第38話 甘い匂い

「うう~っ!」

 時間と共に薄暗くなってく中、飼い犬たちは陽仁に応えてくれた。

 ルズはしきりに耳を動かしては怪しげな空気を感じ取るなり、すぐさまその方向に唸るなど抜かりはない。

 タンは足腰を震えさせながらも懸命に匂いを嗅いでは危機を伝えてくれる。

 お陰で迂回があろうと、他の動物たちと遭遇することなく目的地までたどり着けた。

「ここか」

 動物園エリア、C区画、医務室。

 建物内は当然もぬけの殻、人間の足跡はあろうと人間は肉片一つ見つからない。

 嘘のような静寂に包まれた廊下を進み、複数の足跡が反響する。

「二匹とも左右を見ていて」

 陽仁は医務室と表記されたドアの前に立つ。

 二匹の犬は陽仁の指示に従うどころか互いにドアに向けて唸っている。

 何かいると気づかぬ陽仁ではない。

 まずは室内に生存者がいるのを見越してドアを数回ノックする。

 いきなり刃物で迎撃されるなんてのは二度とごめん被る。

「開けます、よ」

 ゆっくりとドアノブが小さな音を鳴らしながら扉は開かれる。

 飼い犬たちのうなり声は高まり、今にも飛びかからんとする勢いだ。

 いきなり入り込むマネはしない。

 ポケットから取り出した刃物を手鏡代わりに室内の様子を伺った。

 冷たい金属の表面に赤が映り込む。

「これは、酷いな」

 人気はなかった。ただあったのは血だ。

 床から天井にかけて血が飛び散り、白き空間を染め上げている。

「ヤバイ、かも」

 加えてデスク周りや戸棚は引き倒され、中身を床に散乱させている。

 靴や衣服などあるからして誰かがいたのは確か。

 だが、あるのは飛散した血のみ。

「襲ったのはクマか?」

 床に残った複数の爪痕や足跡から類推する。

 陽仁が目撃したヒグマと異なり小さな痕のことから世界最小のクマ、マレーグマかもしれない。

 小型といってもヒグマと比較して小さいだけ。

 視力が劣る分、嗅覚が発達し、鎌型に鋭く曲がった鉤爪は木登りに適している。

 当然、小さくてもクマはクマ。

 十分な殺傷能力を持ち、人間が襲われたなど被害は多い。

 遺体や喰い残しがないのは、恐らくだがエサ場に持ち帰ったのだろう。

 証明となる証拠として引きずった痕が地下通路へと赤く続いていた。

「ルズとタンの反応からして近くにはいないようだな」

 犠牲となった人たちには悪いが陽仁には今救わねばならぬ人がいる。

 陽仁が一番最初に調べたのは冷蔵庫だった。

 血清は常温で保存できるものではない。

 種類によっては常温に晒されることで効果をなくす。

 電源が喪失した状況下だろうと、冷蔵庫は開けなければ中の温度は維持される。

 ゆっくりと冷蔵庫を開ければ、中は奇跡的に荒らされていなかった。

「ついてるぞ!」

 ラベリングされ、区分けされた小箱に陽仁は破顔する。

 素人でも迅速な緊急治療を心がけたからか、どの毒生物に対する血清か、その毒生物の写真が添付してある。

 そして数ある血清の中より、セアカゴケグモの写真は貼られたアンプルを見つけだした。

「おっとこれがないと打てないよな」

 割らさぬようそっとつかみ取るは注射器。

 消毒用アルコールは避難先の医務室にも常備してある。

 だが血清やその血清を打つ注射器や針はここにしかにない。

 予備も含めてしっかりと持ち運び用ボックスに収納する。

 冷蔵庫からアイスパックを忘れることなくボックスに入れては蓋をしロックした。

「うう~っ!」

 ロックと同時、ルズとタンが同時に唸った。

 危機が迫っていると陽仁は息を殺してゆっくりと立ち上がった。

 ゆっくりと閉じていたドアを開け、刃物を手鏡代わりにして外を伺う。

 刃物には記憶にある景色しか映らずとも陽仁は油断しない。

 動物は逃げ隠れが本質だ。死角に隠れていると読みながらもゆっくりと外に出た。

