第33話 血の匂い
セアカゴケグモに咬まれてから死亡まで六時間から三〇日と幅がある。
あくまで六時間は目安。
生後三か月の乳児が六時間後に死亡したという唯一の前例が元となっていた。
陽仁は惨状にただ顔を顰めるしかない。
「こいつは、酷い……」
大通りの中腹には横転したエレカがあった。
周囲には倒壊した建造物の瓦礫に混ざって血溜まりや肉片が散乱し、象やライオンの赤き足跡が路面に刻まれている。
動物の姿はない。カラス一匹姿が見えず、逆に警戒心を際だたせてしまう。
「ここ、僕がライに蹴り落とされた場所か」
どこか見覚えのある衣服の残骸や靴から記憶が巡る。
蹴り落とされることなく乗り込んでいれば、陽仁は同じ命運を辿っていたかもしれない。
足跡から推察するに、ライオンに追われる象がエレカに衝突したのだろう。巨体と衝突したエレカはひとたまりもなかったはずだ。
「ライは死んだのか?」
不安も安堵も何一つ湧かない、身を案じることすら思わない。
散乱する肉片から犠牲者は出たようだが、誰がなど判別などつきはしない。
今は血清だと陽仁は過去を振り切った。
「けど、なんで一匹も見かけないんだ?」
警戒に警戒を重ね、施設の壁際を移動する陽仁。
こうして壁際を移動するのは、襲撃の方向を狭める狙いがあった。
もし道の真ん中を歩けば、全方位警戒しなければならないが、壁際を移動すれば精神的負担を減らすことができた。
陽仁は目尻を険しくしては壁や木々に注視する。
登り潜めた動物もあるが、探しているのは刻む爪痕や糞尿だ。
動物は自身の縄張りを示すサインとして爪痕を刻み、糞尿を撒く。
ここは俺の縄張りだ。入ったらどうなるか分かっているだろうなという警告のサイン。
特にクマの爪痕は見つけ次第、警戒しろと両親から教え込まれていた。
「なんだ、この違和感?」
周囲を見渡そうと恐ろしく静まり返り、遠くから人々の喧噪が風に乗って聞こえてくる。
恐らく警察と例の団体の衝突だろう。
「動物は基本隠れ潜むもの。我が物顔で歩くなんて自ら狩ってくださいと言っているようなものだ」
目的地のルートを案内図広げて確認する。
ある程度のルートは事前に組んでいるが、地図を見るのと道を歩くのは違う。
実際、歩こうならば目安でしかないと痛感させられる。
特にこのパークは広い。通常パークと比較して三倍の敷地面積があった。
「こっちも酷いな」
大通りの一部が瓦礫により覆われ、通行の妨げとなっていた。
瓦礫の中よりエレカの車輪が覗き見える。
原因はともあれ、建造物と衝突により道を塞いだと見ていいだろう。
「ここがダメなら」
別なるルートを模索した時、違和感が走る。
目に付いたのは遠方の傾いたタワー。
動物脱走の合図のように傾いたタワーだ。
ピサの傾塔顔負けの角度を維持しているが、何かがないと違和感を走らせる。
違和感の正体を知らんと陽仁は案内図とタワーを何度も見比べた。
「ん、ちょっと待てよ」
何故、この位置からタワーが見える。
陽仁が今いる位置からではタワーはホテルに阻まれ上層の展望室しか見えないはずだ。
それが今、中腹部まではっきりと確認できる。
はっきりと確認できるのが異常だと記憶が警鐘を鳴らす。
「いや、そんな、まさか、それでも、それなら」
警鐘により至った解答が非現実だと否定する。
「うわっ!」
下から突き上げる大きな揺れが突如として起こり、陽仁は倒れかけた。
咄嗟に壁に手を突いてやりすごし、次なる揺れに備えて身を潜める。
次なる揺れは訪れず、立ち上がった時、なお傾いたタワーに絶句した。
タワー壁面に黒い何かが群れなして登っている。
遠目からでも分かる。あれはチンパンジーだ。
チンパンジーは展望室の窓ガラスを叩いている。
そして窓ガラスの割れる音が遠くの陽仁からでも届き、中より人の形をしたそれがいくつも滑るように落下していた。
「うっ!」
紛れもなく展望室にいた人間が割れた窓から滑落した。
チンパンジーにより割られ、外に引きずり出された。
実際に目撃した。
中にいる女子供を優先的に狙い、その手で窓の外に引きずり出す瞬間を。
二メートルすら高所扱いとなる以上、全高五〇〇メートルのタワーから落ちれば命などない。
何のために、いや今は。
「それより!」
切り替えろ、思考を切り替えろと陽仁はトランシーバーを操作する。
今誰を救うべきか、誰を一番に救うべきか、今からタワーに向かおうと救えぬなど分かっているはずだ。
「立花さん、そっちは無事ですか?」
