第19話 一緒の胃すら入れない

 カバ。

 哺乳網偶蹄目カバ科カバ属偶蹄類。漢字表記は河馬。

 主にアフリカの東部と南部の水辺で生息する草食動物。

 おっとりとした大人しい雰囲気を持つが、そう思ってはいけない。

 何しろアフリカにおいて野生動物による人間の死亡原因はライオンを抜いてカバが一位なのだ。

(カバは見かけと正反対に気性が荒く、縄張り意識がかなり強い。草食だから大人しいと思いこんで近づいたら、多くの人がその口でばっくりと噛み殺された)

 カバの噛む力は一トンを超える。

 加えて口は一五〇度大きく開けられれば、五〇センチを超える大きな牙もあり、噛みつかれれば命などない。

 カバはかなり気が立っており、ヒグマを睨みつけては大口開けて威嚇している。

 理由はその後ろに隠れる子供のカバであった。

(カバの親子連れとか、かなりヤバすぎるだろう!)

 両親から子連れの動物には度々気をつけろと注意されている。

 親は子を守る。

 親だからこそ子に降りかかる脅威を振り払わんとするごく自然な自衛行動をとる。

 子を生みながら虐待する人間と決定的な違いだ。

(うっ!)

 カバが見かけの鈍重さを裏切る速度でクマより先に動く。

 三トンの巨体故に鈍重そうに見えるカバだが、ネコと同等の時速四〇キロで走る。

 クマが爪を振り下ろすより先に巨大なアゴで、がっしりと頭から噛みついていた。

 暴れもがくクマだがカバの噛みつき逃れられず、図太い牙が身に食い込ませるのを許す。

 足掻きに足掻くクマが爪を立てようと、カバの厚い皮膚には通らない。

 カバは頭部を激しく振るい、なお深く牙を食い込ませる。

(今のうちに!)

 クマがカバの口内より情けない悲鳴を上げる中、陽仁はゴミ箱から飛び出していた。

 カバはなおクマに噛みついたまま。

 背中から凍てつく視線を感じようと振り返らず走る。

「あれだ!」

 悲鳴と絶叫が響く中、足を止めることなく陽仁は走る。

 その先、避難用カートに乗り込む人々の姿がある。

 誰もが我先にと押し合いへし合いながらどうにか乗り込んでいた。

『発進します。発進します。振動にお気をつけください』

 走る電子音声に怖気が走る。

 周囲を見渡そうと発進していないカートはあの一台だけ。

 乗り損ねれば電車のように次発はない。

「間に合え!」

 陽仁は足に力を込めては速力を上げ、今まさに発進しようとする瞬間、手すりに飛びついた。

 全身を手すりに預け、どうにかしがみつく陽仁は嫌悪の視線を一斉に受ける。

 カートに乗り込んだ誰もが学校関係者ばかり。

 不安を織り交ぜながら侮蔑する色。

 特に親でも殺されたかのように睨みつけるのが約一名いる。

『重量オーバーです。繰り返します。重量オーバーです。安全性を鑑みてこのままでは発進できません』

 嫌悪と侮蔑の濃さはなお高まる。

 融通聞かせろと悪態つくが、原因は陽仁ではない。

 発進を妨げている原因は乗せたままとなった鉄パイプやパネルなどの資材だった。

「その荷物をどか、がっ!」

 陽仁は最後まで伝えることができなかった。

 最初は両手に衝撃が走った。激痛のあまり手すりから手を離してしまう。重量制限からエレカが解放されて走り出す寸前、顔面に衝撃が走り、陽仁は蹴り出される形で乗車拒否された。

