第12話 竹千代争奪戦
天文十六年九月二十八日。爽やかな秋風吹く岡崎城にて、竹千代は月草を片手に六ツの童には広すぎる室内にて仰向けに寝転んでいた。随念院との勉強の時間も終わり、秋風にあたりながら休息しているのである。
そんな折であった。すぐ傍から甲冑をつけた武者がわらわら湧き出したのは。先導役と見える武士たちの家紋は
その後から現れた質の良い装備で固めた鎧武者は
竹千代の護衛として付けられていた松平の武士たちは突如として現れた敵により瞬く間に組み伏せ、斬り捨てられていく。
「この童が竹千代じゃ。どことなく面影がある」
「松平蔵人殿、相違ないか」
「無論じゃ。生まれた頃の面影のある童、又甥の竹千代に相違ない」
「よし、この童を連れていくぞ。騒ぎが大きくなる前に退くぞ!急げ!」
何が起こったのか分からず、茫然としている竹千代を乱暴に拉致していく織田兵たち。岡崎城内に詰める者たちが次第に集まり岡崎城内で斬りあいとなるが、竹千代を取り戻すには至らなかった。
「竹千代が、竹千代が攫われたとは真か!」
「面目ござりませぬ!我らがついていながら、竹千代君が……!」
「もうよい、泣くな!今は竹千代を取り戻すことのみを考えよ!まだ遠くには行っておらぬであろう。急ぎ追跡するのじゃ!」
大慌てで岡崎城の総力を挙げて竹千代の追跡にあたっていく。我が子が岡崎城にて攫われる一大事に、広忠は理解が追いつかなかった。城にて斬り捨てた不埒者は丸に蔦と織田木瓜の家紋をつけていたのだ。
しかも、松平蔵人信孝の姿を見たという者までいるのだから、広忠の心は大きくかき乱されていた。
「くっ、叔父上まで関与しての竹千代誘拐か!となれば、岡崎城のことをよく知る叔父上のことじゃ、何か秘かに城内へ侵入できる隠し通路でもあるのであろうか」
まさか、叔父・松平蔵人が織田方についたことが、このような事態に結びつくとは思いもよらず、広忠は己に腹が立っていた。しかし、その怒りも竹千代を探すという目的を前に吹き飛ばすことができた。
「無事でいてくれよ、竹千代!そなたは必ず取り戻すでな……!」
広間に打ち捨てられ、土のついた月草をしり目に、竹千代の捜索に精を出す広忠。医王山砦の今川軍本陣にも竹千代が攫われた旨を通達。そのうえで西の矢矧川方面を重点的に捜索にあたらせた。
「殿!竹千代君を発見いたしました!」
「おおっ、でかした!して、いずこじゃ!いずこに竹千代はおる!?」
「渡の河原とのこと!」
渡河原といえば鎌倉街道における矢作川の渡渉地点。ここを渡って安城、そして尾張へと竹千代を連れ去る気なのであろう。その後、竹千代をどうするつもりなのか、広忠にも察しはつく。しかし、考えたくはないことであった。
「よし、何としても竹千代を救い出すのだ!急ぎ出陣の支度をせよ!」
広忠は急ぎ岡崎城にいる松平兵をかき集め、岡崎城を打って出る。広忠にいち早く続いたのは本多平八郎、その後も鳥居源七郎をはじめ、続々と松平勢が続いてくる。
「殿!竹千代君は必ずや本多平八郎めが取り戻してご覧にいれますぞ」
「おう、此方の武勇を頼りにしておる。焦眉の急は竹千代の奪還!次に逆賊、松平蔵人信孝めの首じゃ」
「委細承知!」
本多平八郎忠高が家人らと渡の河原へ急行。広忠を追い越してぐんぐん前へ進んでいく。
「殿、松平の猛者は本多平八郎殿だけではござりませぬ!この鳥居源七郎もおりまするゆえ、ご案じなく」
「うむ、頼むぞ。竹千代の奪還に力を貸してくれい」
この鳥居源七郎
「おお、殿!あれを!」
「むっ、あれは
広忠は鳥居源七郎が指さす方角を小手をかざして目を細める。すると、先客を発見した。
すでに渡の河原では丸に蔦の旗と鳩酸草の旗とが入り乱れて合戦に及んでいた。さらに指揮を執っているのは二年前の安城合戦でも武功を挙げた松平外記忠次とみえた。彼が馬上で振るう父祖相伝の青江の刀からして間違いない。
