第2章 水沫泡焔の章

第11話 もはや降伏せざるを得まい

 真夏の厳しい暑さもまもなく落ち着きを見せそうな、天文十五年七月。岡崎城の広忠の元には渥美半島方面へ放っていた草の者からの報告が届けられていた。


「殿、やはり先月中に戸田は降伏し、今橋城も落城と相成ったようですな」


「左様か。それと安芸、今橋城は名を吉田城に改めたそうじゃ。これからは間違えぬようにせねばならぬ」


「……は、左様ですな」


 戸田弾正宗光が降伏して今橋城も落ちたという話から急に、城の名が変わったという話に推移したのだから、さすがの石川安芸守忠成も戸惑っている様子。その傍らでは酒井雅楽助政家が情報を熱心に書き写している。


 冗談めかして重臣らと相対している広忠であるが、その心中には穏やかならざるものがあった。


 今橋城改め吉田城より戸田を駆逐した今川が次に狙うのは西三河、それもこの岡崎を目指して進軍してくるのだ。気が気でないというもの。


舅御しゅうとご、先月十三日に牛頭ごず天王社の神輿造立に伴っての棟札が太原崇孚により納められたとのこと」


「ふん、今橋領は今川が併呑したとひけらかしておるようじゃの」


「ですが、併呑されたのは事実にござれば」


 先月陥落した今橋城についての事実確認を呑気に行なっている松平広忠、石川安芸、酒井雅楽助であるが、岡崎の松平氏も胡坐をかいていられる状況ではない。


 今橋城を陥落させた今川軍の矛先は今まさに松平へと向けられている。戸田と同盟を組んだ落とし穴が今、東から岡崎を目指して進軍。岡崎よりも東に位置する長沢、五井、竹谷、形原の松平が岡崎への行きがけの駄賃とばかりに攻撃を受けてしまう。


 そもそも形原松平家広いえひろは広忠が於大の方を離縁したのにならって水野信元の同母妹にあたる正室・於丈の方を離縁することなく、水野家との関係を維持し、宗家に従わない意思を示していた。


「そうじゃ、形原松平は今川の攻撃によって形原をわれたとは真か?」


「某も仔細は存じ奉らず」


「某も同じく」


「左様か。仮に形原を追われたとすれば、舟で知多にでも逃れたのであろうか」


 今川軍による侵攻を受けて情報が錯綜している中、血相を変えて走ってきた阿部大蔵が広忠にもたらしたのはどこの松平が今川に降伏したという類の報告を超える、驚愕に満ちた内容であった。


「殿!一大事にござりまするぞ!」


「大蔵、何事じゃ。そなたの言う通り山中城の守りを固めるべく――」


「時すでに遅し、にござりまする。山中城、今川軍により占拠されたる由。今、医王山の山中城を修築のうえ、周辺領域の攻略に勤しんでおるとのこと!」


 まさしく時すでに遅しであった。さしもの広忠も何が起こっているのか、事態を吞み込めずにいた。しかし、その深刻な状況が理解できないわけではない。


 彼もまた目の前の阿部大蔵や傍らの石川安芸、酒井雅楽助らと同じく、顔から血の気が失せるのにさほど時はかからなかった。この切羽詰まった状況に、どう終止符を打つのか。


 弱冠二十二歳の広忠は決断を迫られているのである。西には矢矧川西岸まで勢力を織田方の勢力が押し寄せ、岡崎の南東二里ほどの地点にまで今川軍が進軍してきているのだ。もはや一刻の猶予もなかった。


「よもや、こうまで早く今川軍が進軍してこようとは思わなんだ」


「殿、いかがなされまするか。某は……」


 阿部大蔵が言わんとすることは広忠にも分かっている。ゆえに、年老いてなお松平宗家へ忠節を尽くす彼の言葉を遮った。そんな当主の潤んだ瞳にはしわの増えた老臣が映っていた。


「わしは今川へ降ろうと思うておる。安城で本多平八郎はじめ、多くの仲間の命を奪った奴原やつばらに頭を下げるなど断じてできぬ。それに、織田へ降れば追放した松平蔵人が復権してくることとなろう。それも断じて承服できぬ。皆は……皆はいかが思うか」


