第34話 人喰い魚

 本望なら遊園地エリアから動物園エリアのルートが最短であった。

 だが瓦礫とエレカによりルートは塞がれ、なおかつニホンザルとの接触を避けたことでルート変更を余儀なくされた。

 逸る気持ちを抑えながら薄暗い店内を陽仁は警戒して進む。

「足跡、まだ新しいな」

 陽仁が入ってきた方向に向けて赤き靴痕があった。

 数は四対、どこか見覚えのある靴痕に神経に苛立ちがこみ上げてきた。

 理由は分からない。直感的なものだった。

「うっ!」

 進む度、血の匂いがむせるほど一層濃くなった時、その正体に呻く。

 大柄の男が壁際に倒れ込み、全身から血を垂れ流したまま事切れていた。

 顔から胸にかけて深々と鉤傷が刻まれ、腹から背骨を曝け出している。

 ただし、中にあるべき臓物はない。

「……阿須康平」

 辛うじて無事だった半分の顔から身元は判明した。

 未来の金メダリストと噂される男。

 一人暮らしの高齢者の訪問を一日も欠かさず、慕われている男。

 厳つい顔のせいで子供から泣かれるが、根は優しく力持ちの男。

 そして体育の時間、武道となれば、陽仁が頼んでないのに問答無用で投げ技、寝技をかけては楽しんでいた男だった。

 明確な体格差と力量差がある中、制止も聞かず技をかけるのを楽しんでいた。

 かけられる陽仁からすれば授業の名を借りた拷問だった。

 当然、教師が止めるはずがない。授業だから止める必要もない。

「流石のこいつでもクマ相手にはムリがあったか」

 鉤痕や腹の損壊具合からしてクマにやられたのは明白。

 ならば急いでこの場を離れなければならない。

 遺体がそのままなのは、クマがこの地を餌場として定めたからだ。

 下手すれば陽仁が餌場入りを果たす。

「SNSでカラテでクマ倒すとか盛り上がってるけど、現実はこれだな」

 どんな有段者でも生身で動物に勝てはしない。

 後ろ足で立てば二メートルを超え、腕の一振りは簡単に肉を削ぐ。

 クマに会えば死んだフリしてやりすごせというが、クマは死肉すら喰らう。

 死んだフリしたら最後、死肉と思ってかじられるオチしかない。

「こいつがいるってことはライが生きている可能性は高いか」

 安堵と不安、二つの相反する感情が入り交じる。

 特に阿須は、中学時代、負傷により選手生命の危機に立たされた時、雷蔵から紹介された医者のお陰で復帰することができた。

 並の医者なら匙を投げる負傷を見事に治療した医者を紹介した雷蔵には多大な恩義を感じている。

 その恩義のため、雷蔵を喜ばすのために陽仁を痛めつけた。

 性格と状況を鑑みれば雷蔵たちを逃がすために自ら壁となったのだろう。

「ここを抜ければ水族館エリア経由で動物園エリアに行けるはずだ」

 エリア境界だからこそ、隣り合っている。

 思考を切り替えては先を急ぐ。

 店内は薄暗いのと血の匂いが充満しているのを除けば変化はない。

 ただ壁には鋭く深い鉤痕があり、遭遇を示唆してくる。

 不安と心臓の高鳴りの中、陽仁は店舗をどうにか通過し水族館エリアに足を踏み入れた。


 水族館エリア、スタッフ用通路にて三人の男女が座り込んでいた。

 サブシステムにて循環機器は作動しており、水の匂いが辺り一面を覆っている。

 そのすぐ下には水槽があり、パークの惨状を知ることなく魚たちが悠々と泳いでいた。

 男女の正体は雷蔵たち三人だ。

 クマの予期せぬ襲撃を阿須が自ら壁となった。

 その際、クマの振り下ろしにより野田が負傷。

 かばうように阿須が立ち塞がり、すぐ合流すると言っていたが、その気配はない。

「野田、動くなよ。幸いにも傷は浅い」

 冬木はシャツを引き裂いては野田の左腕に巻き付ける。

 ただ単に引き裂いたシャツを巻き付けた応急処置だが、せぬよりマシだ。

「ううっ、なんでこんなことになったのよ」

「この近くに医務室があるはずだ。今は痛いが我慢してくれ」

 涙でメイクが少し崩れている野田を雷蔵は言い聞かせながらなだめる。

 一方で内に秘めた苛立ちを隠しきれず、口端に漏れ出していた。

(くっそ、一番役に立つ阿須がやられるなんて計算外だろう)

 体格も膂力もある阿須が頼んでもないのにクマの盾となった。

 あれから時間はかなり経過している。

 合流しないとなると喰われたと考えていい。

(お荷物な野田をクマの餌にすればもう少し生きられたってのに)

