第4話 悲劇
天文十三年、竹千代が三歳となった年の九月。当主・広忠は十九歳、正妻の於大の方は十七の年である。
道閲入道が亡くなった晩夏より季節は隣へ移ろい、秋が訪れた岡崎城にて父母と子の三人、ゆったりと家族団らんを楽しんでいた。
「かかさま、これは?」
庭先から一枚の葉を手に、父母の元へ持ってきたのである。我が子が持ってきた葉っぱを受け取った於大の方は慈しみ溢れる表情で我が子からの問いに答える。
「それは桐の葉と申して、古来より桐の葉が落ちるを見て秋を知るのですよ」
「コライ……?」
「これ、於大。桐の一葉など、竹千代には分からぬであろう。綺麗な葉っぱねぇ、と言っておけばよいのじゃ。竹千代もそれで得心いたすであろうに」
「心外な仰せ。この子は未来の松平を背負うのです。今から、教えられることは何でも教えておかなければ」
教育方針をめぐる父と母の言いあいを、小首をかしげながら見つめる竹千代。言っていることの意味、どうして言いあっているのかという背景を察することはできない。
だが、言いあったまま自分を見てくれないことに腹を立て、ついには泣き出してしまった。
そんな折、額田郡百々村を領する青山
「殿!緒川よりの使者が参り、なんでも火急に耳に入れたき儀があるとのことにござりまする」
「火急にとは穏やかでない。よし、丁重に本丸へ案内せよ」
「
青山藤右衛門がすすすと下がっていくのを尻目に、広忠は妻と子に向き合った。水野からの使者が来たことを知った於大の方は何も言わず、目を閉じて首肯するのみ。
年が変わってからというもの、下野守率いる水野家との関係は悪化の一途をたどっていた。そんな水野からの使者というのだから、ただ事ではない。
広忠は「すまぬ」と思いながら家族の時間を切り上げ、使者を引見するべく青山の後を追う形で移動していく。
「なに、下野殿は当家との同盟を破棄すると……!?」
「はい。我が主は左様に申しておりました。つきましては、広忠殿のご正室・於大の方は離縁とし、ただちに水野へお返しになるように、と」
「うぬっ、口上はそれだけか!」
愛する妻と離別するように言われた広忠ははらわたが煮えくり返る思いであった。それは、刀を抜き、目の前の使者を斬り捨てて鬱憤を晴らしたいと思ってしまうほどに。
通常、同盟関係が破棄へと至った場合には、嫁いだ女性は離縁され、実家先に返される。
しかし、嫁いだ女性がその後も嫁ぎ先に居続け、対立する両家の和睦回路となる状況もあった。だが、それは両家の関係に修復する見込みがあれば、の話。
早々に嫁いだ於大の方を返せと言ってくるあたり、水野家と広忠ら岡崎の松平家の関係は修復不可能、いや、水野家には関係を修復する気もないという方が正しいか。
広忠、於大の方、竹千代にとってはまさしく突然訪れた悲劇という他ない。乱世に吹き荒れる風は、仲睦まじい家族にも辛くあたってくる――
ここで、懸命に水野家との縁をつなぎ止めるという選択肢を取ることも頭に浮かんだ広忠。しかし、この状況が長引くことで一番苦しむのが誰なのかを考えると、胃に穴が空く想いであった。
「殿、いかがいたしまする?」と阿部大蔵。その瞳は決断を広忠に委ねている。何より、目の前で十九の若き主君が苦しんでいるのを見ていられない、さながら悩み苦しむ子を見守る父親のような眼であった。
いや、その広忠を案じる視線は一つではない。石川安芸、大久保新八郎、大久保甚四郎、内藤
秋の風が吹く岡崎城の本末にて、広忠は決断を迫られた。いや、誰に迫られるでもなく、答えは使者の言葉を聞いた時から出ていた。
「よし、立ち返って義兄殿にお伝え願いたい。この広忠が妹御と離縁すること、快諾したとな」
「か、快諾……?」
「そうじゃ、快諾したと伝えてくれい。後日、離縁のうえ苅谷まで送り届けるであろう、ともな」
「しかと、しかと承りましてございます。では、これにてご免!」
――ひょっとすると斬られるのではないか。
