第二章 霞ヶ丘小男児四名遭難事故10
「イエティがいるね」
「いいや。ビッグフットかもしれないぜ」
俺たち二人はその後ろ姿を感心とも呆れとも付かない表情で見上げていた。
「お前ら、ふざけてる場合じゃねえって。アレ止めないと」
「陸。見てみ。この跡」
陸が慌てながら言ってくる。それに答えたのは隣にいるレン。レンは足元の、ボコボコ穴が開いている雪を指差した。
そこかしこに、大きな穴が開いていた。雪の日、仲間内で押し合い、積もった雪にふざけて体大の大穴を開ける遊び、あれ、思い出す。
「もしかしてこれ何度もやってる?」
「たぶん」
「やっぱあいつすげえな……」
「ああ……」
「すげーなあ……」
「三馬鹿。いや、四馬鹿か」
ぼうっと目の前の岩山を見上げる俺たち三人に向かって、愛は心底から呆れた表情を浮かべた。俺は思わず言う。
「つったってな。これ、登ろうと普通思うかね」
俺たちは最後の一人――松司を連れ戻し、下山しようとここまで来ていた。
愛が陸を無事助け出し、俺がレンを無事助け出しての今である。今しがた三人が別れた地点で合流を果たしたのだ。そうして松司が辿ったであろう道を俺たちは辿ってきたってわけだ。俺たちがそこで見たものは――、
山の頂上へ到る為の、どこからどう見ても巨大な壁にしか見えない岩肌に、張り付いて登っている一人の人間の姿であった。
……いいや。或いは人間じゃないのかもしれない。白いジャンパーを着、ボルダリングさながらに岩肌に張り付いている後ろ姿はパッと見、イエティだった。
「うわ。マジか、あいつ登りきったぜ!」
「本当に猿みたいだな」
「なんか叫んでるしな」
「雄叫び」
愛がぽつりと呟き、へくちっ、とくしゃみした。
雪山に木霊すその雄叫びを聞きながら、ひょっとしたら雪が音を吸収するという俺の認識はどうやら間違っていたんじゃないかと思った。
「どういうことになるんだろうな」
「何がだい」
俺たちはゆっくりと歩いている。足元を確かめながら、元来た道を戻っている。今度は逸れず、愛の判断を時折聞きながら。
目の前には、元気に、跳ねるように進む松司、陸の後ろ姿があった。レンはどこか距離を置きながら歩いている。俺には見慣れた、けれど懐かしい、いつもの光景。
その後ろ姿を眺めながら俺は愛に言った。
愛はチラと見返してきた。
「松司さ。あそこまで出来る奴が遭難なんてするかなって。一人下山して誰か大人を呼んでくるなり出来そうじゃないか。あの壁ポンポン登ってすぐまたポンポン下りてったんだぜ?」
「何せ山のことだからね。一概には言えないだろう。けれど……そうだね」
考えるようにして愛は言葉を紡ぐ。
視線の先には松司の背中がある。
登ったはいいがどうするつもりだろうというような高さだった。六メートル以上は確実にあった。ひとしきり叫び終わって満足したのか、松司は俺たちの心配も他所に一人でぽんぽん下りて来た。驚嘆する俺たちに向かってあいつは得意げに言ってきた。
「よ! うわ、良夫いんじゃん。帰ったんじゃなかったのかよ。馬鹿でえ。って。なして崎坂愛? もしかしてお前ら付き合ってんのか? お似合いだな」
と、小馬鹿にしたようないつもの松司を見、俺は腹が立つどころか安心してしまった。
「ふん」
愛は嫌そうに鼻を鳴らし、それでも松司にレンや陸に差し出したのと同じようにチョコレートと温かいお茶をやった。松司はどうしていいんだか分からんような顔して受け取ると、それでも寒さには勝てなかったのだろう。震えるようにしてお茶を飲んだ。
ひとしきり全員が落ち着いたのを見て取ってから愛は言った。
「帰るよ」
と。
「恐らく」
愛が顎に手を当てた。
「前提条件が違ったんじゃないかな」
「前提条件?」
「
「……確かに」
当時の状況を思い出す。
アレを起こした犯人――松司はそうとは見なされていなかったはずだ。あんな遊びをしたみんなが一様に悪くて、もっと言えば、あの遊具が何より悪い。そんな感じで(世間の風潮もあり)遊具はすぐに撤去された。俗に言う犯人探し、みたいなことにはならなかった。それに、絵里がそれを拒んだ。
けれど、あの場にいた全員にその気持ちはあったはずだ。松司が一番悪いという。
以降、松司はどこか腫れ物みたいな扱いを受けた。
俺、陸、レンもそうだった。松司への対応の仕方が分からなくなった。今以上にとげとげしくなってしまったし。
松司は高校に進まない道を選んだ。途中でエスカレーターから外れてしまった。
「陸とレンは?」
「レンくんは言った通り。良夫君がいなくなったことでより危うい状況に陥った。陸くんは本来……君の経験した遭難事故の通りだとすると、彼もまた違う道筋を辿っていたんじゃないのかな。陸くんの場合、今回の方がより危なかったかもね。わたしがもう少し声を掛けるのが遅れていたら、ひょっとすると」
そこで愛は言葉を区切った。
「?」
首を傾げる。そっちで何があったのかは聞いてない。
そっちもそっちで崖でもあったか。
「と、すると。俺のいなかったことで玉突きが起こったんだな。まず陸とレンが入れ替わり、レンは俺が下に向かったせいで帰りたくても帰りにくくなっていたのが、俺がいなくなったことでそちらに行くことが出来るようになり」
「なんだ? レンくんは帰りたかったのか?」
「ああ。カードキャ」
「おい」
「うお」
レンが俺と愛の合間に顔を出してきた。いつの間に後ろに。
「良。言うなよ。絶対だからな」
「あ、ああ……」
そっか。そうだよな。恥ずかしいよな。分かるぜ。その気持ち。
ぽんぽんと背中を叩いてやった。
レンは悔しそうに、
「ちくしょう。良の癖に」
と、言ってきた。
ふはは! しかし、お前はすぐに俺に感謝をすることになるだろう。あの漫画を読んでしまえばな!
