃げていった方向に注がれている。対して陸は跪いたまま。腰が抜けているのだろう。
「鹿は鹿でもカモシカってやつだ」
「鴨?」
「鴨じゃない。カモシカ。鹿でもないけどね。どちらかと言わなくても牛かな」
「はあ? 何言ってんだあ、お前」
「だめだよ。近付いちゃ」
わけがわからないと渋面を作る陸に、愛は上から説教するように腰に手を当てた。
「名前にシカと付いちゃいるけれど、厳密には牛の仲間ってやつだ」
「……?」
「ウシ科。国指定の特別天然記念物カモシカ。珍しいね、こんなところにいるなんて。わたしも長いことこの辺りに住んでいるけれど初めて見たよ。割りかし大人しいって聞くけどね。でも、下手しなくとも鹿よりよっぽど危ないから。あんまり興味持って近付いちゃいけないよ。正面になんか絶対に立っちゃいけない」
「な、なんで?」
愛の物言いに今更やっと怖くなったのだろう、陸は震える声で尋ねてくる。
「角。見ただろ?」
「ああ。格好いいよな、あの角」
急に元気になった。
変な奴だ、と愛は思う。
陸は視線を愛から逸らし、カモシカが逃げていった方向に目をやった。
「あの角に貫かれて死んだ人もいるから」
「え。嘘」
「嘘じゃない。猟師が罠に掛かったカモシカを罠から外そうとしたんだ。そうしたら興奮したカモシカに頭から突進されたっていうね。あのとんがった角で貫かれたんだって。そういうような事故はないわけじゃないらしい。もちろん子供じゃなくて大人だよ? 子供だったら尚更危ないだろう」
「つらぬく……」
想像しているのだろう。陸がガタガタを体を震わせた。
恐怖もあるだろうが、ひょっとして寒いのかもしれない。
「よいしょっと」
「お前、何やってるんだ。ていうか、なんでこんなとこいんだ?」
「それはこっちの台詞だよ。良夫くんが心配してね。ここは元々わたしの家の土地だから地形には多少詳しいんだ。一緒に探してたって話さ」
「良夫? なんだ、良夫いんのかよ」
帰ったわけじゃなかったんだな。遅れたってやつか、あいつらしい――そんな感じに少年は顔を綻ばせた。愛はその表情をそう読み取る。
ふんと息を吐いた。
彼、良夫の、グループに置けるポジションがよく理解出来なかった。孤立している愛にはいまいち想像が付かない。無理にこの傍迷惑なグループに付き合っているわけじゃないらしい。なんだかがっかりしている自分がいる。何故だろう。
「べつに入ったって構わないけどね。時期を考えなよ。時期を」
「俺だってべつに入りたくて入ったわけじゃ」
「入りたくなかったんなら、何で入ったの?」
小首を傾げ意地悪で訊いてみた。陸は不満げに唇を尖らす。
「何でもない。お前、さっきから何やってんの」
「あげる」
「チョコだ! キットカットじゃん!? え、くれるの!? いいの!?」
「うん。いいよ」
まるで犬みたいだと愛は思う。かじかむ手で震えながら袋を開け、陸はキットカットを口に放り込んだ。よっぽどお腹が空いていたのだろう。
「あとこれ。あったかいお茶」
「うおおおお。生き返るうううううう」
こぽこぽと水筒から温かいお茶を注いで陸に手渡した。陸はあちあち言いながら、それでもゆっくりとお茶を飲んでいる。ひとしきり眺めた後、愛は告げた。
「さ、行くよ」
「へ。どこに?」
「中間地点。合流することになっている。それで最後の一人を捕まえるのさ」
説明する気はなかった。
「はあ? あ、ねえ。待ってよ。まだ上手く立ち上がれないんだって。ね、ねえったらっ。うわっ、あいたっ!」
必死に、何が何やらとばかりに、それでも文句を言うことなく陸は立ち上がった。二度三度とずっこけながら。根っからの子分気質なのかもしれない。
「あいつ、一人なのかな」
付いて来ながら陸は呟いた。少し涙声だった。涙声の理由。緊張が緩んだことによるそれなのか、不安によるそれなのか。とりあえず触れないでおく。
一人とは、たぶん、カモシカのことだろう。
「鹿と違って単独行動を好むからね。そりゃ一人だろうよ」
愛は言った。
「そうなんだ」
後ろ目をやった。
名残惜しそうに、未だカモシカが去った暗闇を陸は見ている。
――へんなやつ。
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