「石川安芸、殿に同じく今川に降るよりほかはないと存じまする」


「阿部大蔵、右に同じく」


「酒井雅楽助、同じくッ……!」


 悔し涙をこする重臣一同の意見は皆一様に、どうせ降るなら今川の方がマシ、ということであった。


「よし、ならば阿部大蔵!そちに今川の、太原崇孚たいげんそうふとの交渉を任せたい。今川との交渉を任せられるのはそちの他にはない。頼むぞ」


「委細承知!この阿部大蔵、身命を賭して今川との交渉を成し遂げてみせまする!」


 父・清康が斬られてより共に諸国を流浪してきた老臣。彼だからこそ、広忠は松平宗家の未来がかかった交渉を任せようと思えたのである。そして、それほどの大役であることを請けた本人が一番理解していた。


 こうして松平広忠は今川へ従属することを決断。願わくば独立した国衆として生き抜きたいと考えていた広忠であったが、やはり勢いというものには抗えなかった。


「殿。この阿部大蔵のみるところ、今川は人質の提出を求めて参りましょう。それも竹千代君を差し出せと申してくるに相違ございますまい」


「うむ。そのようなこと百も承知よ。阿部大蔵、今川から竹千代を人質として差し出せと言われたのならば、すでに主君より同意を得ておると返答いたせ。さすれば話も進みやすくなろう」


 広忠にとって目に入れても痛くない我が子、竹千代。未だに忘れられずにいる於大の方との間に生まれた男子おのこ。次の松平宗家を背負っていく大事な大事な嫡男である。


 そんな竹千代はまだ六歳。だというのに、母親だけでなく、父親からも引き離されようとしている。それもこれも己の無力さから来るものだと思うと、胸が苦しくなる広忠なのであった。


 こうして今川軍の攻勢を前に、松平広忠は今川への降伏へ舵を切ったのだ。


 その日、阿部大蔵は交渉についてあれこれ考えを巡らせながら、暗い面持ちのまま山中に本陣を構える太原崇孚の元を訪れた。戦が終わった直後ということもあり、物々しい様相の今川軍の陣営に入る阿部大蔵。


 彼が奥へ奥へと進んでいくと、法要の場に迷い込んだのかと思い違いをしてしまうような人物が現れた。


 そう、彼こそが今川義元の右腕として手腕を発揮し、今川氏の発展に大きく寄与したことから黒衣の宰相と評される太原崇孚であった。


 白髭を生やし、法衣ほうえの下に具足をつけてニヤリと笑う姿はよほど広忠よりも戦国を生きる人間らしい。そうはいっても、二十二歳の広忠と御年五十二の老僧を比べれば、貫禄で負けるのも致し方なきこと。


「松平の使者殿。よくぞ参られた。拙僧が此度の戦の采配を預かっておる、太原崇孚と申す」


「某は松平宗家の家臣、阿部大蔵と申しまする。此度、太原崇孚和尚とお目にかかれたこと、まこと恐悦至極に存じまする」


 互いに深々と一礼する両者。ともに長く生きてきただけのことはあり、所作は丁寧で熟達していることを窺わせる。


「さて、阿部殿。此度の用向きは言うまでもございますまい」


「はっ、当家は以後、今川様のもとで御奉公させていただきたく存じます」


 降伏すると言うことも阿部大蔵の頭の中を過ぎったが、ここはあくまでも降伏という語を直接は口にしない方が良さそうだと感じ、御奉公という堅苦しい言葉を使ったのである。


「御奉公……のう。うむ、奉公にあたっては然るべき者を人質として送っていただく必要があります。このことについて、広忠殿より了承を得て――」


「お言葉を遮るご無礼をお許しくださいませ。太原崇孚和尚の申される人質につきましては、主広忠より嫡男である竹千代を差し出すことで了承いただいております」


「ほう、すでに嫡男を人質として差し出すこと、主より許しを得ていると申すか」


「はっ、得ておりまする」


 言わんとすることを遮られ、最初はいささか不愉快そうな太原崇孚であったが、阿部大蔵の言葉を聞いているうちに不快さはどこかへ消え失せていた。


「承知いたしました。然らば、松平よりの人質は嫡男竹千代ということでご同意いただけるということですな」


「仰せの通りにござりまする。一つ確認にござりまするが、人質の身柄はいかが相成りましょうか」


「うむ、人質の身柄については当家の東三河統治の拠点である吉田城へ移されることとなりましょう」


「吉田……にござりまするか。それならば、我が主や重臣一同も安堵いたしましょう」


 吉田と岡崎。決して近い距離とは申せないが、同じ三河国内というだけで安心感が違う。


 もし今川義元のお膝元である駿府へ送られるとなれば、父親として広忠の不安が増すばかりであったろうが、そのような事態にはならず、阿部大蔵としても内心では胸を撫でおろしていた。


