第5話 引っ越し

 十田陽仁はふらふらとした足取りで繁華街を歩く。

 足取りは重く、ブレザー制服に一切の汚れがなくとも、その顔には殴られた痕があり左頬には湿布が貼られていた。

 既に日の落ちた時間帯。

 塾に向かう優等生か、それとも夜遊びにふける不良学生か、端と見て分かる者はいない。

 それ以前に、十田陽仁だと一瞥するなり誰もがあからさまに視線を外す。

 喧噪に紛れて複数の声が耳朶に届く。

「おい、あいつ」

「バカ、相手するなって言われてんだろう」

「最近あっちこっちで見かけるが、何やってんだか」

「あの人の言葉無視してボコってる奴いるのかよ」

 聞くな、流せ。今はただ重い足を動かして帰宅しろ。

 陽仁は自身に強く言い聞かせる。

 足を動かすだけで、手を振るうだけで全身に激痛が走ろうと、痛みには慣れている。

 後少し、後少しなんだと痛みで顔をしかめながら強く言い聞かせる。

「今日は派手にやられたよな」

 自嘲しながら自宅の門扉を開けると二匹の飼い犬が尻尾を千切れんばかりに振っては出迎えた。

 よしよしと二匹の頭をしっかり撫でれば玄関ドアを開ける。

 今日は散歩につれていけなかった分、明日の朝は思いっきり走らせようと誓う。

「ただいまって誰もいないか」

 反応のない室内に陽仁はぼやく。

 父親と母親は共に動物学者。兄は海洋学者。三人とも研究のため年単位で家を開けることが多い。

 父親は現在、アフリカに、兄はアメリカにおり、母親は近日オープンされるテーマパークのアドバイザーとして自宅から通っている。

 泊まり込みも珍しくなく、今日もまた泊まり込みだと思っていた。

「おかえり」

 リビングの照明をつけるなりソファーに座る母親が重い声で出迎えた。

 室内の空気は重く、母親の視線もまた連動して重い。

 無形の刃となって陽仁の良心に突き刺さってくる。

「今日も遅かったわね。晩ご飯は?」

「途中で食べた」

 素っ気なく陽仁は返して二階の自室に向かおうとする。だが、母親の険しい顔を無碍にはできず、視線に促されるまま対面する形でソファーに座る。

「話はなに?」

「あれこれ言いたいけど、手身近に言うわ。四月からアメリカに引っ越すわよ」

 身を大穴に落とされるような衝動が陽仁にかかる。

 理由など親の口から語られずとも承知している。

 陽仁の取り巻く環境を踏まえれば、引っ越すのが最適だからだ。

「母さん、確認するけど、四月に引っ越すんだよね?」

 反論することもだだをこねることもなく陽仁は表情筋一つ変えず聞き返す。

「ええ、お父さんの研究が一段落するの。だから六年ぐらいはアメリカで腰を落ち着ける予定よ。そうそう、ルズとタンも一緒に暮らせるからそこは安心して良いわ」

「兄さんはなんて?」

太輝たいきには一応メールはしているんだけど音沙汰ないわ。スマホのGPSだとハワイにいるみたいだけど、もうあのナマコバカは」

 嘆息する母親を余所に陽仁はほんの少し胸をなで下ろす。

 兄である太輝は新米ナマコ研究者として活動している。

 学生時代、海岸で偶然発見したナマコが新種であったことから海洋学者の道に進んだ経緯があった。

 著名な海洋学者の一人から論文が評価されたのを発端に世界の海を渡り歩いてはナマコの研究に明け暮れている。

「それでアメリカでの学校は?」

「安心しない。しっかりコネとかツテ使って向こうで通えるようしといたから。後は書類を提出するだけでいいわ」

 中学時代、保護者として転校を強く望もうと学校側は恥部を晒したくないのか、頑なに認めなかった。

 高校は中学と違って義務教育ではない。

 保護者の仕事上の都合であるならば転校は容易のはずだ。

「ただちょっと高校から嫌みは言われたわね。英語の成績が悪いのですし寮があるから入寮してはいかがですかって」

 学校側の発言を察するに手続きを嫌がっているのが明白だ。

 言わずもがな高校の恥部を放出するようなものとゲスの勘ぐりでなくとも推測できる。

「母さん、もう一度確認するけど、四月にアメリカに引っ越すんだよね?」

 話を聞き終えた陽仁は今一度、ゆったりとした口調で母親に確認を入れる。

「ええ、そうよ。だから荷物はしっかりまとめておきなさい」

 確定事項だから反対の余地など陽仁はない。

 むしろ家族として我が子を危機から遠ざけ守るために行動してくれている。

 だが、陽仁にはまだやるべきことが、取り戻すべき人がいる。

 そのために身体に鞭を打ち続けてきた。

「トリニティーパーク」

 とあるテーマパークを口に出した瞬間、母親の顔が曇る。

 三つの企業が合同で作り上げた複合テーマパークである。

 母親はその一つから依頼を受け、アドバイザーとして参加していた。

 一方で、もう一つの企業、正確にはその御曹司と陽仁は浅からぬ因縁があった。

「三月の頭にプレオープンがあるのは知っているよね?」

「え、ええ。抽選で選ばれた一〇〇〇人が招待されるやつね」

「学校だとクラスどころか一学年まるまる招待しているそうだよ。もちろん――僕抜きでね」

 抽選など建前、陽仁個人への嫌がらせが含まれているのは明白であった。

 学校中が無視を決め込む中、陽仁にわざと聞こえる声で、これ見よがしに楽しみだと誰もが口にしていた。

「詳細は言えないけど、昔の縁でプレオープンに招待された」

 その縁が誰であるか、陽仁は答えない。いや答えられない。

 時期が来るまで言葉を伏せる約束を結んでいるからだ。

 結んでいるからこそ相手方は陽仁に協力を惜しまずにいた。

「誰なのって問い詰めても口は割りそうにないわね」

「一応、プレオープン当日、一七時半にホテルのロビーで落ち合う約束になってる」

 トリニティーパークは広大なテーマパークだ。

 遊園地・動物園・水族館と三つの施設が一同に介しているからこそ、とても一日で遊びきれない規模を持つ。

 よって宿泊施設が中央に備えられていた。

 プレオープンでは招待者に後悔なく楽しんでもらうため三日間施設を貸し切られる。

 当然のこと、宿泊費用は全て企業持ちの大盤振る舞いだ。

「あなたの知っている人なのかしら?」

 陽仁は沈黙を貫き、口を開かない。ただ今確実に言える言葉はあった。

「引っ越しの準備、プレオープンが終わってからでも遅くはないよね?」

「遅くはないけど、何を考えているの? 何を、しようとしているの?」

 家族として、親として身を案じる気持ちは理解できる。

 別段、ないがしろにされた報復としてプレオープンの日に通り魔などの犯罪を起こす訳ではない。

 陽仁はしっかり母親を見据えては力強く答えた。


「何って、虹花を取り戻すんだよ」

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