第二章 霞ヶ丘小男児四名遭難事故7
●陸
鹿だ!
今、陸の目の前には一匹の鹿がいる。見たところ、落ち葉しかないだろうに、必死に地面を食んでいる姿は健気にも映るが、同時に{逞|たくま}しくも映る。そしてどうしてだろうか。その姿に、心の中で僅かな羨望が芽生えるのを陸は感じている。
ぴくん、と。
鹿が反応した。左右に首を振り、音のした方角を感じ取っているようだ。
陸はハッと口元を押さえ、息すらしまいと努める。
「…………」
再び、地面を食む行為に戻る鹿。
陸はじりじりと、亀でももう少し速いだろうというようなスピードで歩を進める。
そこで気付いた。
茶色の毛並み、筋骨感じられる手脚、雄々しき角――……角?
――鹿? あれ? でかい犬? 牛じゃないよな?
陸は自分の知識を引っ張り出す。知識の源はテレビと以前行った動物園。
鹿にしては毛深いように感じる。毛色的に熊に近いようだが断じて熊ではない。熊が危険なことなど陸だって知っている。熊に近づこうとは陸でも思わない。
角……は、やけに短い。そして、陸の知る鹿の角よりも太くて刺されたら痛そうだ。鬼の角みたいだと感じる。つぶらな瞳は鹿に似ているが、身体は鹿よりももっとずんぐりしている。
「はっ」
――ひょっとして……UMA?
ハッと息を呑み込んだ。鹿っぽい、熊っぽい、犬みたいな何かがまた反応した。二回目。流石に警戒している。ゆっくりと、陸のいるのとは反対方向へと歩き出す。
陸の心臓は早鐘を打っている。
――やべえ! 新発見だ! UMA! UMAだよ! UMAが目の前にいる!
捕まえるまでいかなくとも、
追いかけなくては!
強くなってきた雪、どんどん冷える体、ますます暗くなっていく空、
松司、レン、おまけで良夫。
全てがどうでもよくなっていた。
▼レン
――決めた。今度腕時計を買ってもらおう。盤にさくらの魔法陣が描いてあるやつ。それならあんまり目立たなくていいかもしれない。絶対見る度テンション上がる。
生きた心地がしない。寒さでどうこうそういう問題じゃなくて頭はさくらのことでいっぱいだ。これを逃したら一生後悔する。そういう問題だ。
ここまで欠かさず見てるのに。
一度見逃してしまえば、ビデオレンタルされるのなんて一体いつになるか。というか、町のレンタルショップでさくらを借りているところを万が一学校の誰かに見られたのを想像しただけで――。
「うほ」
滑った。
滑ってずっこけた。
さっきからこんなのを計五回はやっている。
自分の通ってきた後に、度々尻の跡がでっかく残ってて何やら恥ずかしいが、そんなこと気にしている余裕も今はない。
「あー、もう!」
走り出し、そしてまたこけた。六回。
――登ってんだか、下りてんだか。
《いつも一歩引いてクールに》を、心がけているレンだが、今だけは事情が違っていた。松司と陸のあまり好ましくない性格の一端を、いつも近くにいることでよくよく知っているレンだからこその信条。
焦りは何も生まない。傲慢なのは見苦しい。嫉妬は阿呆のやること。良夫は馬鹿。
フォローは俺がしなくては。
という想いが常にある。
――そうだった。
一歩引くよりも、今だけは歩き出さなくては。
大道寺知世に申し訳が立たない。
起き上がった。盛大にずっこけた事で少しだけ冷静になれた。そしてふと気付く。進んでいる内、右側がやけに出っ張ってきたことに。壁。壁みたいだ。雪に覆われていたせいで、そこがそうなっていると今まで気付かなかったみたいだ。反対側、左を見れば崖である。そちら側はまた別の山だろうか。いつの間にこんなことに――。
「……」
隘路。人、せいぜい二人分通れる道。来る時、こんな道は通らなかったはず。
不安になる。が、気は急いている。引き返すわけにはいかない。
足跡は続いている。先程の森深くとは違い、星明かりで自分たちとは違う足跡だと判明していたが。続いているということは誰かが通ったのだ。大丈夫、な、はず。
