第13話 人質生活のはじまり
今川家からの援軍を得てなお、竹千代を織田方に奪われてしまった松平広忠。
激戦の最中、五井松平忠次や鳥居忠宗までもが戦死し、竹千代まで奪われてしまった。広忠としては面目丸つぶれの結果となってしまった、
そんな二十二歳の若い岡崎城主は同い年の本多平八郎忠高に守られながら居城へ帰還していた。
「殿、我らが不甲斐ないばかりに竹千代君を奪われることとなり、まこと面目次第も――」
「よい、奪われてしまった以上、過ぎたことは悔やむでない」
渡河原から岡崎城へ引き揚げる時からしおれた様子で謝罪を繰り返す本多平八郎の言葉を遮る広忠。しかし、口にしたことと内心は真逆といってよいほど乖離していた。
織田信秀の元へ拉致された竹千代は今頃どのような仕打ちを受けているのであろうか。織田は竹千代を人質とした以上、竹千代を返してほしければ織田に降伏しろと言い送ってくるのであろうか――
竹千代の心配。そして、これからの松平のことについて、不安が渦巻いていた。そんな広忠の予感は的中した。
織田信秀から竹千代を人質にとったのをいいことに、織田へ従うように申し入れてきたのだ。これに対し、広忠の答えは決まっていた。
竹千代が松平蔵人の手引きで織田方に強奪されたことを受けて、塞ぎ込んでいる。そのような噂を人づてに聞いた田原御前が、奥書院で書面と睨めっこをしている広忠の元へ足を運んだ。
「殿、その書状は……」
「ああ、織田よりの書状じゃ。わしが織田につかねば、竹千代の身がどうなっても知らぬぞ、とな」
「まぁ、それは脅しではございませぬか。して、殿は織田方へつくのでござりまするか」
「ははは、天地がひっくり返ろうとも織田につくことはない。これまでの戦で今川以上に、織田への遺恨がある。わしに楯突く者共に合力する織田につくくらいならば、死んだ方がマシぞ」
語気鋭く言い放つ広忠の瞳には怒りが満ちていた。我が子を奪われた怒りのほかにも、二年前に重臣・本多平八郎忠豊、此度の鳥居源七郎忠宗、松平外記忠次。織田との合戦で失われた命の方が今川との戦いで失った命よりも多い。
そして、松平宗家の空気も織田許すまじ、竹千代君を取り戻すのだといった機運が高まっている。その空気は広忠の心中と割符を合わせたように合致しているのだから、織田につくことなど毛頭ない。そう言い切ったのだ。
「では、竹千代君はお見捨てになられると……!?」
「ああ、我が子可愛さに家を滅ぼすようでは、当主失格じゃ。亡き父もあの世でさぞかし嘆かれるであろう」
「されど、竹千代君のほかに
そう。田原御前の言うとおり、嫡男である竹千代が敵の手に渡った現時点で、後継者不在という新たな危機に直面していた。
「無論、承知しておる。しかし、子供はまた産めば済むが、家は滅びればそれまでじゃ。わしとて、竹千代を見殺しにするような手は選びたくはない。じゃが、これも当主としての成さねばならぬこと。御前も理解してくれよ」
――理解してくれよ。その言葉の重みに、田原御前は耐えきれそうもなかった。
自分の腹を痛めて産んだ子ではない竹千代が敵の手に落ちただけで、これほど辛いのだ。もし、腹を痛めて産んだ我が子であったなら、自分は生きていけるであろうか。そのようなことが御前の脳裏を過ぎった。
「なにより、この岡崎を第二の今橋城とさせるわけにはいかぬ。わしがここで織田につこうものなら、今川の大軍に蹂躙されることとなろう」
第二の今橋城とはなんと、皮肉な言い回しであることか。田原御前の実家である田原戸田氏は昨年に今橋城が陥落し、御前の父・戸田宗光は降伏。今ではその今橋城も吉田城と名を改め、今川家の東三河の重要な拠点となっている。
「確か御前の長兄、
「はい。兄は父以上に頑固にございまする。ゆえに、死んでも今川に降ることは――」
「左様か。その点、次兄である甚五郎
「ええ、甚五郎兄さまの二連木は所領として残していただいたとか」
