第14話 加藤図書の屋敷-library-

 秋が深まる中、それ以上に織田方への怨恨を深めた二十二歳の青年が大広間を落ち着かない様子で歩き回っていた。


「ええい、織田弾正め!松平蔵人め!」


 渡河原合戦において、竹千代を奪還することが叶わなかった松平広忠の怒りはいまだ収まらず。落ち着きがなく、右へ左へ足音を立てながら、右親指の爪を噛んでいた。


 広忠が愛する我が子を敵に奪われている最中にも、水野家は着々と知多半島の勢力を拡大。ついには河和城主・戸田守光は水野信元の娘・妙源を妻に娶り、婿となることで水野氏の一族に連なり、家の安泰を図る動きに出ている。


 常滑水野氏や和解した大野佐治氏などの独立性の強い豪族らは残っているものの、名実ともに水野信元は知多半島の覇者といっても過言ではない立ち位置にまで来ていた。


 於大の方との離縁という因縁以来、良いように思っていない水野が勢力を拡大している。一方で己は……などと自分を責め始めるのであった。そして、行きつく先が今のような織田信秀、松平信孝らに対する怒りなのである。


「誰か!筧平三郎、平四郎の兄弟を呼んで参れ!」


 思わず肩が跳ねてしまうような声に弾かれ、小姓の一人が飛び出していく。何をしに行ったかなど、誰の目から見ても明らか。


 しばらく静寂が訪れた後、広忠に召し出された筧兄弟が広間へ姿を現した。


「殿!筧平三郎重忠、ただいま参上いたした」


「同じく、平四郎正重!参上つかまつりて候」


「おう、来たか。両名に成し遂げてもらわねばならぬことがある」


 先ほどまで織田信秀や松平信孝への恨みつらみを口にしていたことは両名も小姓から聞かされている。そこへ、成し遂げてもらわねばならぬことと来た。


 この言葉が何を意味するのか、筧兄弟は必死に頭を使い、一つの結論に到達。試みに、その結論を広忠へぶつけてみることとした。


「されば、我らに織田信秀もしくは松平蔵人を暗殺せよ。そう命じられるおつもりでは?」


 先ほどまでの様子と今の発言の内容を照合すれば、この結論は大正解なのではないか。そう思っているだけに、筧兄弟の右の口角が無意識のうちに上がってしまっていた。


「否とよ。わしが命じるのは松平三左衛門忠倫の暗殺じゃ」


「……は、松平三左衛門めを暗殺するのでござりますか」


「いかにも。竹千代を取り戻せなんだは、あやつが横っ腹を突いたことに起因しておる。ゆえに、早いうちに始末しておかねばならぬ」


 温厚で滅多に人を殺せなどとは言わぬ広忠から、暗殺の命令が下される。事の重大さを筧兄弟は今さらながらに思い知らされていた。


 織田弾正や松平蔵人を暗殺することを思えば、松平三左衛門であれば矢矧川を渡る必要もなく、たやすいといえばたやすい。


「平三郎、暗殺にはこれを用いるがよい」


「これは殿の脇差!?そんな、殿の脇差で暗殺するほどの輩ではござりませぬ!もったいのうございます」


「そのようなことは百も承知しておる。わしの脇差で憎たらしい三左衛門を仕留めてきてほしいのじゃ」


 成し遂げてほしいことがあると先ほどは言っていたのに、今は断る余地があるかのような物言い。これには歴戦の強者たる筧平三郎も翻弄されてしまった。


「わかり申した。殿、かくなるうえはこの命に替えましても松平三左衛門めを仕留めてご覧にいれましょうぞ」


「うむ、平四郎もよく兄を支え、二人で成し遂げてまいれ」


「ははっ、お任せあれ!兄とともに必ずや、必ずや裏切り者の三左衛門を仕留めて参りまする」


「よし、頼んだぞ両名!それとな、刺した刀を引き抜いては三左衛門めが声を上げて騒ぎになるであろう。ゆえ、その脇差は三左衛門の体に突き刺したままといたせ」


 脇差とともに広忠の想いを受け取った筧兄弟。一礼して速やかに広間を去ると、ただちに身支度に取り掛かった。


「兄者、えらく上機嫌ではないか。あんな暗殺の命令を受けた後だというに」


「平四郎、この脇差は殿からの賜り物じゃ。生涯大切に持ち歩きたい一振りであろうが」


 今にも脇差に頬ずりを始めそうな兄を横目に、戦場へと赴くつもりで覚悟を固める平四郎正重なのであった。


 そうして、その日の夜半。夜天光の下、筧兄弟は上和田へと走った。三左衛門の屋敷へ忍び込み、手早く済ませるため――ではなかった。


「おお、誉れ高き筧平三郎重忠に平四郎正重の兄弟ではないか。このような夜更けにいかがした」


「実は、我ら兄弟は渡河原の合戦において嫡男を奪われるような主君では心もとないと感じ、出奔して参った。かくなるうえは、松平三左衛門殿にお仕えしたいと思い、取物も取り敢えず逃げ出して参ったのでござる」