使者はそう思っていたのか、無事に言付かって帰れると分かるなり、顔色が変わった。あとは、この広忠の言葉を水野下野守信元へ伝えるのみなのだから。
「殿……」
「よい、新八郎。何も言うな。これで水野に遠慮せず、思い描くままの政ができようものぞ」
広忠は強がっていた。その表情は重臣たちが下がっていく間、変わらずであった。重苦しい空気の中、最後に阿部大蔵が退出すると、広忠は側に控えている小姓をかえりみて一言。
「太刀を持て」
そう命じた通り、小姓が差し出した佩刀を受け取ると、空へ抜き打ちをくれていた。その抜き打ちに込められているのは水野家への怒りではない。ただただ、愛した
その後、庭へ出た広忠は二太刀、三太刀と宙を舞う落ち葉へ向けて斬撃をくれていく。切り裂かれた落ち葉が地へ落ちる。
「ふっ、落ち葉……か。松平と水野の結びつきとて、このようなものか」
両断された落ち葉を見ながら、先ほどのやり取りが脳内で反芻する。
松平蔵人を追放しなければ、水野右衛門大夫が存命ならば……たらればというものは尽きないもの。過ぎたことを考えたとて詮無いこと。
しかし、広忠にとって、詮無いことを反芻することで平常心を取り戻すことに成功していた。
「よし。今宵は於大のもとを訪ねることとする」
そう決めた広忠の動きは迅速であった。決断した人間の行動とは古今問わず迅速である。
星月夜の空の下、奥へ続く廊下を進み、まもなく会えなくなる正妻の元へ足を運んでいく。広忠の突然の訪問に驚きつつも、於大の方は手を取って部屋へ上げた。
灯火がゆらめく、二人きりの空間。もうこのように過ごすこともない、と双方ともに分かっているだけに、悲痛な空気が漂っていた。
「殿……」
「昼間のことは聞いたであろう。わしはおことと離縁することを決めた、決めたぞ」
「はい。それは存じております。兄から申し入れがあったとのこと。まこと、兄の身勝手な振る舞い、兄に代わってお詫びを……」
「よい、何も今宵はそなたに頭を下げさせたくて来たのではない。心行くまで語り合いたいと、こんな夜更けに参ったのだ」
於大の方の手を握り、真っ直ぐな瞳で妻を見つめる広忠。そこにいたのは、松平家の当主ではなく、於大の方を愛する一人の男であった。
「おことの兄は、知多郡を着々と制圧しておるそうじゃ。今勢いに乗る水野と手切れになったこと、本意ではない。わしは、つくづく当主が嫌になった」
「そのようなこと、申してはなりませぬ」
「いや、いっそおことが当主であったならば、もっと良い決断ができたであろう」
「いいえ、いいえ!」
強くかぶりを振る於大の方の瞳から、涙がこぼれ始めていた。
「すまぬ、泣かせてしもうた」
「殿も、泣いておるではござりませぬか。殿はこの岡崎の城の主ですぞ。泣いてはなりませぬ」
「うむ、うむ。もう泣かぬ!この広忠が涙を流すのも今宵を最後といたそうぞ」
「では、わたくしも今宵を最後に泣きませぬ。岡崎の城主の正室が女々しいと言われては、殿の名に傷がついてしまいまする」
夫妻は『今宵限り、もう涙を流さない』と心に誓った。しかし、それは今宵に限って泣いても良い、ということの裏返し。
二人は涙を流しながらも、於大の方が岡崎へ嫁いできた日のこと、竹千代が生まれた日のこと。三年という月日の中で起こったことを心残りのないよう語り合った。
「殿、竹千代は大きくなりましたなぁ」
「顔立ちはそなたに似て、ふくよかになって参った」
「まぁ!この頃になれば子供とはこう、ふくよかになるものです」
「そういうものかの」
「そういうものにございます」
先に笑ったのは広忠であった。間髪入れず、於大の方も笑いだす。この一室では、己をさらけ出すことができる。
そんな空間も、まもなくなくなろうとしている。そう思うと、広忠の心に淋しいという想いが押し寄せてくる。
「殿、一つお尋ねしたき儀が。水野と手切れになった暁には、苅谷からお攻めになるおつもりでしょうか」
同意を求めるような口調でありながら、広忠に否とも応とも言わせずに言葉を連結させて来る於大の方。
