第39話 今日の色
飼い犬二匹の視線の先はここより階段から降りた広場にあった。
広場の端に動く影あり。
影の形は紛れもなく人間であり、陽仁は生存者だと立ち上がる。
だが、人間の正体に陽仁は表情を強ばらせた。
檀野と冬木の二人だからだ。
「あいつら、生きていたのか」
喜びも悔しさも滲ませることなく漏れ出た平坦な本音。
二人は陽仁が見下ろしているのに気づかず、何かを煩わしそうに払おうとしている。
物陰となった平屋建造物の屋根より黄色い角が見え隠れする。
その角の正体を陽仁は看破した。
「き、キリン、それにあの大きさ」
紛れもなく子供のキリンだ。
子供のキリンは冬木の後頭部でまとめた髪をもさもさとと噛んでいる。
長い髪を草葉と勘違いしているのか、髪を引きちぎられた冬木は怒りのあまりキリンの脚を蹴り上げていた。
サッカー部のエースストライカーの脚力程度で、キリンには糠に釘。気にする素振りも見せずはみ続けていた。
広場の反対側より長い影が駆けだしたのを陽仁は見逃さない。
本能で出た声だった。
「冬木、逃げろ!」
陽仁の叫び声に広場の二人が気づこうと遅かった。
別なるキリンが一直線に冬木の元に駆け寄っては、その細長い脚で蹴り上げた。
何かの砕ける音が離れて立つ陽仁の位置まで伝わってくる。
真っ正面からキリンの蹴りを受けた冬木の首はありえない方向に曲がり、後頭部を強かに打ち付ける。
そして動かなくなった。
「くっ!」
陽仁がこぼすのは悔恨。
確かに学校に良い思い出などない。
冬木とは体育でサッカーをする際、何度もラフプレイまがいの蹴りを受けた。蹴ったボールを顔面に直撃させられ、クラスの笑いの種とされたのは一度や二度ではない。いけ好かない感情を抱いていたのは確かだが、死んでもいい奴とは思ってもいなかった。
「キリンの蹴りはライオンすら殺すのに」
ボールを蹴り、陽仁を蹴っていた男の最期はキリンに蹴られて死ぬなど皮肉すぎた。
キリンはライオンの狩猟対象になろうと、一匹狩るのに一〇頭の群でなければ、成功せぬほど難易度が高く、仮に成功しようと死傷は避けられない。
キリンは親子なのか、足下で腰を抜かす雷蔵に見向きもせず、広場から歩き去っていく。
「ルズ、タン、急ごう」
ここで腰抜かす雷蔵と目があった。
相手は生きていることに驚いているようだが、陽仁も同じ。
もし友誼を深めたままなら、互いの生存と再会を抱き合って喜んでいただろう。
だが縁は切れた。自ら切った。
今陽仁の中に喜びも悲しみも悔しさの感情はない。
檀野雷蔵は大勢の中の
好きに生きて好きに死ねばいいという感覚しかない。抱かない。
「お前、生きていたのかよ!」
立ち去る陽仁の胸元を掴むような雷蔵の怒声。
大声を上げようならば動物たちが餌として喰らいに来るのに、状況が見えないバカな男だと陽仁はため息しか出ない。
応じるだけ無駄な時間。
無視されたと判断した雷蔵が階段を駆け上がり迫る。
陽仁は冷静な顔でスリングショットに催涙液入りカプセルをつがえてはゴムを引き絞り、階段に解き放った。
それも立て続けに三発。
カプセルは雷蔵の進路上に中身をぶちまけ、舞い上がる刺激臭に雷蔵がうめき声を上げる。
まさか動物用に製作した催涙液を人間に使用するとは思ってもいなかった。
「悪いけど君の相手なんかする暇はないんだ」
催涙液により激しくむせる雷蔵を見ることなく陽仁は走り去る。
左右につくルズとタンが不安そうな顔をしているが、大丈夫だと言い聞かせる。
損得と現状を考えろ。
今一番救わなければならない相手は誰か。
「虹花、もう少しの辛抱だからね」
警戒を怠ることなく陽仁は、医務室ある建造物の扉をくぐり抜けた。
「これでよしっと」
椎名は手慣れた手つきで注射を終える。
血清は打てば即効果を発するものではない。
毒が身体に回るように、血清もまた身体を回る。
今はまだ苦しいが直に血清が効き出し身体の負担を和らげてくれるだろう。
もちろん、経過によっては追加の血清を打たねばならないが、予備はしっかりと確保してくれている。
「一時はどうなるかと思ったけど」
注射器を使用済みと書かれたトレイに入れる。
一人で血清を確保に向かう。
端から見れば自殺行為だが、彼は見事にやり遂げた。