「ら、ライ、君は!」

 一瞬の浮遊感の中、陽仁は叫ぶ。

 背面から胸を突き抜ける強い衝撃は意識を途絶させる。

 陽仁が最後に見たのは友だった男の笑う表情だった。


「しっかり、しっかりするんだ十田くん!」

 誰かが呼ぶ声がする。名を呼ぶ声が陽仁の意識を揺さぶり起こす。

「うっ、ううっ、た、たち、ばな、さん」

「蹴り飛ばすなんて酷いことを!」

 朦朧とする視界が知った顔を映す。

 ほんの少し前、インタビューを受けたジャーナリストのはずだ。

「大丈夫か、どこかケガはないか?」

「な、なんと、ううっ」

 鮮明となる意識と連動して全身を貫く激痛に陽仁は呻く。

 立花の発言からして意識を失ってから、そう経っていないようだ。

「動けるなら動くよ。ここは危ない!」

「あ、はい」

 頭を振るって意識を奮い立たせる。

 手は動く、足も動く。出血はない。

 ただ打ち付けた背中が痛むも自力歩行できぬレベルではない。

 悲鳴が各所から響き、血の匂いが風に乗って鼻を不快に刺激する。

「なんでこんなことに……」

「さあね、それはこっちが知りたいくらいだ」

 引き締めた顔で立花は首を横に振るう。

「確かなのは中央のタワーが傾いた。傾き、動物たちが脱走した」

 きっかけはどうであれ事は起こっている。

 問題はどうにかして安全な地まで向かうかだ。

「避難用のカートはさっきの最後だったが」

「ええ、自力でシェルターまで向かうしかないですけど」

 陽仁は苦い顔でカートの乗客たちを思い返す。

 誰も彼もが教師や同級生と学校関係者ばかり。

 その中に虹花がいないことが不安となり胸をかきむしる。

「虹花を探さないと」

 すぐさまスマートフォンを取り出しメッセージを送る。

 だが、メッセージは未読どころか送信すらされない。

「無駄だよ。どういうわけかその手の機器は機能していない」

「なんで!」

「恐らくだけど、中継器がやられた可能性が高い」

 スマートフォンなどの無線通信機器は便利だが、あくまで中継器を介して音声やデータを行き来させているにすぎない。

 どこでも通じると謳い文句にされているが、どこでも通じるはずがない。

 近年における登山の遭難者たちはその無線通信機が通じると過信した結果、遭難するケースが相次いでいた。

「おい、どこに行く気だ!」

 立花は語気を強めるなり、シェルターとは反対方向に進まんとする陽仁の肩を掴んできた。

「虹花を探すんですよ!」

「バカか、君は!」

 この状況で他人の心配などお人好しすぎると立花は怒鳴る。

「ええ、バカですよ! このだだっ広いパークから虹花一人を探そうとするんですから!」

「死にたいのか!」

 立花はその手で陽仁の胸ぐらを掴んでいた。

 大人げないとわかっているが、死地追いやるほど人間辞めていない故の行動であった。

「そうですよ、かっては死にたかった! 死のうと思った! けど、今は死ねない理由が大きいんです! そのために僕はこの一年耐え抜いてきた!」

 胸ぐら掴んで止める立花は臆せぬ陽仁に押し黙る。

「一人より二人だ。彼女が行きそうな場所を回ろう」

 ゆっくりと立花は陽仁から手を離していた。

 折れたわけではない。別行動よりも二人の方が生存率が上がるからだ。

「虹花は昔からイヤなことがあって落ち込むと河川敷とかに一人座り込んでいるんです。いや、もしかしたら遊覧船に乗っているかも」

 幼なじみとしての直感だった。

 雷蔵という相手がいるならば一カ所に留まりはしない。

 フリーパスで常に移動を続ける園内循環船は打ってつけだ。

「オーライ、なら水路周りで彼女を探そう」

 警戒を怠らず、二人は歩を進める。

 大人として先を歩く立花に陽仁は背後から疑問を口に出した。

「立花さんはなんで虹花が女だってわかったんですか?」

「ん? なにって男同士の絡みトラブルは女の取り合いって相場が決まっているからだよ」

 立花の淡々と返す発言は本音をしまい込んだような声音だった。


 僕と一緒のお墓に入ってください。

 今日この日、中学からつきあってきた彼女に結婚を申し込んだ。

 プロポーズは船の上と小さい頃から決めていた。

 あれこれ考えたプロポーズの言葉に若干の不安はあったけど、彼女は苦笑気味に受け入れてくれた。

 帰ったら彼女の両親に挨拶に行こう。

 それから、それから、船が急加速後、横転した。

「あっ、ぐっ、ああああっ!」

 男はただ慟哭するしかなかった。

 その手で掴んだ彼女の手。指輪輝く左手。左手から先はもうない。

「どうして、どうしてなんだよおおおおおっ!」

 彼女だった肉を貪り食らう無数のワニたち。

 千切られ、砕かれ、ただ糧として喰われる。

 そこにはもう彼女の面影も温もりもない。

 ただ生きた証として血が一面を濡らす。

「あああああああっ!」

 男は下半身を引き千切られる激痛に悶絶する。

 別なるワニたちが競うように食らいつき、身体を横回転させることで人体を引きちぎる。


 一緒の墓どころか男女は一緒の胃すら入れなかった。

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