「どうであろう。水野を攻めるなど、夢想だにしないことよ。ただ、攻めるのは松平ではなく、水野の方ではなかろうか」
広忠としても、水野と事を構えることなど本意ではない。何より、冷静に彼我の戦力を鑑みれば、攻められるのは水野ではなく、松平――この岡崎ではないのか、と。
「
岡崎よりもずっと南、三河国宝飯郡形原を領する形原松平家広。海に面する所領で、領土の接する深溝松平家、幡豆小笠原氏とのいさかいが絶えない地である。
そんな形原松平家四代当主・松平家広の正室こそ、於大の方にとっての姉・
この於丈の方の生母は水野信元と同じく大草松平昌安の娘。すなわち、水野信元との縁は広忠以上に強い家といっても過言ではない。もし水野家との縁が切れれば、広忠とも敵対を表明する可能性すらあるのだ。
「のう、於大。このように松平をまとめ切れておらぬ広忠と、水野家も知多郡も掌握しつつある水野下野。開戦となれば、いずれに軍配が上がると思うか」
「それは……」
於大の方には応えることなどできなかった。兄と夫が戦う状況で、自分の愛する夫が負けるなど、言えるはずもない。
「わしは水野との縁が切れたら、西は水野、東は牛久保の牧野と戦わねばならぬ。これでは挟み撃ちじゃ。ははは……」
力なく、悲しげに笑う広忠。信孝を追放した時よりこうなることは分かっていたであろうに、といえばそこまでなのだが、於大の方は外交について何か言える立場ではない。
しかし、広忠には諦めてほしくなかった。もっと、己の決断を、己自身を信じて逆境に立ち向かってほしいと願ってしまうのだ。
「殿、もうお会いすることも叶わなくなりましょう。ゆえ、竹千代が継ぐ、この松平の家をお守りくださいませ。この期に及んで、この苦境への泣き言は許しませぬ。決して、竹千代を宿無しにすることだけはあってはなりませぬ」
この言葉を最後に、於大の方は口を利くことはなかった。広忠も、於大の方が言いたかった言葉の重みを、これから背負っていかねばならないものの重みを受け止めたのであろう。彼もまた、口を利くことはなかった。
ついに、別れの日は訪れた。
「お屋敷さま。とうとうお別れの日が参りました」
「おお、雅楽助ではないか。して、殿は?」
「はっ、恐れながら……水野の者を見送るは当主の務めにあらず、とかように申しておりました」
「……それを聞き、安堵しました。最後に、
於大の方からの言伝を預かる間、まだ若い酒井雅楽助政家は「はい、はい」とだけ繰り返しながら、むせび泣いていた。
これほど、真っ直ぐな家臣を持てた仕合せな主君は、古今東西どこにもおるまい。声を殺して泣いている酒井雅楽助を見ながら思う於大の方なのであった。
その後、於大の方とその一行は岡崎を離れ、矢矧川を渡っていく。彼女は実家・水野氏の三河国刈谷城に返され、椎の木屋敷で暮らすこととなる。
一方、秋の虚しい風が吹き込む岡崎城内では、広忠が伯母・随念院を呼び寄せていた。
「伯母上、お頼みしたいことがございます」
「源次郎との間を取りもて、ということかえ?」
「いえ、松平源次郎親乗の件ではござりませぬ。頼みたいのは、竹千代の養育にございます」
「竹千代の養育を妾が……?」
随念院の言葉に、無言でコクリと、静かにうなずく広忠。嫡男・竹千代の養育を任せられるだけの教養人として、真っ先に頭に浮かんだのが随念院であったのだ。
養育を任せられる老臣も幾人か心当たりがあったが、三歳にして母と生き別れになった竹千代を思えば、養育にあたるのも女性の方が良いと広忠は考えたのであった。
「いかがでしょう。お受けいただけますでしょうや?」
「広忠殿のお言葉、しかと聞き届けました。
かくして、己の願いを聞き届けてくれた伯母の一言に、頭の上がらない広忠なのであった。
時に、竹千代三歳。それは母と引き裂かれる、辛い年になってしまったのである――
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