愛が頭に浮かんだ。次いで、良夫が浮かんできた。普段の呑気な良夫からは考えられないくらいのスピードでざあっと愛の元に駆けていった良夫のあの横顔が。
「ふん。ま、着くだろ」
鼻を鳴らす。
例え、少し違う方向に出たとしてもそこからぐるっと周っていけばいいのだ。その証拠に、ほら、
「見えてきた」
何度目かのちょっとした上り坂を超えた辺りで町灯りが見えてきた。
一歩、踏み出す。
★松司
当たり前のことだが、頂上に向かえば向かうほど気温は下がるし、自然、雪の勢いも増す。
そのことを分かっていなかったとは言わない。が、体感してみて初めて分かるってことはある、と松司は思う。断じて俺が考えなしだったわけじゃない、とも考えたところで、
びゅうと風が吹いた。
意識が一瞬で真っ白に染まった。
耳が千切れそうなくらいに痛くなっている。
――なに。考えてたんだっけな……。
「さみいなあ」
脚。雪ですっぽりと膝丈くらいまで埋まっている。進めば進む程埋まっていきそうだ。スニーカーを履いてきたせいで足先はぐっちょりで気持ち悪い。最早感覚もなくなってきている。
手。毛糸の手袋じゃなくて、スキー用のガチの手袋を付けてくればまだマシだったかもしれない。こちらも濡れ気味だ。だけど外す気にはなれない。指先の感覚は同じくない。ポケットに入っている使い捨てカイロはもう何の意味もなしていない。イライラしてそのへんに放り投げる。
急速に気持ちが萎えてきた。
何やってんだろう、俺は。という想いに駆られる。
「これじゃあ良夫の馬鹿と一緒だ」
松司にとってこの言葉に悪意はない。全くない。馬鹿の基準が良夫というだけ。良夫は馬鹿だし、馬鹿は良夫。呟き、言葉事態に意味はなく、口癖みたいなものである。馬鹿と一緒に良夫の名前が自然と出てくる。女子が何にでもかわいいというのと同じ。馬鹿馬鹿良夫。馬鹿良夫。
「良夫の馬鹿はどうでもいいんだよ」
なんだって、今、あんな奴のことを。
こんな大変なのに。
イラッとした。
――そうだ。
パッと目の前が華やぐ。
絵里。
そうだ絵里だ。
落ちていたスピードが急速に戻る。ザクザクと雪に自ら埋まっていく。そのことに何とも思わないわけではないが、けれど凍てつく風が吹き付ける度、意識に空白が生まれ、次いで絵里の顔が出てくる。松司を動かす。サイクル。循環。
熱中している状態に近い。ドッジボール、野球、サッカー。やり始めじゃない。試合が進んで、大接戦になっている時。それだ。それに近い。無敵感。誰も俺には敵わない。アドレナリンが全身に漲っているのを感じる。あの、何でも出来てしまいそうな状態。
「ちっ」
舌打ちが零れた。
先から登っていってる斜面が急に角度を増した。最早壁だ。回り込む方が早そうだが、そうする気にはどうしてもなれない。理由は、負けた気がするから。
こういう場所を、器用に両手を使って登っている大人をテレビで見たことがあった。
――俺に出来ないわけがない。
岩壁の雪を払い手を掛けた。ぐっぐ、と、その強度を確かめ崩れないか試す。次。左手。そちらも同じ。そして右足、左足。交互に繰り返し、二三メートルまで登る。
――ほらな。
――やっぱり、俺、天才。
下を見る。けっこうな高さだ。ここで震えるのは良夫の馬鹿だけ。いや、きっと陸辺りもそう。レンはなんだかんだ理由を付けやらないだろう。つまり俺だけ。
上を見た。後、少し。
ぐっと手を伸ばす。岩肌を掴む。
――ん……。なんだこれ。
掴んだ場所が岩の窪みに張った氷だと気付いたのは、ずるん、と手が滑った後だった。
宙空で、昨日の絵里を思い出す。
――あ。俺、今、絵里と一体になってる。
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