戸田甚五郎は分家して仁連木戸田家を立て、今川家に従属。これにより、田原戸田氏の断絶は回避された。田原御前としては生まれ故郷の田原が戦火に見舞われていることは悲しかったが、ここからでは兄を翻意させることはできない。
「すまぬな、御前。此方の長兄殿を助けることはかなわぬ。わしも今川に従う手前、援軍は叶わぬ」
「ええ、承知しております。かくなるうえは、兄には心行くまで今川と合戦していただくよりほかはござりませぬ」
そんな御前の兄、戸田尭光は竹千代が織田に奪われた九月から今川軍の猛攻に見舞われていた。松平を従属させることが決まると、駿府の今川義元は一向に従わない戸田宗家を武力でもって滅ぼすことを決断した。
今川家の参謀である太原崇孚を筆頭に、天野景泰や天野景貫の遠江天野氏などを動員して総攻撃を実施。大大名である今川家による侵攻に、田原の戸田尭光など一瞬で捻り潰されるだろう。誰もがそう思った。
しかし、本拠地の田原城を死守すると意気込み抵抗する田原城の攻略は困難を極めた。戸田軍の懸命な抵抗により、ついに今川軍は田原城攻略に失敗することとなる。
このように田原の戸田攻めが思うようにいかない今川軍だが、西三河の拠点として山中城の普請を開始し、松平宗家を従属させた勢いで西三河支配を進め始めてもいた。
天文十六年時点での三河情勢は田原城攻略に苦戦する今川よりも、織田信秀の織田氏が優勢。
その状況から松平広忠も当然織田につくものと思っていた信秀にとって、『竹千代が殺害されようとも断固として応じない』という趣旨の広忠からの返答は予想外であった。
「殿、何ぞ松平からの返答に無礼でもありましたかな」
「ふん、まあ見てみよ。たとえ竹千代が物言わぬようになっても当家に降ることはないとよ」
「ほほう、それは大層な返答にござりまするな」
「ははは、わしも随分と嫌われておるらしい」
広忠からの返書を読みながら笑う織田信秀。普通、このような返答が届けば怒りに任せて人質を処刑してしまうところだが、彼は違っていた。
そして、そんな主の気性をよく理解している平手中務丞政秀は終始ニヤニヤと怪しい笑みを浮かべていた。
「ふふふ、中務よ。わしの心が読めたらしいな」
「滅相もない。殿の御心は某などには皆目見当もつきませぬ」
「心にもないことを申すな。感じたままを申してみよ」
「然らば、言上仕る」
平手中務が申すことは織田信秀の考えと割符を合わせたように一致していた。ゆえに、織田弾正の表情から喜びが溢れ出している。
「やはり、そなたも竹千代は殺さず、監視下に置きつつも養育するという考えであったか」
「はい。殺してしまうは短慮、されど人は生きていれば必ず使い道というものがございます。今しばらく竹千代を利用して岡崎には当家へ従属するよう働きかけるべきでしょうな」
「うむ。そして、広忠の交渉が決裂となれば、竹千代を大叔父である松平蔵人に後見させ、三河へ送り込めば、織田に与する松平宗家を誕生させるまでのこと。かように申したいわけか」
「申したいわけか、とは心外な。殿の御心を某はお察し申し上げたまでのこと。これは殿自らがお考えになられたことにござります」
織田弾正は腹を抱えて笑いながら、それ以上、平手中務に話させはしなかった。聞いていてむず痒いものを覚えたからであろう。
何より、このやり取りの中で竹千代の処遇は決まった。熱田の加藤図書の屋敷にて監視、さらには養育まで行う。
竹千代が元服した暁には、織田家の
織田弾正にとって、これほど都合のよい駒は得がたかった。しかも、知多郡で勢力を拡大しつつある緒川水野氏の当主・水野信元の甥でもあるのだ。水野家との関係強化という点でも利用しがいのある人質であった。
そんな竹千代が織田家の人質となった天文十六年。織田信秀の嫡男が初陣を迎えていた。
そう、
