第10話 祈り

 松平広忠が久松佐渡と佐治氏の和睦を仲介した天文十五年。その年の十月、さらに広忠を追い詰める事態が勃発した。


「なにっ、今橋城が!?」


「はっ、今川の大軍に攻囲され、いつまで持ちこたえられるか……。ゆえに援軍を要請しに参った次第!」


 その日、広忠は田原の戸田氏からの使者を引見していたのだが、その胸中は来るべきものが来たという想いであった。


 まさにこの時、戸田弾正宗光が籠もる今橋城は攻囲されている状況。今橋城に籠城する戸田の軍勢を相手にするなど、今川軍から見れば相模の北条、甲斐の武田を相手にするよりも楽ことであろう。


「して、今川の軍勢は当主自ら率いて参ったのか」


「い、いえ。今川軍の総大将は太原崇孚、麾下には犬居の天野景泰、井伊谷の井伊直盛などの遠江国衆や宇津山城の朝比奈泰長ら遠江の今川諸将が参陣しており、数は一万に迫る数にござりまする!」


「な、なに、一万に迫る数とな……!?おそらくは誇張であろうが、北条と武田を気に留める必要もない今ならば七、八千といったところであろうか。そうじゃ、今橋城の攻囲に牛久保の牧野は加わっておるのか」


「豊川沿いに軍勢を展開しておりますが、渡河して城を包囲しているわけではございません」


 その使者から聞く限り、牧野を今橋城の囲みに用いない理由は広忠にもおおよその見当がついた。


「敵は名うての軍師、太原崇孚。おそらく、牧野の軍勢を攻囲に用いないのは我らの援軍を豊川手前で阻むためであろう。わしはそう見たが、みなの意見を聞きたい」


 広忠の意見に否と申す者はいなかった。戦の経験が広忠より多い重臣たちから見ても、牧野を囲みに用いないのは西三河から向かってくる松平の援軍を阻止するためと分かっているからだ。


 広忠が太原崇孚の狙いを見破った成長ぶりに、阿部大蔵や大久保新八郎、鳥居伊賀などの老臣の目からは涙がこぼれていた。が、広忠は見なかったこととし、使者とのやり取りを続ける。


「使者殿、今橋城に立ち返って舅御しゅうとごに申されたい。戸田の窮地は松平の窮地に同じ。ただちに援軍を派遣するゆえ、今しばらく堪えてくだされ、と」


「な、なんと有難いお言葉……!承知しました!これより城へ立ち返り、我が主に伝えまする!」


 瞳を潤ませながら帰っていく戸田よりの使者。田原と岡崎を往復する彼の忠義を労いながら広忠自ら城外まで見送った。しかし、かける言葉とは裏腹に、広忠の心は晴れなかった。


 それは牧野の兵力が今橋城攻めで消耗されることもなく温存され、豊川沿いに展開。さらに、対岸には一万近い今川の大軍。


 仮に広忠が今橋城を救援するとして、牛久保の牧野氏を撃破し、敵地である豊川を渡って今川軍と決戦。そうなれば、一体いかほどの兵力を動員しなければならないのか――


「殿、牧野への援軍はいかがなされますか」


「左衛門尉か。なんといっても我が正室、田原御前の実家が攻められておるのだ。いかがもなにも援軍を送らぬわけにはゆかぬ。援軍を派遣することとするが、城を空にするわけにはいかぬで、兵数も多くは割けぬ」


 そう、戸田に同盟を持ちかけ、戸田弾正の娘を正室として迎えた広忠にとって、援軍を出さないという選択肢はとれないのだ。


 はじめ、酒井左衛門尉は余計な口出しはせず、見守るつもりであった。されど、ここへ来てどうすべきか迷っている広忠を見て、堪えることができなかった。


「殿、先ほど援軍を派遣するとおっしゃいましたな」


「左衛門尉、そちは援軍派遣は反対か」


「いいえ、派遣するべきでしょう。そう、義理立てのための派兵でよろしいかと。こちらは織田や水野などの敵を抱えてもおるのです。全軍で向かうなど論外でしょうな」


「うーむ、ならば左衛門尉は援軍は派遣する。ただし、兵数はさほど多くなくて良い、かように申したいわけだな」


 側に控える酒井左衛門尉が首を縦に振るのを見て、広忠も少し勇気が出た。ひとまず、牧野への援軍を派遣する。


 ……が、織田や水野にも備えなければならないから、と派兵は最低限にとどめる。


 そうであるならば援軍を派遣し、せいぜい牧野と睨み合うか、戦っても小競り合いをするくらいが限度。だが、牧野に勝ったとしても、今川に勝つ見込みがない。


 派兵しなければ松平は同盟先を平気で見殺しにするような家だと悪評が立ってしまう。そうなれば、松平が危機に陥った時、誰も援軍を派遣しようとはしない。今後のことを考えれば、この選択が正しいのだ。広忠はそう思うことにした。