「よもや五井松平の軍勢が参っておるとは思わなんだ」
「殿!我らも加勢いたせば、竹千代君の奪還も成せましょうぞ!」
鳥居源七郎の言葉に力強くうなずいた広忠は迷うことなく加勢を決断。今ならば竹千代を奪い返すことも容易い。
ここに渡の河原は松平蔵人勢と織田勢、広忠率いる松平宗家の軍勢と五井松平勢による血で血を洗う激戦となった。
「蔵人殿、このままでは押し切られてしまいまするぞ!」
「おう、それくらい承知しておる」
「ならば、なぜそのように落ち着いていられるのじゃ」
「まぁ、見ておれ。この松平蔵人、二の手三の手を用意しておる。場当たり的な対処しかできぬ広忠とは違ってなぁ」
織田の侍大将が怪訝そうな瞳を向ける中、松平蔵人はニヤリと笑う。それを傍で見ている竹千代は、言葉の意味は理解できずとも背筋が凍り付くようであった。
刹那、わぁっと広忠勢の横っ腹をつく一団が現れた。近く、上和田より出撃してきた松平三左衛門
「蔵人殿!松平三左衛門が助太刀いたす!それっ!広忠の首を挙げるは今ぞ!」
上和田城主・松平忠倫自らが軍勢を率いてきたこともあり、こちらの松平勢の士気は最高潮。さらには松平宗家の主が目の前にいるのだ。これを討ち取れば恩賞は思いのまま。
欲に目がくらんだ人間ほど恐ろしいものはこの世にない。しかし、
「くっ、三左衛門めが!どいつもこいつも邪魔ばかりしおって!」
馬上で太刀を抜き、寄ってくる松平忠倫の家来衆を一刀両断。その後は鳥居源七郎らが駆けつけ、戦況は松平蔵人ら優勢に傾いた。
さらに、凶事は重なる。鳥居源七郎忠宗も乱戦の中、松平清兵衛と名乗る武士によって討ち取られてしまったのだ。信頼していた味方をまた一人死なせてしまったことに、広忠はやりきれない気持ちで一杯であった。
「くそっ!ここまで来て、竹千代まで奪われるなど、あってはならぬ!」
「松平広忠殿とお見受けいたす!覚悟っ!」
死角から不意に斬りかかられた広忠。しかし、斬りかかってきた敵方の侍は次の瞬間には
「平三郎に平四郎か。危ういところであった。助かったぞ」
「感謝されることではござりませぬ!それより殿!このままでは竹千代君を奪い返すどころか、殿のお命まで危のうございます!」
広忠とて、筧平三郎の言い分は理解できる。しかし、竹千代を見捨てて岡崎城に逃げるなどできなかった。
「殿!兄者!大変だ、松平外記殿が敵方の鳥居又次郎と渡り合って討たれたとのこと!」
若き筧平四郎の瞳は焦りがにじみ出ていた。決して恐怖を感じているのではない、どうすればいいのか分からず、現状に戸惑っているのだ。
「くっ、筧平四郎の申すことは真のようじゃ。五井松平の兵が四方八方へ逃げ散っていっておるわ」
若くて勢いのある二十七の大将が討たれたことを契機とし、遠く五井松平勢は崩れた。それは馬上の広忠からも、いやというほどよく見えた。一方の松平蔵人信孝もそれは同じであった。
「蔵人殿、貴殿の申す通りであった!五井松平は総崩れ、松平広忠も松平三左衛門の加勢もあり、あと一歩のところまで追いつめておる!このまま松平広忠めを討ち取ってやろうぞ!」
傍らでケラケラ笑っている織田の侍大将に、松平蔵人は唾を吹きかけてやりたいくらいに不愉快な感情を抱いていた。織田大和守家に仕える織田弾正信秀の侍大将ずれが松平を嘲笑っている。
甥の広忠が不甲斐ないばかりに、松平が馬鹿にされているのだと思うと、信孝は目の前の侍大将だけでなく、広忠にまでぶつけようのない怒りを覚えた。
「まぁ、広忠など生かしておいても差し障りはなかろう。所詮、松平も滑られぬ無能じゃ」
「そうでしょうなぁ!では、適当にあしらって引き揚げることといたしましょうぞ!」
織田の侍大将は広忠勢を蹴散らし、尾張国古渡城へ凱旋するべく再び指揮を執り始める。それを松平蔵人は竹千代を抱きかかえたまま静かに見守っていた。