「ほほう、広忠の元より出奔して参ったとな?我が子を奪われるような無能な広忠とは違い、儂は先が読める武士じゃからのう。そんな儂を主君に選ぶとはお主ら兄弟は先見の明がある」


 広忠の元を出奔してきた豪傑が自身の下へ転がり込んできたのがよほど嬉しかったのか、広忠を見下すような言動を積み重ねていく松平三左衛門。しかし、彼は翌朝にはこの世の人ではなかった。


 なぜならば、筧兄弟の言葉は偽りであったからだ。油断した様子で酔っ払って寝てしまった男を討ち取るなど、筧兄弟にとっては造作もないことであった。だが、松平三左衛門忠倫を討ったことで上和田城内は大騒ぎとなってしまっている。


「兄者が殿の言いつけを破るで、かような目に遭うてしまったではないか」


「黙らっしゃい。殿から賜った脇差を刺したままにしておくわけにはいかぬであろうが」


「それはそうかもしれぬが、暗殺した証として三左衛門佩刀の平安城長吉の刀を持ち帰るから余計な手間が増えたのも――」


「くどい!口を動かしておる暇があったら、この状況を切り抜けるべく体を動かさっしゃい!」


「いたぞ!曲者め!神妙にいたせ!」


 草むらに隠れて兄弟喧嘩をしている間に追手に見つかる場面もあったが、筧兄弟は見事に任務を完遂。追手を振り切って岡崎へ帰還してみせた。


「おお、でかしたぞ!」


「ははっ、仰せの通りに松平三左衛門忠倫めを討ち果たしましてございます」


「よし、筧平三郎重忠。そちに額田郡ぬかたぐん羽栗はぐり幡豆郡はずぐん野場のばの地を与えるとしよう。この平安城長吉の刀もお主が用いるがよいぞ」


 憎たらしい松平三左衛門の暗殺が成せた。広忠にとって、まさしく望外の喜びであった。しかも、上和田の支配権を取り戻すことも現実味を帯びてきたことも大きい。


「竹千代には申し訳ないが、今の松平に今川の軍事力は欠かせぬのじゃ。竹千代、わしの可愛い息子よ。今頃いかがしているであろうか――」


 これより松平広忠率いる松平宗家は今川家の政治的・軍事的な後見を受けて勢力を少しずつ回復する兆しを見せていた。


 一方で、我が子・竹千代を切り捨てる決断をしたことは広忠に途轍もない罪悪感を植え付けた。我が子を切り捨ててまで選んだ道を実りあるものとするべく、勢力回復に精を出していくことになる。


 遠く三河国岡崎から父が案じているとは露知らず。竹千代は熱田の加藤図書が屋敷に身柄を移されていた。


 低い築地塀ついじべいをめぐらした屋敷の中では竹千代が加藤図書・弥三郎父子と面会中であった。


「竹千代殿。某が加藤図書助ずしょのすけ順盛のぶもりでござる」


「竹千代じゃ」


「竹千代殿、こちらが不肖の倅。弥三郎にござる」


「加藤弥三郎にございまする。よろしくお頼み申す」


 ぶっきらぼうな返事をする少年、竹千代。そんな彼の前には三十四歳になる加藤図書と、その次男・弥三郎の姿があった。父子揃っての丁寧な対応に、感じ入る……という年頃ではないが、竹千代の表情は和らいでいた。


 それは御用商人として活躍する中で鍛えられた人当たりの良さを持つ、順盛の成せる技ともいえる。そんな彼の息子である加藤弥三郎が持つ真面目そうな雰囲気は竹千代の心を落ち着かせることに貢献していた。


「弥三郎は竹千代殿とも齢が近い。良き遊び相手になるかと。ともに遊び学んでくだされ」


 やはり子供というのは自分と近い年齢の子供がいるだけでも安心感を覚えるのであろう。熱田における竹千代の人質生活は思いのほか楽しいものとなりそうであった。


 そんな晩秋のある日、竹千代は弥三郎とともに加藤図書から算盤や文字の読み書きを習ったりしていた。


 竹千代は筆を止め、屋敷の外から聞こえる多くの人が往来する足音が気になったのか、屋敷の外へと視線を移す。塀が低いとはいえ、正座している子供の高さでは屋敷の外は見えない。


