第3話


「驚くよ」


そう言われた通り、驚いた。

めっちゃ下手だった。言葉を選んでも、自由な音楽を奏でまくっていた。

でもベートーヴェンだって、笑ってくれそうなくらい楽しそうに弾いていた。音と隔離されたような感覚に陥る。ただ無邪気に水たまりを駆け回りながら、いつの間にかそれが音楽になったというような、不思議な魅力があったのかもしれない。


「あれがタガミケン。あいつたまに弾かせてもらってるらしいけど、下手っくそだよな〜」


彼は楽譜を見なかった。観客の顔を見て、笑って、鍵盤を叩いた。「正しい演奏」に興味はなさそうだった。

演奏を終えて、ぺこりとおじぎをすると犬のように走ってきた。


「僕はケンです。君の名前は?」


無垢な笑顔によく似合う少ししゃがれていて、でも少年のような声だった。

よく通る声だなあ、そう思っていたら


「ちょっとお姉さん、こっち見てよ」

「あ、私!木下晴です」

「ハルちゃん!どうゆう字を書くの?」

「天気の、雨とか、曇りの晴れです」

「あー!素敵だね、ぴったりだ」

「いやいや…」

「ハルちゃん気をつけてよ、こいつ人たらしだから〜」



「ご冗談を」と疑う隙もないような笑顔と声で紡がれた言葉は、そんな思いも飛び越えてすんと心に落ちて広がっていく。なるほど、これが人たらしか。

私は、どちらかというと曇天の方が似合うとずっと思っていた。晴れを背負って生きるのは荷が重いとも。

彼のような人の方が晴れはよっぽど似合う。

キレイに包装して贈ってあげたいほどだ。


その後も、「人たらし」呼ばわりした友達にじゃれつき、気合いバッチリのふたりにも1つ2つと心地よい言葉を少しの嫌味もなく並べて、ついに全ての人間の心を掌握した。

ただものじゃない。人たらしだ。小柄な彼の見事な攻撃に目を奪われていたら、きゅるんと視線が帰ってきた。


「ハルちゃんは、恋人とかいるの?」

「ケンーまだ早いぞ〜」

「えっと、いないですね」

「敬語じゃなくていいのに〜」

「癖なんで…気にしないでください」

「そっか!じゃあ僕なんてどう?」

「え?」


年甲斐もなく残念な声が出た、さらに残念な顔をしていたと思う。

続けて、席に座っていた全員が同じような反応をした。年甲斐もなく。

しかし、なんと最近ではアイドルだってやっているのを見たこともないような両手で頬杖をついて上目遣い付きの告白だったのだ。

わーお。ついついそう言いたくなるような見事なものだった。


「えー、っと、タガミさん?本気で言ってます?」

「本気だよお!僕じゃだめ?」

「ケン!お前どうした?いつも興味ないくせに…」

「いいですよ、よろしくお願いします」


世界一危なそうな誘いに世界一潔く乗った。

どうして乗ってしまったのか、未だに分からないままだ。







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