 何より、広忠は無意識ではあったが、使者に対して、当主自ら向かうとも、どれだけの兵数を向かわせるとも、一切に口にしなかったことが幸いし、大兵力を割かずに済んだ。


 結果としてはかねてより予想されていた通り、牧野によって行く手を塞がれ、ついに今橋城はおろか、牛久保の牧野領すら抜けていくことはできなかった。


 こうして天文十五年、同盟先の戸田家が今川軍の猛攻にさらされることによって、岡崎の松平を取り巻く状況は悪化の一途を辿っていくのである。


 ちなみに、そんな天文十五年、尾張国古渡ふるわたり城にて元服した一人の少年がいた。幼名を吉法師きっぽうしという、その少年は三郎信長のぶながと称した。


 彼こそ後々、竹千代とも深く関わることになる織田信長なのである。この時、織田信長十三歳、竹千代五歳。二人が本格的に乱世の荒波に呑まれていくのは、今少し先の話となる。


 明けて天文十六年。いよいよ於大の方は阿古居城主・久松俊勝の元へと輿入れした。兄・水野下野守信元の意向である。


 昨年、松平広忠が佐治氏との和睦を仲介した久松氏を妹を輿入れさせることで水野家へ取り込む、そんな水野下野の狙いが背後に渦巻いていた。


 ――男女問わず、この地上に生まれ落ちた時点で乱世の駒、駒に意思など存在せぬわ。


 於大の方は阿古居城へ輿入れするまでの間、兄の言葉が頭の中で何度も、何度も思い出された。あの時の声、表情、何もかもが鮮明に思い出される。


 生まれ落ちた時点で乱世の呪縛からは逃れられないとは、生とはなんと不幸なことであるのか。だとすれば、兄も広忠も己自身も、被害者ではないのか。竹千代もまた、これから乱世の駒と化して苦しみながら生きていくのであろうか。


 霧の立ち込める阿古居城へ入った於大の方を出迎えたのは、前の夫である松平広忠と同じ齢の青年であった。しかし、岡崎への輿入れと大きく異なるのは、互いに再婚同士であること。


「某が久松佐渡守俊勝にござる」


「水野下野が妹、於大にござりまする。幾久しくお目かけくださいませ」


 互いに深々と一礼し、面を上げる。於大の方の瞳に映る久松佐渡は、於大の方の不安げな様子を察したのか、案ずることはないと言外に言っているかのように、外にかかる霧も晴らしてしまいそうな笑顔を見せる。


 新たに夫となった人物と敵対する佐治氏の和睦に一役買ったのが前の夫・広忠なのだと思うと、於大の方としては不思議な縁のように感じられた。


「某のこと、水野下野殿から何か聞いておるか」


「い、いえ、何も」


「そうか。てっきり某のことを熊をも倒せる大男だの、人をとって食う化け物じゃ、などと、そなたを怖がらせるようなことを申しておったのかと思うたが……そうか、違ったか」


 そう言って大声で笑う久松佐渡。一寸先は闇、そんな阿古居城でも、彼の周囲は明るさを保っているように於大の方は思えた。


 何より、彼女は自分を元気づけようとしている新たな夫の姿に、何と優しい人なのかと感じ入っていた。


 そして、輿に揺られながら考えていたことを、この城に持ち込んではならぬと思い、ようやく笑顔を見せた。


 これ以後、一人思い詰めていた於大の方も岡崎にいた頃のように自然に笑うようになるのだが、それはまた別の話。


 はてさて、年も明けた岡崎城では松平広忠のお手がついた平原勘之丞正次の娘のことで話題は持ちきりであった。


 如月某日、広忠は大久保新八郎と大久保甚四郎の二人と、そのことで語らっていた。


「殿、まもなく子も生まれるとのこと。おのこであれば竹千代君をお支えする良き弟となりましょうぞ」


「そうであればよいがの。野心を持ち、家督を簒奪しようとする弟であったら、松平の家は分裂を深めることになる。困ったものよ」


「そのようにお考えであるならば、お手をつかれなければ……」


 大久保甚四郎の口から出た言葉を遮るように、咳ばらいをする大久保新八郎。この二人も、まもなく子供が生まれようとしている。そのこともあり、今の広忠にとってはうってつけの話し相手であった。