数えで十四歳となった織田信長、元服して名を改めてなお行い吉法師の頃とさほど変わりはなかった。紅錦の頭巾をはじめ、羽織から馬に至るまで煌びやかな装い。
さりとて織田信秀の嫡男、父に似て敵の意表を突く見事な初陣を飾った。もちろん、平手中務が後見を務めたことでつつがなく済ませたともいえなくもない。
大浜へ乗り込むなり、放火して引き揚げたというのだから、実に奇怪ではある。しかし、敵の意表を突くという点では、血は争えないといったところ。
――なんだ、初陣とか言いながら放火して帰っただけか
誰もがそう思った。しかし、この大浜への放火により、三河情勢は織田にさらなる追い風となった。
後に西尾城と呼ばれることになる西条城の吉良義安が織田家につき、今川家と敵対することを表明したのである。
余談だが、この吉良義安にとって
――
この西条城の吉良義安が織田家に与し、今川家に敵対を表明したことが、なにゆえ織田家にとって追い風であるのか。この小難しい話題には家の格というものが絡んでくる。
そもそも吉良家は足利御一家衆という家格であり、今川家はその分流にあたるのだ。つまり、室町幕府の秩序において、いくら戦国大名としての実力が勝っていても、今川家にとって吉良家は本家筋にあたる。
すなわち、吉良家は今川家からみて上位の武家領主という位置づけになるのだ。しかも、吉良義安の父親である吉良義堯の正妻は今川義元の姉で姻戚関係にあった。
そんな立場にあった吉良家が織田家に与したという事実は、今川家にとって由々しき事態であり、後に今川家はこの吉良家の行為を痛烈に批判している。要するに、今川家にとっての逆風は織田家にとって追い風となるわけだ。
なんにせよ、初陣から見事に織田家にとって有利な情勢を作り出した織田信長という青年は底知れない何かを秘めていることだけは間違いなかろう。
そして、その信長の初陣はもちろん、尾張国緒川のあの男にも伝わっていた。
「ほう、信秀殿のご嫡男は見事な初陣であったか」
「いかにも。じゃが、あれほどな傑物がうつけ呼ばわりされておるとは、拙者は到底信じられん」
緒川の城にて兄弟が織田信長の初陣のことで話をしていた。兄であり当主の水野下野守信元、もう一方は弟の清六郎忠守。
「清六郎よ、わしも織田の若君は化けると思うておる。しかし、平手中務が後見しておったという以上、真に当人の実力であるのかははかりかねておる」
「うむ、兄上にそう言われるとそんな気がしてくる」
「まぁ、まだ信秀の嫡男は若い。確か十四歳とかであろう。元服したとはいえ、乳臭い小倅じゃ。大したことがなければ、織田との付き合い方も変えていかねばならぬ」
野心に満ちた兄の言葉に、ただただ頷くのみの清六郎。彼は織田信長が真の傑物であった時には真っ先に近づけ、真のうつけだと分かれば離れられる。そんな絶妙な距離に水野家はあるべきことが利口だと感じていた。
「そうじゃ、岡崎の小倅が熱田に移されたそうではないか」
「岡崎の小倅とはあんまりな仰せ。竹千代は於大が腹を痛めて産んだ子、我らにとっては甥っ子なのですぞ!それをそのような……」
「もうよせ、清六郎。まったく、そなたは妹のことになると、血が昇りやすくて叶わん」
鬱陶しいと顔に書いてあるような兄の様子に、清六郎は一度落ち着きを取り戻すことができた。
「兄上、信秀殿は竹千代をいかがするつもりでしょうや」
「さぁ、わしには分からぬ。じゃが、広忠を取り込みたいことだけは確かであろう。ここで竹千代を斬っては、いよいよ岡崎は織田許すまじの旗印の下で結束を強めることにもなろう」
「ゆえに、殺さずに熱田へ移したと……?」
「そんなところであろうよ。まぁ、信秀殿のことじゃ。他にも狙いがあるであろうが……な」
そう独り言ちる水野下野の隣へ、色なき風に踊らされた一枚の紅葉がひらり、音を立てずに落ちてくるのであった。
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