今、彼、十田陽仁は疲労と緊張が押し寄せたのか、別のベッドで死んだように眠っている。
その傍らには二匹の犬が付きっきりで寄り添い、ベッドの縁に揃って顎を乗せていた。
時折、パタパタと動く尻尾はこの状況下、数少ない清涼剤となる。
「飼い主のピンチに駆けつけるとか、忠犬の鑑よね」
「よしよし、よくがんばったって、あら?」
ミルがルズの頭を撫でようと手を伸ばすも、咄嗟に頭を動かされ、その手は宙を切った。
じっと一対の眼でミルを見つめたのも束の間、再びベッドの縁に顎を戻す。
再度、チャレンジと頭を撫でようとしたミルに虹花が止める。
「あ、あのルズとタンは、ハルくんの家族以外に触れられるのを嫌うので、あまり触ろうとしない方がいいですよ」
「だってよ由美」
「うっ~」
由美は残念そうに口を尖らせている。
どうやら触りたくてウズウズしていたようだ。
ルズとタンは眼球を動かすだけで振り返りはしない。
ただベッドで眠る陽仁を見守っているようだ。
「この二匹、元々は保護犬で、大きくなったのを理由に保健所に捨てられたんです」
「うわっ典型的なクズね」
リサは不快さを顔に隠すことなく吐き捨てる。
「虐待もされていたみたいで、拾った当初はハルくんにすら懐きませんでした」
根気よく接し続けた結果、今ではルズとタンの二匹は自分が一番だと思う忠犬となっていた。
「がんばったんだね」
由美は二匹の後ろで屈んではにっこりと笑う。
二匹は顔を見合わせては振り返り、そっと頭部を由美に出していた。
「なでていいの?」
二匹は一度も吠えない。由美は母親に目配せしては、優しく触るのよとの言葉に、そっと二匹に触れる。
「もふもふだ。ほら、こーくんも」
姉に促されるまま、弟の紘一もゆっくりと触れる。
さわり心地が良いのか笑みをこぼしていた。
「ええ、どうにか危機は脱しました」
立花は固定電話で相も変わらず救急センターと連絡を取り合っている。
時折、手帳に何かを書き込んでは、人の名前を口にしたりしていた。
「可能ならば移動式通信中継車の手配をお願いします。こちらが連絡できたのはいくつかの幸運が重なった結果です。もし通信可能となればパーク内の状況、シェルター内の様子が判明すると思います。それで外の状況は……そうですか、変わらずの膠着状態で救援も……」
立花からはため息しか出てこない。
一旦通話を終えては困った顔で外の状況を語り出す。
ゲート前の状況に変化はなく、警官隊が排除に移ろうと苛烈に抵抗を続けていること。
自衛隊による救助活動の声があがろうと、動物脱走など前例がないと都知事は二の足を踏んでいること。
脱走した動物に対して猟友会を招聘しようと一部の都議や市議からは動物虐待や銃刀法違反を理由に反対意見が出ていること。
救援が来る可能性はゼロに近かった。
「なによ、それ! 私たちを見殺しにするってこと!」
リサの怒りはもっともだ。
人命の危機に晒されている中、安全圏の人間は己の意見を通すために、本来迅速に行われるべき救命活動を妨害している。
彼らが恐れているのは自らの指示にて生じる責任。
謝ったら死ぬ病が蔓延する政治の世界。
一つのミスが政治家生命を潰すのに繋がりかねない。
だから誰も動かないし、動けない。
反対意見が通りやすい泥沼を形成していた。
「こうなったら、一旦切ります!」
業を煮やすように立花は一方的に緊急センターとの通話を切った。
すぐさま受話器を手に素早く番号を入力した。
「たぶん、パーク前に来ているはずなんだよな」
コール音が幾度となく響く。
連動するように立花の指先がデスクを叩く。
「立花さん、あなた、何をする気なの?」
椎名が不安げに聞いてくる。
応えるように立花はにっこり笑って返した。
「何って椅子に尻を張り付けた奴らを動かすだけですよ。陽仁くんは身体一つで死地の中、見事に血清を持って帰ってきた。先に立つ者として動かなきゃ大人じゃない」
コール音が止まり、受話器から緊急センターとは違う別の女性の声が漏れ聞こえる。
立花はイタズラ小僧のようにほくそ笑み、澄ました顔で言った。
「今日のパンツ何色?」
リサとミルは問答無用で立花の後頭部をひっぱたく。
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