 建物の外に出ようとルズとタンの警戒は鎮まらず、揃って同じ方向に顔を向けている。

 薄暗い通路の先に何かがいる。

 だが暢気に相手などしている暇などない。

 スマートフォンを見れば、陽仁が医務室を出て三時間は経過している。

 毒性が低かろうとセアカゴケグモは毒蜘蛛の一種。

 いつ容態が急変するか分からない。

「立花さん、血清を手に入れました。今から戻ります」

 手身近に伝えれば相手の応答待たずして通信を終える。

 虹花の容態は気にかかるが、焦るなと言い聞かせながら。


 行きはよいよい、帰りは怖い。

 よくある話だ。

 もしルズとタンが加勢に来てくれなければ、サルたちの餌食となっていた可能性があった。

「あいつら、何してんだ?」

 横転した移動式店舗に身を潜めながら陽仁は双眼鏡を構える。

 遠方、五〇〇メートルほど離れた箇所にいるのはチンパンジーの群。

 見通しのよい箇所に陣取っているため、下手に迂回できない。

 一部が白く染まった個体が混じっていることから、フードコートで椎名親子を襲っていた群で間違いない。

 おかしなことにチンパンジーたちは血肉をむさぼる様子はなく、それどころか壊れた自販機前に集まっては中よりドリンクを器用に取り出している。

 後は人間が封を開けるように、ボトルキャップやプルタブを器用に開けては中身に口をつける。

「匂いも嗅がずに飲み干した、だと!」

 いきなり口をつけるなど自然界では自殺行為。

 毒が含まれているならば、嗅ぐなり舐めるなり確認するはずが、その行動を一切とっていない。

 陽仁は注意深くチンパンジーの動向を伺う。

 観察することで打開策が見いだせると思ったからだ。

 赤いボトルは開けるなり鳴った音に驚き、投げ捨てた。

 青いボトルは塩辛そうな顔をして投げ捨てた。

 黒と緑が並んだボトルを口にするなり、興奮すれば嬉々として飲み干している。

 他のチンパンジーたちは続けと言わんばかり鳴き声上げながら黒と緑のボトルを取り合っていた。

「あれってエナジードリンクの、ならあの匂いは」

 この瞬間、脳内で何かが繋がった。

 虎や狼から感じた甘い匂い。

 虎と邂逅する直前、虎の鳴き声と水音がした。

 もし、もしもだ。水音が小便の類ではなくエナジードリンクだとしたら、虎からした匂いに説明がつく。

 加えて、チンパンジーたちが異常に興奮しているのもまた。

「カフェイン摂取でハイイロオオカミたちは死んだ。逆にチンパンジーたちはカフェイン摂取で異常興奮した、それなら」

 陽仁の顔に怖気が走る。

 説明が付く、付いてしまう。

 犬類にカフェインやチョコレートは劇物だ。

 チンパンジーがどこでエナジードリンクの味を覚えたのか不明。

 大方、人間が飲むのを見て学習したのだろう。

 実際、人間を真似てタバコを吸うオラウータンがいた。

「動物たちが異常に興奮しているのも、エナジードリンクが原因なのか?」

 もちろん全ての動物とは限らない。

 陽仁が出くわしたゴリラの群からは甘い匂いはしなかった。

 恐らくだが、なまじ知性が高いからこそ危険を感じて口にしなかった可能性が高い。

「動いた?」

 陽仁の推察を余所にチンパンジーの群は騒ぎ立てなら建物から建物へと飛び交うように移動を開始していた。

 獲物を見つけたのか、脅威が近づいたからか、遠くからでは分からない。

 それでも好機として動かぬはずがない。

 後少し、後少しで虹花を救えると自然と足早となった時、ルズとタンが揃って左右からズボンのスソに噛みつき、その足を止める。

「どうした?」

 叱りつけることなく陽仁は咄嗟に物陰へと引っ込んだ。

 二匹は警戒するように唸り声を上げていた。

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