「おお、そうじゃ。阿部殿、当家が攻め取りし山中の七郷、医王山知行分については砦攻略に功のあった作手の奥平へ恩賞として与える手筈となっておる。この旨、立ち返ってお伝え願いたい」


「はっ!その旨、立ち返って主に伝えまする」


 敗者として交渉の場に臨むことほど残酷なことはない。阿部大蔵は心底よりそう思った。しかし、今川家への降伏が受け入れられたことは大きい。広忠の背後には今川家が控えているとなれば、反広忠を掲げる者たちも迂闊には動けまい。


 今川に降伏したことで東よりの脅威は去った。ひょっとすると今川家の軍事力を背景に広忠の下、松平を一つに束ねることも可能ではないのか。そのようなことを自問自答しつつ、帰路につく阿部大蔵なのであった。


 さて、こうした広忠らの動きはある人物の知るところとなる。それは、かれこれ四年も前に岡崎城より追放された松平蔵人信孝であった。


「なに、広忠めが今川へ降伏しようとしておるのか!」


 広忠が今川に降伏するべく、使者を山中の太原崇孚へ派遣したという知らせは、岡崎城攻めを見据えて大平、作岡、和田の三城を築いている松平蔵人を大いに焦らせた。彼が焦るのにも明確な理由がある。


「広忠を織田に降らせねば、わしが岡崎に戻ることができぬではないか!」


 広忠を織田に降らせれば織田信秀の意向であるとして己が復権することも夢ではない。だが、他ならぬ広忠らが自身を復権させないため、あえて今川に降ったなど夢にも思わない松平蔵人はとんでもない行動に出ることを決めた。


「尾張の織田信秀殿のもとへ、わしがしたためたこの書状を届けよ!安城城の織田三郎五郎信広のぶひろ様の元にも同じく!」


「はっ、承知しました!」


 安城城の織田三郎五郎信広は織田信秀の庶長子にあたる。長男ではあるが、正室から生まれたわけではない。対して、織田信長は三男であるが、織田信秀の正室・土田御前どたごぜんから生まれた子であるため、嫡男となっている。


 とまあ、跡取りではないが織田信秀の長男であることに変わりはない織田信広が入っているのが安城城なのである。


 松平蔵人の立場としては織田家の支援を受けているが、山崎城より最も近い位置にいる織田一門が織田信広なのであり、彼に何の報せも入れず、独断で動くことはできなかった。


 松平蔵人は城門から馬に乗り飛び出していく使者を見届けるなり、秘かに戦支度を始めた。信秀より許しを得れば、すぐにも動ける準備を進めつつ、まるで思い人からの返信を待っているかのような心持ちで来る日も来る日も待ち続けた。


「何としても、広忠めを織田へ降らせねばならぬ!いかなる手段を用いても、な」


 彼が視線を落とした先にあるのは岡崎城の曲輪絵図。簡易な絵図面であるが、竹千代のいる場所に朱色の丸が描かれ、その近くにも一つの線が引かれていた。


「わしが追放されてより岡崎城内の造りが変わっていなければ、確実に成功する。そうなれば、広忠も信秀殿に頭を下げることとなろう。いい気味じゃ」


 頭の中で、織田信秀を前に広忠が頭を下げ、阿部大蔵らが苦虫を嚙み潰したような面をしている――


 そんな妄想を描きながら松平蔵人はほくそ笑む。自分を追い出した者たちが苦しむ様は良い憂さ晴らしになる。


 何より、自身を追放してのち、外交方針を転換した広忠らが織田信秀に頭を下げることは、松平蔵人が追放される前に採っていた政策が間違いではなかったことを証明することに等しい。


「わしの先見の明を証明できれば、阿部大蔵ら無能な重臣どもも、たとえ広忠であっても、わしに意見なぞできるものか!ふふふ、そうなれば松平宗家は意のままに操れようものぞ」


 自分が復権すれば広忠も竹千代も傀儡として操れる。織田氏の貢献を受けてではあるが、兄・清康のように三河を統一することも夢ではない。


「兄上、見ていてくだされ。この松平蔵人信孝、必ずや三河一統を成し遂げてみせまするぞ!」


 矢矧川の対岸。近くて遠く、遠くて近い岡崎城を見やりながら、決意を口にする松平蔵人なのであった――

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