極力声を抑えながら陽仁は通信を入れる。
やや間を置いてノイズ後に立花から応答が入った。
『ああ、なんとか大丈夫だ。ちょっと戸棚から物が落ちた程度で誰一人負傷していない。そっちは?』
「こっちも大丈夫です。ですけど」
陽仁は周囲に警戒しながら、先の状況を伝えた。
『タワーが更に傾いてチンパンジーが中の人たちを? ん、ちょっと待ってくれ』
ふと通信が一端途切れる。誰かと会話しているようだが通信感度が悪くよく聞き取れない。
『緊急センターとは状況が状況だから通話を繋ぎっぱなしにしているんだ。揺れた直後に震度はいくつか確認してもらったんだが、よく聞いて欲しい』
告げられる立花の声に陽仁は瞠目するしかなかった。
『この時間帯に地震はない。揺れなんて観測されなかった』
「ならさっきの揺れは一体……?」
『分からない、としか。ただタワーの傾きを考えるとただの地震じゃないのは確かだ。え? そうですか、はい。追加情報だよ、陽仁くん。時間的にタワーが傾く少し前だ。展望室に向かうエレベーターが揺れを感知して停止したトラブルがあったようだ』
「トラブル、ですか?」
『ああ、当時、そのエレベーターに乗っていた人から直に通報があってね。エレベーター自体は誤作動としてすぐに作動したみたいなんだ。揺れとの因果関係は不明だけど、無関係じゃないと私は思うね』
自動稼働を売りとしているならば大小トラブルは起こりうる問題。
だが、この状況下で無関係とは言い難い。
「通信切ります。何かいる」
右視界端に揺れ動く何かに直感した陽仁は咄嗟に通信を切る。
声を聞きつけ近づいてきた動物か、トランシーバーをツナギのポケットに突っ込めば、すぐさまスリングショットに持ち帰る。
ゆっくりと右に視界を向ける。もちろん反対側の警戒も疎かにしない。
いつでも撃ち出させるように催涙液入りカプセルをスリングショットにセットしすぐさま何かを網膜に映した。
揺れ動く正体は風で揺れ動くハイイロオオカミの毛並みだった。
一〇頭ほどいるハイイロオオカミは大通りの隅に揃って身体を横にしたまま不気味なまでに微動だにしていない。
「寝ているはずないな」
ハイイロオオカミの中には腹を向けて動かぬ個体もいる。
腹は動物にとって一番柔らかく守らなければならぬ部位だ。
それを無様に晒し出すのは己より強い個体に対する服従、あるいは既に事切れた時のみ。
警戒に警戒を重ねて近づく陽仁だが、ハイイロオオカミたちは今なお動きはない。
「し、死んでる」
どの個体も既に生命としての活動を終えていた。
だが、外傷はどの個体も見あたらず、剥製のように死の沈黙を保っている。
「この匂いは」
ふと一匹の顔を覗きこんだ時、甘ったるい匂いが鼻についた。
覚えがある。そうだと陽仁はフードコートの虎を思い出した。
「虎からも同じ匂いがしたけど、なんだこの匂いは」
覚えがあるも思い出せない。思い出せなくていい。原因究明は陽仁の役目ではない。加えてこの地点にハイイロオオカミの死体があるならば好都合だ。
寄せ餌として使える。使うためにはこの場を離れる必要があった。
「ほらおいでなすった」
遠くからキーキーとやかましい鳴き声が刻々と音量を上げている。
この鳴き声には聞き覚えがある。
ニホンザルだ。
三〇頭ほど入園していたはずだと思い出せばひっそりその場を離脱する。
陽仁が建物に隠れ潜んだ直後、ニホンザルの群が動かぬハイイロオオカミの群と接触する。
ニホンザルたちは動かぬハイイロオオカミを見るなり、目の色を変えては牙を立て貪りだした。
チンパンジー同様、このニホンザルも異常なまでに興奮しては子供だけの食卓などかわいいと思えるぐらい、食らいつく度、血肉を周囲にぶちまけている。
一〇頭いたハイイロオオカミは五分も経つことなく骨だけとなり、周辺には引き裂かれた毛皮や飛び散った血で汚れていた。
ニホンザルたちは食い足りないのか、小さな肉片一つすら仲間同士で奪い合っている。
だからすぐ近くに潜んでいる陽仁は気づかれることなく、この場を離れることができた。
それでも安堵など状況は与えない。
「血の匂いがする」
陽仁が入り込んだ建物は遊園地エリアと水族館エリアの境界。
マスコットショップ、いわゆるおみやげ売場の店舗だった。
電源喪失により換気停止した室内は、むせるような血の匂いが重く漂っていた。
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