「カドキャ?」
「何でもない」
愛が問い返してきたので適当に躱してやった。手をひらひらと振る。愛は憮然としながらも、それで興味を失ったのか歩くペースを早めた。
俺とレンは遅れて続く。
「良。さっきから愛ちゃんと何話してるんだ? 元々これがあること知ってるような感じに聞こえたけど」
「うっ」
ぎくりとした。隣を見る。疑いの眼差し。
こいつなー。鋭いんだよ。
どうしたもんかな。別に隠すようなことでもないんだが、あんまり言い触らすのもそれはそれで面倒そうだし。
「良夫くんがトランクスになったんだってさ!」
「え」
「マジ?」
突然の愛の大声に前を行く二人が振り向いた。俺はびっくりする。愛を見ると悪戯めいた笑みを浮かべてこちらを見返してきた。
『嘘は言ってないだろう?』
と、言って来ているようだった。本当っちゃ本当だが。なれそうにもないんじゃなかったのかよ。
「良夫の癖にはえーよ!」
「そうか? もうそろそろじゃないか? ていうかブリーフって痒くって苦手なんだよ、俺。昔っから」
「分かるわー。あのゴムのへんなー。あー俺もブリーフやめようかなあ」
「陸。柄何する?」
「ドラゴン! 松司は?」
「俺もドラゴン! レンは?」
「さ……無地で」
「俺も無地だな」
「かーっ、つまんねー奴らだなあ。なあ陸。二人でトランクス買いに行こうぜ」
「しまむらにする? それともジャスコまで行く?」
レン。流石にカードキャプターさくら柄のトランクスは少し勇気がいると思うぞ。そもそもそんなもんあるのかって話だが。
「良。俺は未来ではどうなってんだ?」
「免許取り立てで車で事故って利き腕失う」
「ふうん。気をつけるわ」
「おう――。って、はっ!?」
隣を見る。息を吐き、どこか呆れた顔してこっちを見るレンがいた。つまり、いつものレンだ。
「お前なあ。あんなんで俺が誤魔化せるとでも思ってんのかよ? むしろヒントだったぞ?」
「ま、まあな?」
少し勘付いていたようだし、それで『トランクス』ってワードが出ればな。例え漫画を読んでいなくっても、流石にドラゴンボールは馴染み深い。アニメずっとやってるし。
愛に視線をやれば、気まずそうに視線を逸らした。不用意な発言をしてしまったと思っているのだろう。
「はあ~」
と。これみよがしに息を吐いた後、先を行っていた愛がゆっくり近付いてくる。そうしてレンの隣までやって来て、
「レンくん」
と、言った。
「あ。えと。うん」
それまで流暢に喋っていたレンが口をもごもごとさせた。そして落ち着きなく両の手を擦り合わせたり、ズボンで擦ったりしている。視線はまるで合っていない。
……珍し。俺たちの中で誰より女子は得意そうなのに。
「あんまり言い触らさないでくれるかい。お願いだから」
「わ。わかった。うん」
レンはこくこく高速で頷いたかと思うと、再び俺に視線を向けた。
「あ、そだ。それで、良。お前何年から来たの」
「えらい落ち着いてるなあ、お前は。相変わらず」
もっとびっくりしろよ。
未来だぜ。未来。
「まだちゃんと信じたわけじゃないからな。それで? 何年から来たんだ?」
「二〇二一」
「ほー」
「へえ」
レンと愛が同時に驚きの声を上げた。そういえばこれは愛にも言ってなかったか。
「おっさんじゃん」
「未来じゃお前もおっさんになっているんだよ」
「俺は何してんだ?」
「疎遠になってるからな。知らん」
「はあ。なんだよ。がっかりだな。色々」
「わたしは?」
「自殺した」
愛が何気なく放った言葉に、俺は何気なく返してしまっていた。
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