「それにしても、新八郎も甚四郎も子だくさんじゃの」


「我らはもう年にござりまする。これほどの年にもなれば子が多くなるのも当然と言えましょう。殿も我らほどの年になれば、多くの子宝に恵まれておりましょうぞ」


「そのようなものであろうか」


「で、ありまする!」


 温かな日差しの中、子供について語る男たち。男たちも戦場から離れれば一人の人間であり、一人の父親であった。


「仮に、お生まれになられたのが和子ではのうて姫君であれば、殿は婿探しで忙しくなりましょうな」


「そうであろう。じゃが、それより先に、竹千代の正室を探す方が先となるであろう」


「されば、竹千代君のご正室は他の松平より迎えることになりましょうか」


「そうなるかのう。こればかりは竹千代が嫁取りする頃の当家の状況如何によるであろう」


 今考えても仕方のないことだ。暗に広忠はそう言っているが、頭の中は正室を迎えるまでに成長した竹千代のことで一杯であった。


 子煩悩ここに極まれりであるが、そのようなことを考えているなどおくびにも出さず、大久保兄弟と他愛もない話で盛り上がり、政務の疲れを癒やしていた。


 しかし、広忠と大久保兄弟が呑気に生まれ落ちる命のことを語らっていられるのも、そこまでであった。彼らは直後に思い知らされることになったのだ。生まれ落ちる命もあれば、散っていく命もあるのだ、と。


 天文十六年二月四日。大久保新八郎忠俊、大久保甚四郎忠員の実父である大久保忠茂が死去。享年七十二。当時の七十二となれば、かなり長く生きたと言ってよい。


 だが、この世に二人とない父親を亡くした大久保新八郎、大久保甚四郎らの悲しみは深く、父の代からの功臣の死に広忠も哀悼の意を表した。


「……左様か、大久保衆は今日の出仕を控えるとな」


「はい、そのように大久保の家人より承っております」


「大蔵、そちにとっても血のつながりこそはないが叔父であろう。そちも休みたければ休んで良いのだぞ」


「いえ!お家が大変だというのに、某まで休むわけには参りませぬ」


 阿部大蔵はそう断言しているが、今にも泣きそうなのは誰の目から見ても明らか。しかし、主家が大変な折に私事で休むわけにはいかぬとは、困ったものである。


「大蔵よ。お家のことは案ずるな。わしも城主になって何年も経つ。いつまでも童ではないのだ、たまにはわしの御守を休んでもばちは当たるまい」


「されど……」


「くどい!ならば、わしからのめいじゃ!休め!そのような陰気な顔で出仕されても、みなに要らぬ気を遣わせるのだ!はよ休め!休まんか!」


 さすがの阿部大蔵も、主君である広忠にそこまで言われては休まずにはいられず、その日は正午に帰宅していった。


「殿、ああまで阿部殿を叱っては……」


「おお、御前か。なに、年寄りは頑固になっていかん。頑固な老人にはあれくらい言わねばならん。御前も覚えておくとよいぞ」


「はぁ、心の片隅に留めておきまする」


 得心しておらぬ様子の田原御前であったが、彼女の表情が晴れないのには別な理由がある。そして、広忠もそれが何であるかは痛いほどよく分かっていた。


「殿。父は、戸田の家はいかが相成りましょうか」


「いかがと申してものう……」


 潰されるなど口が裂けても言えない広忠は、返事に困った。知多半島の戸田一族は水野の攻勢を受けて青息吐息であるし、今橋城を包囲されている戸田弾正も苦しい立場にあることは言うまでもない。


 城を枕に討ち死にするのか、はたまた今川に降伏を願い出るかによっても、相成る形も異なる。そして、降伏を願い出たとして、今川方がそれを呑むか否か。


 ただ一つ言えるのは、城籠りを続けても戸田の勝利はあり得ないということ。どのみち、敗者としての扱いを受ける事だけは間違いないのだ。


「この広忠には分からぬ。舅御の命運を握っておるのは今川であるからな」


 その言葉に、田原御前はただただ父や兄たちの無事を祈るばかりであった――

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