「竹千代殿、いかがなされた」


「外が騒がしいゆえ、気になった」


「なるほど。それは気になりまするな。ですが、こうして人々の往来で賑わっているのは良いことなのですぞ。なにゆえか分かりますかな?」


 加藤図書からの問いに竹千代は考え込む素振りを見せた。じっと動かず、石のように固まっている竹千代。この経済分野が絡んでくる問いに、さすがの竹千代も答えられそうになかった。


「父上、弥三郎にも皆目見当がつきませぬ。ささ、答えを教えてくだされ」


「まったく、もそっと自分の頭で考えることをせぬか……と言いたいところではあるが、この問いはいささか難しかったか」


「はい!竹千代殿もそうじゃろう?」


「うむ」


 我が子と竹千代が見つめあう様子はまさしく幽玄の花。そんな無邪気な子供たちに対して、加藤図書は心の中では穏やかな笑みを浮かべていた。だが、教える立場という手前、その表情は二人に見せることはしない。


「左様か。では、熱田は人々が行きかう足音、楽しそうに話す人々で溢れておろう」


 加藤図書の言葉に小さく頷く竹千代と弥三郎。答えをせがまれてなお、少しずつ考える手がかりを与えて答えへたどり着くよう導いていく。そんな巧みな話術の中で少年二人は自然と思考させられていた。


「こうした人々が集まる町にはどのようなものが集まるであろうか」


「さぁ、分かりませぬ」


「……噂」


 分からないと弥三郎が答えた直後、竹千代はふと頭に浮かんだ言葉を口にした。その言葉は正解か不正解か。


 少年二人が見守る中、体勢を正座から胡坐へと変えた加藤図書が少し間をおいて口を開いた。


「うむ。竹千代の申す通り、人の集まるところ、噂も集まるというものじゃ。しかし、今回の問いでは正しくはない」


 正しくはないが、間違ってはいない。中らずと雖も遠からず、といったところである。


 竹千代は不正解ではないと知って落ち込む……かに見えたが、弥三郎の隣で再び思考を巡らせていた。諦めずに考え続ける様は竹千代の長所である。本人は長所短所を気にする年頃ではないが、傍から見ている加藤図書はそう感じていた。


「ふふふ、そろそろ正解を言うとしようか。正解は――」


「銭」


 加藤図書の言葉に繋げる形で竹千代は正解を口にした。人の集まるところに集まる物。それは銭であったのだ。


 そのことに弥三郎よりも早く気付いた竹千代の聡明さには加藤図書も舌を巻いていた。


 加藤図書が伝えたかったことは海に面する港を抑えることが経済基盤となり、経済基盤があるから織田は強い。そう言いたかったのだ。竹千代もそこまで自力でたどり着いてはいない。しかし、キッカケ一つでたどり着ける位置まで来ている。


 ――六歳児でここまで思考できるとは。


 素直に驚きを感じる加藤図書。


 そして、竹千代の隣にいる弥三郎は呆然としているだけだが、自分とは違って答えを導き出した少年の姿を目に焼きつけているようでもあった。


「うむ、正解は竹千代殿の申す通り。富の源泉とも呼べる熱田と津島の湊を抑えているからこそ、織田は強い」


「むぅ、富……」


「そうじゃ。竹千代殿の故郷、三河では三河湾と矢矧川が富の源泉と呼べるでしょうな」


「では、竹千代がその海と川を抑えれば松平は強くなれるのか」


 竹千代の言葉は実に的を射ていた。しかし、加藤図書は三河湾の海上交通と矢矧川の河川交通を抑えている勢力は尾張よりも三河の方が厄介だと感じていたのである。


「竹千代殿がその二つを抑えて富を手にするには三河一向宗との関係が大事になってくる」


「ミカワイッコウ……シュウ?」


「ははは、三河一向宗の話はまだ竹千代には難しかったか」


 そう笑ってごまかす加藤図書。しかし、竹千代ならばあと五年もすれば理解していそうだと思えてくる。そんな不思議な感覚を覚えてしまう何かが、竹千代にはあった。


「父上、弥三郎も竹千代殿には負けてはおれませぬ!もっと色々なことを教えてくだされ!」


「そうかそうか。よしよし、ならば次は算術について教えるとしよう」


 教えを乞われる喜びを感じながら、二人の少年を養育する加藤図書なのであった。

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