 顔だけよくおつむの弱い女。

 顔なんて年齢を重ねれば老けるもの、劣るもの。

 読者モデル故に持ち上げられた今を謳歌しているのは構わないが、将来を見ない痴れ者でしかない。

「二人とも動けるか? もう少し頑張ってくれ」

 平静を装いながら雷蔵は二人に言い聞かせる。

 その時、野田は雷蔵をきつく睨みつけてはヒステリックに叫んできた。

「あんた、何とも思わないの! 友達が帰ってこないのに、なんでそんな平然と平気な顔してられんのよ! 頭おかしいんじゃないの!」

「おい、落ち着けよ、野田。檀野だって分かってんだよ。ただ顔に出してないだけなんだぞ!」

 負傷しようと飛びかかる勢いで雷蔵に迫る野田と、間に入って制止する冬木。

 雷蔵はただ沈黙を保ち、拳を強く握りしめるだけだ。

「言いたいなら好きなだけ言えよ。それだけ言える体力があるなら、藤原の分も生きてやれよ」

 表情を強ばらせながら雷蔵は言う。

 端と見れば戻ってこぬ友に表情を強ばらせているようだが、実際はヒステリックな野田に内心では怒りを震えさせていた。

(平気な訳ないだろう。折角の強力な駒が失われたんだぞ。頭おかしいのはお前だろうが!)

「生きてやれとか、ふざけんじゃないわよ!」

 野田は友の侮蔑に怒声張り上げ、負傷しようと構わず雷蔵に蹴りを入れてきた。

 日頃から鍛えてる身として、女の蹴りなどそよ風程度。

 避ける必要もなく、ただ黙って受ける。

 狭い足場で避ければ眼下の水槽に落ちるリスクがあるからだ。

「あっ!」

 一方で野田は怒りのあまりリスクが見えていなかった。

 狭い足場であること、雷蔵が蹴りを受けたことで野田は蹴りの反動でバランスを崩してしまう。

 そのまま手すりを乗り越える形で眼下の水槽に落下していた。

「の、野田!」

 雷蔵と冬木はすぐさま水槽に落下した野田を助けようとした。

 幸いにも水面からすぐさま野田が半身を起こす。

 どうやら人間が立てるほどの水深のようだ。

 引き上げようと男二人が手を伸ばしかけた時、水面が慌ただしく波打ちだした。

「痛い、痛い痛い!」

 悲痛な野田の悲鳴が響き、何かを払いのけるように右手を水中に叩きこんでいる。

 一匹の魚が跳ねる。手のひらに乗るほど小さな魚だ。魚が跳ねる度、水面は真っ赤に染まり、野田の身体は沈んでいく。

「ひっ! こ、こいつまさかピラニアか!」

 冬木は水面跳ねる小魚に怖気り腰を抜かす。

 B級ホラー映画でサメと並んで人喰い魚とされるピラニア。

 実際は誇張であり、本来のピラニアは一匹一匹がか弱く、極端に臆病な気質である故、群れているだけで、自分より大きく動くものには逃げ出す傾向がある。

 ただし例外がある。

 群であること、水面を強く叩く音、血の匂いを嗅いだこと。

 これらの条件が揃えば瞬く間に獰猛な捕食生物としての本能が開花し獲物を群で食い尽くす。

「た、たすけ、た」

 ピラニアの群れはすれ違いざま、野田の身体から肉を抉り獲って行く。

 野田の顔が水面に沈む。沈み、二度と声を発することも浮かび上がることもなかった。

 ただバシャバシャと無数のピラニアが水面を跳ねる水音が残響として鼓膜に張り付いていた。

「あ、あははは、嘘、だろう」

 冬木は乾いた笑い声を出すしかない。

 目の前で友達が無惨に喰われた。水面から声はなく姿すらない。

 いや骨すらもなかった。

 何一つ遺さず綺麗さっぱりピラニアに食い尽くされた。

「くそがっ!」

 雷蔵は苛立つあまり近場の壁を蹴り上げた。

「檀野、お前のせいじゃないって! あれは事故! 事故なんだぞ!」

「分かっている! 分かっているが!」

 今にも泣きそうな顔で雷蔵は己の前髪を掴み、顔を覆い隠す。

 頭では分かっている。

 こんな狭い場所で下手に動けば水槽に落ちるリスクをあの女は読んでいなかった。

 今しか見ず、先を見ないからリスクを把握できない恥ずべき女。

 だが、最良な終わり方だったではないかと、覆い隠した手の内でほくそ笑んでいる。

 読者モデルの身として最期は人間ではなく魚にすら注目されたのだ。

 これほど喜ばしい死に方はないだろう。

「冬木、行こう。何が何でも生き残るぞ!」

「あ、ああ、ここで死んだらあいつらが浮かばれない!」

 冬木は駒だ。檀野雷蔵が生き残るための最後の駒だ。

 いつ切るか、見えぬ先を考えながら雷蔵は狭い通路を男二人で進む。

 生き残れると、互いに違うベクトルを抱きながら。

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