「殿、我らは加勢せぬので」
「よい。進んで敵を退治してくれておるのだ。我らが消耗する道理はない」
「いかにも。織田が強いと、我らも楽ができてよいものですな」
「そうじゃな」
傍らの家臣と笑いあう松平蔵人。その瞳からは焦りも感じられない。すでに戦闘を終了し、休息している者の瞳であった。
先ほど、場当たり的な対処しかできぬ広忠とは違って二の手三の手を用意している。そう、松平蔵人は確かに言った。自信に満ち溢れる彼がこの戦いにおいて、見落としていた点が一つだけあった。その見落としによって、余裕は失われることになる。
「殿、あれをご覧くだされ!」
「あれは――」
松平三左衛門や織田勢と激闘を繰り広げる広忠勢の背後。静かに六本の歯を持ち上部に紐を通す穴がある赤鳥の形をした、
「これはいかん!者ども、竹千代を連れて離脱するぞ」
「ですが、お味方はまだ……」
「かまうな!我らの
竹千代を抱く手を強めながら、松平蔵人の手勢は西へ退却を開始。一方の広忠はといえば、竹千代を織田に渡すまいと急派された今川の援軍を得て、巻き返し始めた。
こうして渡河原合戦は今川の支援を受けた松平広忠と、織田の力を背景に三河支配を目論む松平蔵人信孝という構図へ変貌している。そして、この戦いは織田と今川の代理戦争といってもよい状況でもあった。
ただ、広忠にとっては田原戸田氏とともに、駿河の今川氏と牛久保の牧野氏、尾張の織田氏と緒川の水野氏、松平信孝・酒井忠尚ら反広忠を掲げる勢力と構想していたこれまでの状況と比べれば、地獄を脱したといえるほど情勢が好転している。
ただ、広忠は今川の援軍とともに松平三左衛門の手勢と織田勢を打ち破ったものの、松平蔵人の迅速な判断により肝心の竹千代は織田に奪われる格好となってしまった。
「おおっ、この者が松平広忠の倅か。そして、二度も尾張に攻め込んできた憎たらしい清康の孫か」
「はっ、はは!信秀殿、思惑通りに事が運び、竹千代を無事に奪い取ることが叶いました」
「うむ、大儀。あとはこの倅を用いて当家につくように交渉するのみぞ」
その日、渡河原から古渡へ直行した松平蔵人は織田弾正信秀に竹千代を岡崎より奪い取ったことの報告を行っていた。
虎髭を生やした豪傑の前に連れてこられた竹千代は虎の前に連れてこられた小動物のように委縮し、小さな拳だけでなく全身を小刻みに震わせていた。
「松平蔵人、ひとまず竹千代は当家が預かることとなる。
「は、ははっ!然らばこれにて失礼いたしまする」
信秀は松平蔵人を下がらせると、平手
「殿、お呼びにござりましょうか」
「おう、岡崎の松平から分捕った人質の処遇じゃ」
信秀が竹千代へ視線を向けたのに合わせて、召し出された平手中務もまた、あどけない竹千代へとチラリと視線を移す。
「然らば、
平手中務のいう加藤家は隣国の伊勢国山田から熱田へ移住し、沿岸部の開発や道路整備、町場造成などにも貢献して台頭してきた有力商人であった。この頃、加藤家は東西に分かれており、当の加藤図書は東加藤家の当主である。
そんな加藤氏は熱田を押さえている信秀より債務破棄や諸税免除といった特権を得て、いわゆる御用商人として活動していた。
分かりやすくいえば、後の徳川家康にとっての茶屋四郎次郎に近い存在、といったところであろうか。
「ほう、加藤図書か。あやつならば確かに信用できる。よし、竹千代の身柄は熱田の加藤図書が屋敷へ移せ。松平の輩が奪い返しにくるやもしれぬゆえ、目を離すなとも伝えておくとしようぞ」
こうして数えで六歳になった竹千代は尾張国熱田にある加藤図書助順盛の屋敷へ留め置かれることとなった。
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